46話
「すごい!」
思わず歩いていた足が止まる。こんな綺麗な山々は初めて見る。誰も足を踏み入れてはならない神の領域。朝日に照らされて神々しいまでの輝きを放つ山々。太陽の光が当たる角度によって山肌に陰影が出来ている。雪を被った渓谷のその白い部分が、切り立った象牙の肌を連想させる。まだ上の方には靄がかかっていて、その稜線ははっきりとは見えない。緩やかに、時には荒々しく、手を繋いで広がる釣屋根。自分の方に迫ってくるようなその存在感に圧倒される。
「山が動いている。生きているよ。」
「おもしろいこと言うな。お前。」
悟が鼻で笑った。
だって見ていると、朝日が少しずつ本当に少しずつだけど、その照らす角度を変えていく。それがまるで山が生き物のように動いているように思えるんだ。
ぼーっと見とれている僕に彼が説明する。
「俺のこの指の先、わかるか?」
「あれが西三方だ。その横に並んでいるのが奥三方。そして前三方だ。」
彼の指差す方向を目で追う。すばらしい大パノラマだ。
すばらしい被写体を、腕の良いカメラマンがその卓越した技術で写真に収めた物を見て、なんて綺麗なんだろう、なんて素敵なんだろうって思うけど、実際にその景色を見た感動は、写真で見た時の感動とはるかに大きな違いがある。実際、その場所に立ってみるとみないとでは雲泥の差だ。その景色の中に立ってみて、現実、その場の空気を吸い、風を肌で感じ、その時の気温、つまり熱いとか寒いとかを感じる。そうゆう視覚以外の五感で実際感じるものって、本当に凄いと思う。今の僕は五感全部でこの景色を堪能していた。
「すごいね。」
又、声に出してみる。
「さっきから隆博は〝すごい、すごい〟ってそれしか言わないんだから。」
悟はザックを降ろして、それに腰掛けタバコに火をつける。
「だって本当に凄いよ、きれいだ。」
「冬山初めてだもんな。」
彼の隣に腰をかけようとすると、
「雪の上に直接座るな。」
と、注意された。
それで同じようにザックを降ろし、それに腰掛けて聞いた。
「何故?」
「体温が下がるんだよ。ちょっとしたことだけど気をつけた方がいい。」
そうか。
彼はゆっくりタバコを吸いながらぼんやり三方連邦を目で追っていた。
僕はその紫煙の流れが気になった。
「山へ来てタバコはやめなよ。」
せっかくの景色が煙で台無しになるような気がした。
「うん、ごめん。この先は吸わないよ。」
そう言いながらもゆっくりと煙を堪能して、おもむろに胸から携帯灰皿を取り出す。タバコの火を消して、携帯灰皿をポケットにしまう。
「これからちょっと行った所に林道の分岐点がある。そこから川を挟んで左岸へ行く道と右岸へ行く道がある。」
彼が地図を見せた。
「どっちへ?」
「こっちだ。しらぬだの池がある方、右岸へ出る道へ。そこからは雪があるからその分岐点でスノーシューをはこう。」
そしてまた林道を歩き始める。道には雪が積もっているが、たいして歩きにくいほどではない。少し歩くとその分岐点が見えてきた。なるほど、ここからは結構雪がある。普通の靴ではやはり歩きにくいかもしれない。悟に教えてもらって初めてスノーシューを履く。デッキの大きさがちょっと気になると言うと、あまり意識しない方が歩きやすい、左右のバランスが崩れて歩きにくいからと、彼は言った。 あまり雪のない平らな所で少し歩いてみて、スノーシューの感覚を掴む。
「前に出すようにして歩いてみて。ストックをうまく使え。雪面を蹴るようにすると疲れる。体重を移動させながら、前に出した足に体重を乗せたら後ろの足を前に出して、今度はそこへ体重を移動させて。」
教えてもらったとおりに歩いてみると、すぐに感覚がつかめた。綿の上を歩いているみたいで、不思議で結構面白い感覚だ。
「雪が深くなったら、スノーシューで平らに雪を押しつぶすような感じで歩くと結構楽だ。この先はだんだん雪が深くなっていくからな。」
真っ白なふわふわした新雪の感触を、身体全体で楽しみながら歩いていく。30分程歩くと眼前に池が見えてきた。川かと見間違うほどの大きさで、池の周りは雪で覆われていて、誰もそこへ降りた気配はない。だけど動物はいるらしい。所々何かしらの動物の足跡が点在している。
これがしらぬだの池らしい。池のあちこちから枯れ木が点在して、それが雪を被り、この世の終わりのような悲壮感が漂っている。彼に聞くと、この池は大正時代に聖岳が噴火して、その泥流が川を堰き止めて出来たのだという。後方に先ほどみた三方連邦がそびえ、枯れ木がちょっと寂しい感じがするが、素敵なコントラストだ。僕らは池を眺めながら、転々としている動物の足跡が何なのか、あれこれと思案してみた。
「夏なら鴨とかリスとか結構見るけどなあ。」
池の周りは結構広いスペースがあって、夏場などは絵を描きに来ている人や、池で泳いでいる子供たちとかもいるらしい。そんな情景が嘘のように今はひっそりとしている。
小さな足跡はよく見ると、4つの足跡がT字型に並んでいる。横2つに並んでいる方が後ろ足だとすると、これはうさぎだなと、悟が言った。
「うさぎ?」
「雪の上に出ているヤブや、雪の重みで垂れ下がった枝から、枝や皮を食べてるんだよ。その辺に隠れて様子を伺っているのかも。」
潜んでいるうさぎを脅かさないように静かにその場から離れた。
この先に、又湖があって湿原になっている。そこまで行ってからひと休みしようと彼が言った。本当は釜トンネルから歩き詰めで、途中途中休憩はとってはいるものの、座ってゆっくりするような休憩はまだとっていない。僕は少しバテていた。本当のことを言うと昨日の酒がまだ少し残っていた。
そこから田代湿原はすぐだった。田代湖という湖の周りを囲むように湿原の原が広がっている。もちろん今は雪で何も見えないが。田代湖は、しらぬだの池よりひとまわりほど大きな湖だった。池の中央に真っ白い靄がかかっていて、それが幻想的でとても綺麗だった。横に細長く30センチほどに伸びた湖面にはうっすらと氷が張り、湖の周りを取り囲むようにブナやカラマツの林がそびえ、ケショウヤナギがうっすらと雪をまとっていた。まるで絵本の世界だ。
「あ、樹氷だ。」
悟が叫んだ。
僕が雪だと思っていたのは樹氷だった。よく目をこらして見ると、湖の周りの木々の枝々に氷が張っており、それが一面に広がっている。
「へえ、樹氷なんだ。初めて見る。」
珍しそうに眺めていると、
「めったにないんだ。こんなふうに樹氷が張っているのは。」
樹氷が張る条件は天気や気温、湿度などに左右される。よく晴れた日の朝晩は気温がぐんと下がる。その温度差が絶対条件らしい。今日は快晴になりそうだ。確かに昨日の晩はひどく寒かった。そして風がなかった。それも条件らしい。それにしても悟はいろんなことを知っている。それを言うと、すべて叔父さんの受け売りだと言った。
「どうしたの?」
彼が腕時計を見て、思案顔をしているので聞いてみると、
「まだ日が昇りきっていないだろう。あの方向から日が射して来ると、一瞬にして木々の樹氷が溶けるんだ。樹氷が風に乗って流れていく様はそれは綺麗なんだって。」
「綺麗なんだって、っていうことはまだ見たことはないってこと?」
「ああ、まだチャンスに恵まれなくて。」
彼の指差した方向を見ると、まだ山の岩肌に陰がじっとりと張りついていて、それが徐々に動いているのが見えた。
「どのくらい?」
「30分後くらいかな?」
「待ってみる?」
「そうだな。」