43話
文さんがビールを取りに行って席に戻ると、今度は僕の話題に話を振られた。
「隆博くんは悟と同じ学部なんやて?」
吾郎さんが聞いた。
「ええ。」
あまり学部内では顔を合わしても話したことはほとんどなくて、ワークショップで同席したのがきっかけでのつき合いだと説明すると、
「まじめなヤツでな。新入生でも、飲み会やサークル、合コンなどで遊んでるやつは結構いるのに、ほんと真面目に勉強してて、ワークショップでもすごい成績良くてな。俺んら上のヤツからも評判が良くてな。礼儀正しくて。」
悟が僕を褒め始めたので、
「やめてくれよ。そんなんじゃないよ。飲めなかったからそういうのに出なかっただけだって前言ったじゃないか。」
そう言うと、
「え、こんだけ飲めるのにか?」
吾郎さんがびっくりした。
「それを飲めるようにしたんだよ。俺が。」
悟が自慢げに言った。
「悪いことばっか教えよって。」
文さんがまたぽかりとやった。
「そんなことないですよ。先輩は勉強もスポーツも何でも出来るし、下の者にも面倒見が良くて、僕ら後輩連中の間では人気あるんですよ。結構勉強も見てもらったし、今のアルバイトだって。」
「アルバイトは何を?」
「俺が前やってたの引き継ぎさせたんだ。」
「翻訳のか。」
「ええ。」
「隆博は翻訳家になるのが夢なんだ。だから目標を持って勉強している。遊び半分で親に金出して貰って、のんべんだらりと来ている連中とは違うよ。」
「あんまり褒めると後で何かあるんかなあって思っちゃうよ。」
と言うと、
「別になんも。褒めて悪いか。」
悟が目を細めた。
吾郎さんが
「まあ、だいぶ褒めとかんと明日の強行ツアーにはつき合ってもらえんからなあ。」
笑って彼を叩いた。
「そうかな。えらいかなあ。吾郎さん。」
急に心配そうに悟が訪ねた。
「うん、今年は雪が少ないから、そんなに積雪はないと思うけど。隆博くん、雪山は?」
「初めてです。」
神妙に答えると、
「山は?」
兄貴に連れられて行った山の名前をいくつかあげると、登山もたしなむ吾郎さんはふんふんと聞いており、おもむろに
「でも、雪山は初めてだとあんまり傾斜のひどいところはやめたほうが無難かも知れんぞ。」
と答えた。
「そうかなあ。」
「うん。」
そしてふたりして地図を広げて明日のルート変更の話をし始めた。それを脇で聞いていると、台所で作業をしていた文さんが来て、
「あれんら話しているうちに風呂に入らんか?」
と尋ねてきた。
「風呂?いいんですか?」
「今沸かしておる。入っていけば帰って寝るだけだから楽だ。」
「風呂からあがったら美味しい林檎をもらったから、むいてやる。それに悟にもらった菓子を食べないかん。」
好意に甘えることにした。
文さんに案内されて風呂へ行く。勝手口から裏へ回るよう言われたので、家の外にあるらしい。風呂のある建物は別になっていて、トタンと木板で囲った小屋が見えた。文さんに促されて中に入ると、なるほど、釜風呂だ。初めて見る。
「すごい。」
感心すると、
「こういう風呂は初めてか?」
「ええ。」
ひとりで入るにはちょっと大きめで、丸い楕円形の鍋を連想させるような、内部が少し赤茶けたような鉄の釜の風呂桶があり、脇にすのこが敷いてあり、脱衣場が作ってある。風呂桶の真横に窓が作ってあり、そこから外をのぞくと、下に薪をくべるようなかまどが作ってある。
「毎日沸かしているんですか?」
尋ねると、
「うん、結構大変なんでな、夏場は毎日沸かしておったが、冬場は2、3日に1回くらいかな。」
「そうですか。」
「うちが下で薪をくべてやる。湯加減が少しぬるいかもしれん。」
文さんは風呂桶の下に板を敷いて入るように指示して外へ出た。熱くなった釜底に足が触れると火傷をするからだ。言われたとおりにして風呂桶に身を沈めると、鉄の匂いなのか何なのか、何ともいえない香ばしいような、草のようなかぐわしい香りがした。湯が柔らかくて身体の芯まで暖まるような感じがした。
「湯加減はどうや?」
外から声がした。ぱちぱちと薪が燃える音がした。
「いいですよ。」
「少しぬるいか?」
「もう少し熱い方が好きだな。」
「そうか。」
文さんが薪をくべる音がした。
「どこの温泉よりもいいですよ。こんなお湯初めてだ。」
「そうか、普通の家庭用のホーロー釜よりこういうのが暖まるからな。」
「うちもここへ来て、こんな風呂は手間がかかるし、改造して普通の家のような風呂にしようとあの人に言ったんやけど、あの人はこの風呂が気に入っていて。そのうち、うちもこの風呂が気に入ってな。冬はほんと暖まって湯冷めしにくい。」
確かにじんわりとゆっくり身体の芯から温まるような気がする。
僕は薪をくべてくれる文さんと、窓越しに話をしながら湯船につかる。
「文さん?」
「うん。」
「先輩は…。」
「悟と呼んどるんじゃろ。」
ああ、聞こえていたのか。それで僕は言い直して
「うん、悟はいつも友達とか誰か連れて来ていたんですか?」
「そうじゃなあ。高校2年くらいが最後やったかなあ。それまでは部活の友人やら学校の友達やら連れてきおったが。近所の子供たちもおったし、隆司と2人で来る時もあったし、いろいろやな。」
「そうですか。」
「悟はいつも大勢の人に囲まれている。学校でもそうでした。僕なんかはどっちかというと人に囲まれていると疲れてしまう方で、2、3人の仲間といる方が気が楽でした。だから、人気のある人でいつも大勢の人に囲まれている悟が僕のことを覚えていて、ちょくちょく僕がバイトしている店に遊びに来てくれたのがとても意外で。」
「そうか。だけどあの子は寂しい子や。」
「確かに大勢の人に囲まれていることが多い。うちに来る時も友達を何人か連れてきて。でもうちはいつも気になっておった。」
「何がですか?」
「心がそこにないんや。」
「えっ?心が?」
僕は聞き返した。文さんは言った。
「ああ、人に囲まれて楽しそうにしていても、心ここにあらずっていうのかな。心底楽しんでいない、心はそこになくてどこかに行ってしまっているような、そんな気がして。」
僕はいつも仲間に囲まれていた悟の姿を思い出してみた。
「皆に人気があって、スポーツも勉強も音楽も、何もかもスーパーマンみたいに秀でていて、そんな人なのに?」
「それがあの子の鎧だと、思ったことは?」
僕ははっとした。海辺で聞いた話。僕に抱かれて放心したように、砂の上に寝転がっていた彼の表情を思い出した。
「うちはあの子が可愛い。うちんらにも子供がおった。女の子で小学校3年やった。一人っ子やったんやけど、ここへ来る前に事故で。」
文さんは沈黙した。そうだったのか。
「ここへ越して来て、隆司があの子を連れてきて。うちは悟に自分の死んだ娘を思っとたんやろうな。それもあって可愛くて。」
僕は聞いてみた。
「ここへ来たばかりの時は、だいぶ今とは性格が違ったみたいですね。」
「うん。きつい目をして、無口で、大人なんか信用しとらんというような顔してうちんらを受つけんかったな。だいぶ長い間。」
「それを叔父さんが?」
「隆司には懐いておった。うちんらが隆司にとって気の許した友人であることが、悟にもだいぶわかるようになると、うちんらにも懐くようになってきたが、初めて会った時のあの子のきつい目が忘れられんくてな。」
「そうですか。」
きつい目。人を信用しない目。そんな目をした子供の頃の悟を僕は想像してみた。そしてそれと同時に脳裏に浮かんだのは朝見たあの古い傷跡。温まってきた僕は湯船から出たり入ったりしながら、聞いてみようかどうか迷っていたが、思い切って聞いてみることにした。