47話
僕たちは、日が昇り樹氷が消えていくのを見るため、待つことにした。まだ日が昇りきらないため風が冷たく、突っ立ていると寒いので、僕らは雪で即席のテーブルと椅子を作ることにした。大きな雪玉を作り、何かの時に雪を掘って避難する穴を掘らないといけないかもしれないということで、折りたたみの小さなスコップを持ってきた。それで雪玉を叩いたり角を取ったりして、形を作った。
作業をしていると次第に身体が温まってきた。その雪で作った椅子の上にアルミのシートを引いて、ガスコンロでお湯を沸かした。そのお湯でコーヒーを作る。やれやれやっと温かい飲み物を飲んで休憩が出来るとほっとした。
「疲れた?」
悟が聞いた。
「いや。」
「二日酔いだろ。頭大丈夫?」
すごい、よくわかるなと感心すると、顔見てりゃわかるよと言った。そしていつもと状況が違うから具合が悪かったりしたらすぐ言えよ、とつけ加えた。
時計を見るとあれから30分は経っていた。
「まだかな。」
「もうそろそろだろ。」
新鮮な朝の空気が流れていた。冷たくてひんやりして、それでも生まれたての新鮮な空気を感じる。 僕は横に座っている彼の顔を見た。コーヒーの入ったマグカップを暖めるように両手で囲み、じっと一点を見つめている。黒のニットキャップを目深に被り、いつもは生やしたことのない無精ひげを生やしている。それがひどく大人びて見えた。そして真剣な目。その一瞬を見逃すことがないように、一心に見つめている。樹氷が飛び去る様子はそんなに綺麗なんだろうかと思った。カラマツやケショウヤナギが樹氷をまとい、真っ白な雪で覆われた広がる湿原を見て、これでも充分綺麗だと思っていた。
いや、彼はその一瞬にして崩れ去る美しい瞬間を待っているのだ。それが自分の元に訪れるかどうかなんてことは、本当は何の確信もないことだ。そんな美しくてはかない一瞬が訪れるかどうか、自分の中で賭けをしているみたいだ。まるで、それはそんなことはありえない、あってはいけないような夢をみているようだ。そう、まるで僕と彼のことのようだ。
彼の横顔を見つめる。
(そして最後の旅。もし彼が待っている瞬間がやってきても、それを2度と僕と一緒に見ることはないだろう。)
胸の奥が痛んだ。彼は何を思っているだろう。何も語らない。
時計を見る。40分経った。
その時だ。山肌を舐めるようにして、日が作る影が徐々に移動している様をじっと眺めていると、日が完全に田代湖の上に躍り出た。一面に日の光がまるで粉を吹きかけるみたいに、湖を取り囲む林の木々の上に降りかかる。すると木々に張りついていた樹氷が魔法のように軽やかに、その身を今までの住処から日の光の中へ移動させる。それがきらきらと輝いて、一面宝石が飛び散ったかのような美しい光景を作る。僕は見惚れた。風に乗ってその宝石が自分のすぐ近くまで来るような気がした。
僕らは黙ってその光景を見ていた。ほんの一瞬。時間にすると何分、いや何秒?まるで夢みたいだ。
「まるで夢みたいだ。」
僕が心の中で思った台詞を瞬時に彼が口にした。そして満足そうに目を細め、口の端をあげて笑った。そして続けた。
「隆博と見られるなんて。」
僕はどきっとした。
「ひとりで見ても綺麗だけど、こういう景色って、ひとりで見ると何だか孤独を感じるんだよな。だから良かったよ。」
僕はなんて言っていいかわからなくて、黙ってうなずくと、
「美しいって儚いってことなんだよな。」
ぽつんとつぶやく。あの時のあの言葉。扶美もそう口にした。だけど今の僕にはこの言葉は別れを連想させる。切ない思いで、僕は彼の言葉を耳にした。
そして樹氷が飛び散って朝日がまんべんなくその姿にあたって活動をし始めた湖を眼前にして、僕らは名残惜しげに、ガスコンロなどを片づけ始めた。
(儚い、そう。美しいって儚いんだ。そしてこの時間もさっきの樹氷のように一瞬にして後方へ飛び去って、2度と戻らないんだ。)
何だろう。美しい瞬間を見た後って何でこんなふうに胸がしんみりするんだろう。多分彼も同じことを思っているに違いない、そう思った。
2人で休憩した跡を片づけ、その場を後にした。振り返ると、僕らが作った急ごしらえの雪の椅子とテーブルが広い雪の湿原の中にぽつんと立っているのが見えた。あの雪の椅子とテーブルも確かにあの美しい瞬間に立ち会ったのに、数日後には溶けて消えてなくなっているのだろう。そう思うとなんだか寂しくなった。だけど、僕らはそれを口にすることはなく川沿いの道を進んでいった。
テントを張る予定の大梨平のキャンプ場までの道を、川沿いに上流をさかのぼるような形で進んでいく。段々と雪が深くなっていくのがわかる。スノーシューで雪を踏み潰すようにして歩くのだが、時折バランスを崩してしまう。
「大丈夫か?」
時折、彼が振り返り声をかける。
「ああ。」
少し頭が痛いような気がして、すっきりしない。先ほどお昼を食べた時に薬を飲んだのだけど、こんなふうにいつまでもすっきりしないような二日酔いは初めてだ。
調子が出ないなあと、思いながら歩いていると、そんな僕の様子が気に掛かるのか悟は度々振り返って声をかける。大丈夫だと答えながら、彼の背中を追うようにして歩いていると、ふと頭に浮かんだことがあった。
(そうだ。まだ日にちを聞いていない。)
東京へ行く日にちのことだ。吾郎さんの家で2人が話しているのを聞いてしまったけど、直接彼の口からは聞いていない。
(聞いてみようか。)
聞いたからといってどうなるものでもない。彼は東京へ行く。僕は又元通りの生活に戻るだけだ。
あの朝、彼は何もかも捨てて、お前だけいたらいいと口にした。だけど、それは一時気持ちが高ぶって思わず口にしてしまったことで、もしそれが悟の本音だとしても、乃理子さんと産まれてくる赤ん坊を見捨てるわけになんていかない。
どうしたらいいのか。どうすべきなのか。そんなことわかりきっている。
だけど、聞いてみたい。はっきり彼の口から。そう、別れをだ。
その方がすっきりする。だけど、その時、僕は冷静でいられるだろうか。
今まで、お互いの思っていることなんて、話して確認しあうべきではないと思っていた。そうしたところで何かが変わるわけではないし、聞いて余計にお互いつらい思いをするだけかもしれない。でもこうして一緒にいられるのはこれが最後だろう。最後だと思えば思うほど、その思いは大きくなっていく。胸を指すような焦燥感にかられる。このまま何もなかったかのように、お互いの生活に戻っていく。樹氷を見たときに作った雪のテーブルと椅子は数日経てば崩れて、春になって暖かくなったら溶けて消えてしまう。まるで現実、僕らがそこに存在などしなかったように。
(聞いてみようか。)
また思いが頭をもたげた。行ったり来たりだ。歩きながらあれこれと思案する。ふと視線を川の流れの方へ移す。こんなに寒くて周りは凍ってしまうのに、何故川は凍らないのかな。流れているからだよな。
物思いにふけっていると、又声をかけれらた。
「休憩する?」
ぼんやりして悟の声を聞き逃した。
「何?」
「休憩するかって聞いてんだよ。」
彼が仏頂面で立ち止まった。