表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/59

51話

 しばらくうとうとして眠りについたと思うと、寒さでふと目が覚める。背中に冷気が這い上がってきて、寒さで震える。それでも眠たくて、その睡魔と寒さとの間で夜中、僕はうろうろしていた。

 朝、目が覚めると、悟の言ったとおりに、昨日飲みかけで放っておいたコップの酒が氷になっていた。手元の懐中電灯で照らしてみてみる。そして腕時計に視線を移して時間を確認する。まだ4時を少し過ぎたところだ。テントの中は真っ暗で、夜明けはまだまだ先だと暗闇が告げている。隣を見ると悟は寝息を立ててぐっすり寝込んでいる。起き出すにはまだ早い時間だが、これ以上シェラフに包まっていても眠れそうになかったので、起き出すことにした。

 外に出ると真っ暗で、鋭いナイフのその切っ先で、頬を切りつけられるような冷気が身にこたえた。指先が凍りそうだった。僕は自分の指先に息を吹きかけ、ランタンに灯をともした。昨日、焚き火用にと取っておいた木片がテントの脇に転がっている。雪に濡れないようにシートを被せておいたので、大丈夫。すぐに火が起こせるだろう。僕はその木片を積んで、バーナーと着火材で火を起こした。ちらちらと赤い火が木片の間に見え隠れし、やがて大きな炎になる。

 まだ夜が明けきらない暗い雪の平原に、そこだけがまるで生き物のように揺らめき、ぽつんと赤い色をともす。僕はその火で凍えた指先を暖める。指先に感触が戻ってくると、ポットに水を入れ火にくべる。何かの映画で観た。こんなシーン。火を起こし、ポットにお湯を沸かしてコーヒーを入れ、それを飲みながら夜明けを待つ。漆黒からダークグレー、そして灰色を含んだブルー、やがて夜明けが近づくと乳白色の空へと。


 遠くで鳥が鳴くような声がした。こんな静かな時間にひとり身をおいていると、現実の自分が住んでいる世界が、本当に思いもよらないほど遠い所にひっそりと現実味をなくして崩れ落ちたままになっている。そんな夢とも現実ともつかぬような想いをひとりめぐらせる。

 夜と朝の境目の時間。不思議な感覚だ。誰もいない。誰の意識もこの僕の時間を邪魔しない。焚き火と自分の吐く白い息だけだ。そして寒さを感じる感覚だけが残される。

 そうしているうちに東の空が徐々に明るくなってきた。一面に広がる薄いブルーグレーの空の切れ間から乳白色の空が遠慮がちに顔を覗かせている。今は曇っているけど多分徐々に晴れてくるだろうと思っていると、

「早いな。」

 ふと後ろで声がした。その声で僕の意識は一気に現実に引き戻される。

「悟。」

「眠れなかったか?」

 そう言って眠そうに目をこすり、僕の側に来てその鼻先を僕の頬に押し当てる。彼の冷たくなった鼻先の感触にくすぐったいような感じを覚える。子供のような仕草。彼の目を見る。ふいに笑みがこぼれる。

 そう、それでも半分は僕の意識はまだ夢の中だ。

 そして彼も。


 お湯が沸いた。白い湯気が薄暗い平原に立ち昇る。それでコーヒーを作り、彼に手渡す。僕も同じようにホーローのカップに黒い液体を注ぎ、それを飲みながら朝食の準備をする。東の空がだいぶ明るくなり、ランタンの灯りで手元を確認しなくても楽に作業が出来るようになった。空が白み始めると、悟もテントを片づけ始める。僕らは朝食が出来るまで、黙々と己のそれぞれの作業に没頭する。朝食用に、昨日のキムチ鍋の残りにレトルトのご飯を入れ雑炊にする。そしてフライパンでソーセージを炒めていると、ふいに左の目の奥がずきんと痛んだ。手元の視界がふと一瞬白くなった。その様子に気づいた悟に

「どうかしたのか?」

 と、声をかけられた。

「いや。」

(具合が悪くなったらすぐ言えよ。)

 初日にそう言われた彼の言葉が頭に浮かんだ。

(二日酔いにしては長いな。風邪をひいたのかなあ。)

 そう思ったが、それでも体調の不良を彼に告げることはやめた。悟はちょっとの間、じっとこちらの様子を伺っていたが、僕が何でもないふうに作業を続けていると、それきり何も言わず片づけを続けた。


 火にあたりながら朝食を食べていると、徐々に太陽が昇り辺りが明るくなり始めた。雪の平原のはるか向こうに聳える山頂を眺めていると、高い頂きの屋根の向こうから白い朝靄がゆっくりと立ち昇り、そして空へと消えていく。そして山の足元にまとわりつくように覆っていた白い靄も徐々に風に流れて、空の高い所へと吸い込まれていく。朝日に照らされて明るく輝く白い雲が、青空と共に大きく、まるで絵画のようなコントラストを描き出すと、やっと実感として僕らの周りのものすべてが動き出したことを感じる。ぴーんと張りつめたような朝の冷気の中に立っていると、体中の古い細胞がすべて新しいものへと入れ替えられるような、そんな気がした。

「行こうか。」

 僕が山の方を見ていると、早々に荷物を片づけた悟が声をかけてきた。

「ああ。」

 僕らは大梨平を後にし、歩き始める。僕らがテントを張った大梨平を足元にはべらせるようにして銚子ヶ岳がそびえる。僕らが今日目指すのは、その銚子ヶ岳の登山道を少し上がった所にある水晶平だ。目的は行く道筋にある樹氷の森を見ることと、水晶平から見る三方連邦だ。本当は違うルートで行く予定だったが、吾郎さんにだいぶ言われたらしい。遭難させる気かって。悟が考えていたのはいつも叔父さんと行くルートで、かなりアップダウンのきつい道筋が続くルート。で、しかも水晶平よりもう少し上の方まで行くつもりだったらしい。


 吾郎さんに言われて変更したルートは、初心者でも登れる傾斜のあまりない水晶平に続く道だ。ブナやナラが点在する森林を抜けると、スキー場のような広いなだらかな平原に出る。その三角地点に景観のすばらしい開けたところがあるらしい。時間にすると2時間程。このくらいなら何とか。とは、思ったが、すぐに林道から脇に反れる登山道に入ると、その考えが一気に払拭された。

 雪が膝下まであり、ラッセルしながら進む状態だ。雪面にスノーシューの先を蹴りこんで、雪の中にステップを切るようにして登る。ストックでバランスを取り、片足の膝を軸にしてスノーシューを後ろに振り上げてから、雪面にスノーシューの先をしっかりと蹴りこむ。しっかり雪面に入ったのを確認し、踏み込んで体重を乗せて立つ。そして反対の足で次のステップを切って登る。その繰り返しだ。

最初はバランスを取りながら蹴りこむことがうまく出来なくてふらふらしていたが、何回か繰り返しているうちにコツがつかめてきた。そうして細い急登を登りきると、少し幅の広い道に出たので、身体を横向きにして登る。

「スキー場で斜面を登る時みたいだな。」

 と、声をかけると、

「ああ、でもお前うまいわ。雪山初めてとは思えん。」

 息もきらさず悟が答えた。

「運動神経いい方だな。」

「ずっと野球やってたからね。」

「ああ、そうだったな。イメージわかんけどな。」

 と、笑った。


 それでも数10分歩いただけで、息が上がった。気温は氷点下マイナス10度近いはずだが暑くて汗が吹き出る。彼が振り返り、振り返り声をかける。

「大丈夫か。休むか?」

 大丈夫だと答えるが、それでも無理しない方がいいからと休憩をすることにした。立ったまま水分を補給し、チョコレートを広げる。やっと余裕を持って周りの景色を眺めることが出来た。まだ林の中で、ブナやミズナラの木々に覆われている。林の隙間から真っ青な空がちらりと顔を覗かせている。 木々の細かい枝の先までが樹氷になって凍りつき、あたり一面は真っ白な雪の林だ。

「天気が良さそうだ。」

 悟は満足そうだ。

「この分なら一日大丈夫そうだね。」

 と答える。

 そして、その場所で5分ほど休憩をし、又歩き始める。さらに少し登って開けた地点まで出ると、辺り一面の林の木に、その枝の先々までが樹氷になっていて、陽の光を受けてきらきら輝いている。風が吹くとその風に乗って氷が当たり一面に飛び散り、まるでダイヤモンドみたいだった。その陽にあたった氷のかけらが目に飛び込んでくるように感じて、ふとめまいがした。目の前を白いものがふっと横切ったように思えた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ