44話
「文さん、変なこと聞いてもいいですか。」
「何や?」
「文さんは子供の頃から悟のこと知っているんですよね。」
「そうやな。」
「最初に吾郎さんが悟のこと、生傷が絶えん子やったって言ったんですけど、あれは?」
文さんは黙った。聞いてはいけないことだったんだろうか。僕はばつが悪くなって気まずい雰囲気を打ち消そうと、
「いや、やっぱりいいですよ。それより、もうお湯このくらいの熱さでいいですよ。」
と笑った。すると文さんは代わりにこう答えた。
「隆博。お前さんになら話しても悟はかまわんと思っているだろうと思うから、話すわ。」
「あの子がここへ来始めた頃、悟を風呂に入れようとして着替えを持ってきた時に、見たら、体中に細かい傷がついておったんや。すぐに変やと思って。隆司にそれとなく聞いてみたら、あの子の親父さんが。」
(ああ、やっぱりそうか。)
子供に自分の敷いたレールを歩かせようとする威圧的な父親の姿が目に浮かんだ。反発していた彼に親父さんは面白くなかったんだろう。
「腹の傷跡は?」
「見たんか?」
「ちらっと。いつ頃の傷?」
文さんは答えた。小学校高学年くらいの時の話らしい。彼の母親が浮気をしていたのが発覚したらしく、それに激昂した彼の父親が母親を責めたらしい。その時に母親に手をあげた父親に反発した彼に矛先が向かったらしいが、詳しいことはそれ以上文さんも知らない。母親は従順で父親の言いなりになるような人だったらしいが、暴君である夫から逃れ安らぎを求めたかったんだろう。その母親をかばった彼に、妻に向けるべきの怒りを彼に向けたのか。
「隆司がそのことをずっと気にしておった。自分には子供もいないし、悟をひきとりたいと何度も、何度も、あれの父親と話をして。」
「何故、お母さんは悟を連れて離婚しようとしなかったんですかね。」
「わからん。あれの母親のことは。隆司はあれの母親の兄弟だから、だいぶ母親にも説得したとは思うがな。とにかくあの子の父親は首を縦に振らんくてな。中学を卒業した時に、隆司が後見人になってとにかく父親の元から離したんや。それが悟の希望でもあったしな。」
「そうですか。」
そんなつらいことがあったんだ。そんなところはおくびにも見せずにいつも明るくて、強気で。でも、時々ふっと寂しそうな、疲れたような顔をすることがあった。彼の心の内の闇を見たような気がした。
窓の外で薪がぱちぱちと燃える音がする。窓の外から夜の冷気が入り込んで、遠い所で何かが鳴く様な音が聞こえた。少しの間僕らはお互い口を聞かずに黙り込んでいた。すると、文さんが思い切ったように声をかけた。
「隆博。」
「はい。」
「うちなあ、今日お前さんに会って思ったんや。」
「何をですか?」
「さっき、あそこでみんなで食事をしておった時に、悟がじっとお前さんを見ておった。あんな目をうちは初めて見たよ。長年、悟を見て来たけど、あんな安心したような顔を初めて見た。大勢の人に囲まれていても心はここにないことをずっと気にしておった。でも、今日はあの子の心はここにおる。それがはっきりわかったよ。」
彼女は言葉を区切った。
「どうしてなのかも。」
僕はちょっとの間、答え様子がなく黙っていた。何と返事をしていいものか。彼女は知っている?頭の良い勘の鋭い人物に見受けられる。僕らの関係を気づいているのか。
黙っている僕にさらに彼女は話を続けた。
「隆博。悟にはお前さんが必要だと思う。支えになってやってくれ。」
風が木々の間を通り、又遠くの方で鳥のような鳴き声が響いた。
僕は言った。
「はい。」
とだけ短く答えた。複雑な気持ちだった。
風呂から上がると2人は碁を並べていた。
「どうだった?風呂。」
悟が聞いてきた。
「すごく温まるね。初めてだよ、ああいうお風呂。」
「そうか。」
文さんが来て彼に言った。
「悟も入ってきな。」
「うん。」
そう言って彼が席を立ったので、僕が吾郎さんの碁の相手をすることになった。
「腹はふくれたかな。」
「ええ、文さんは料理が上手ですね。どれもおいしかった。」
「ほうか。」
「田舎の飯ばっかりで若いもんには口に合わんかと心配しとったが。」
「いえ、そんなこと。」
碁をしながら吾郎さんが明日のことを話し始めた。
「さっき、地図を見ながらコースを少し変えさせたでな。あいつ、やっぱりちょっと強行なコースを立てておった。」
(やっぱり。)
「隆司と何回も行っているコースだけど、雪山をやったことのないもんにはちょっとえらいと思ってな。」
「助かりました。」
そう笑うと、
「天気も悪くないみたいだし、ほんとに真っ白で綺麗だぞ。」
「吾郎さんも?」
「ああ、わしも隆司と何回か行ってみたことがある。」
「そうですか。」
吾郎さんは明日必要な装備は揃えて車に積んでおいたと話した。そして、明日途中まで同行する旨を話した。
「でも、何から何まで。」
「いんや、かまわんよ。あんなとこに車を留めておいたらバッテリーが凍ってしまうわ。しかも借りた車らしいが。」
彼の話では、別荘地から釜トンネルの手前までは車が入れる。そこから先は、車は通行止めなので、トンネルの手前に車を留めて行くつもりでいたのだが、日帰りならいいが途中でテントを張るつもりなら、夜あの場所に置いておくと寒さでバッテリーが凍ってしまうことがあるらしく、それを心配してそこまで車で乗せて行ってやるというのだ。
彼と明日のことをあれこれ話していると、悟が風呂から上がって来たので、文さんが果物をむいて持ってきた。そしてさっきのお菓子を食べながら、お茶を飲んで話をしていると夜も更けてきたので、僕らはそろそろおいとますることにした。明日は5時前に吾郎さんが迎えにきてくれるらしいので、あまり夜更かしするのも良くないと思って。
車に乗り込むと、後ろのハッチバックにはテントやらスノーシューやらの装備がつんであった。
「忘れ物はない?」
と聞くと、
「ああ、吾郎さんと一緒に積んだから大丈夫だよ。」
彼が答えた。
文さんと吾郎さんは庭先まで出て見送ってくれた。お礼を言って車に乗り込むと、吾郎さんが家の中に入っていく姿がルームミラー越しに見えた。でも、文さんは僕らの車がうーんと遠くまで、その姿が見えなくなるまで庭先に立って見送ってくれた。それを僕は車のサイドミラーでずっと見ていた。
文さんの姿が見えなくなると、僕は悟に文さんの話をした。
「おもしろい人だろう。」
「ああ、想像していた感じとはずいぶん違ったけどね。」
「どんな想像?」
「悟が目尻を下げてあの店で菓子を選んでいる姿を見て、ずいぶんと上品で優しげな感じの老婦人を想像していたんだ。でも、いきなり初対面で呼び捨て。〝隆博、台所を手伝え。〟だもん。」
悟は大きな声で笑った。
「うん、うん、いつもあの調子なんだ。ぶっきらぼうに見えるけど、口も悪いけど、とても優しいんだ。本当に人のことを細かいとこまで気を配って考えていてくれるしね。面倒見も良いし。」
ああ、彼は本当に文さんのことが好きなんだな。
「悟は文さんに似てるね。」
「どこが?」
すっとんきょうな声を上げる。
「口が悪いところ。」
「ああ、違いない。」
ひと呼吸おいてつけ加える。
「面倒見が良いところもね。」
そう言うと彼は照れたように横を向いた。