42話
「まあ、めでたいことやし。乾杯するぞ。」
吾郎さんが陽気に言った。
「隆博くんは手伝いで、まんだ何も飲んどらんしな。」
彼はコップにビールを注いでくれた。
「ありがとうございます。」
コップにビールを受けると
「かわいそうに。初対面でいきなり手伝わされてなあ。喉かわいたやろ。」
吾郎さんが文さんの方を向いた。
「ええが、この子うち気に入ったわ。」
(ほら、そうだろ。)
僕の方に悟が目くばせをした。
文さんはにこにこと、さっきとはうってかわった柔らかい表情で、料理を僕らに取り分けてくれた。
「これ何ですか?」
小皿に乗せられた、大きな雑魚のような魚の唐揚げを僕は指差した。
「稚々子や。」
「ちちこ?」
「魚?」
「そうや。から揚げにして佃煮にしたもので、この辺の郷土料理だよ。」
悟が説明した。食べてみると香ばしくてとても美味しい。
「酒のつまみじゃな。これは。」
「この辺で捕れる魚なんですか?」
聞いてみると、吾郎さんは釣りが趣味で、だいたい魚は自給自足らしい。
「この稚々子は夏になるとこの辺の川ではぎょうさん捕れてな。網を持って行って、すくうと面白いように捕れる。それを佃煮にして保管しておき、冬場に食べるんだよ。」
吾郎さんと文さんは、家の前の畑で自分たちが食べる分の野菜を作り、釣りをして、だいたいは自給自足の自然の生活を楽しんでいるらしい。別荘地の管理などで外貨を稼ぎ、必要な物はさっき僕らが買い物をした街まで行き、買ってきて生活をしていると言った。
「彼の叔父さんのお友達なんですよね。」
悟に聞いたことを尋ねてみると、
「ああ、隆司とは元の職場の同僚でな。」
「そうなんですか。」
「T市にある商社に勤めていた。あれ47歳の時やったなあ。ああいうサラリーマン生活が性にあわんくてな、どうしたもんかと悩んどった時やった。ちょうどリストラの波が押し寄せてきおって、早期希望退職者を会社が募ったんや。こりゃいいわと俺はさっさとそれに応募して、たんと退職金をもらって辞めて田舎で暮らそうと。文にはだいぶ反対されて離婚寸前になったけど。」
「結局、お前さんが押し通したんや。」
文さんは呆れ顔をした。
「それで、前から住みたかったこの土地に引っ越してきて、つてもあってな。今の別荘地を格安で譲り受けたんだ。その管理とこうやって自給自足の農業生活でなんとか食べているんだが、この生活が俺には合ってると思ってる。」
「うちはこんなへんぴなとこ嫌やったんやけどな。」
「でも、文だってすぐに馴染んだんやんか。」
「そうか?」
「こいつは色が白うて弱々しくてなあ、こっち来てからやん。こんなん丈夫になって強うなったんは。」
ええ、この人が弱々しいって?
前の文さんの姿が想像つかなかった。
「でないとやっていけえへんかったんや。」
僕は文さんのことを、猫のような感じの女性だと思ったが、なるほど、若い時はたぶん線が細くて繊細な感じの女性だったんだろうと思った。田舎の生活で大変たくましく、強くなったんだろうと今の文さんを見て納得した。
座敷の円卓の上に並んだ料理を、文さんがあれこれと取り皿に取ってくれた。中でも美味しいと思ったのは、お豆腐をステーキにして、鉄板に長芋の擦ったのを流し込んだ物だった。ちょっと豆腐が硬くてしっかりとした食感で、美味しいと彼女に言うと、それもこの辺の料理だといった。
嫌いな食べ物はないのかと聞かれたので、別にないと答えると、彼女は
「ええことや。悟は好き嫌いが多くてな、大変やったんやで。」
悟は罰の悪そうな顔をしたが、それを聞きながらもくもくと黙って食べていた。
「おお、そうやな、だいぶ治ったけどな。あれは別荘地を管理し始めて2、3年経った頃からやなあ、隆司が悟を連れて来始めたのは。文が何作っても箸をつけんくてなあ。ほとほと困ったよ。」
「ええ、そんな我儘だったんですか?」
僕は笑った。だって、今だってあれはまずい、これは嫌だと食べ物に関してはうるさいんだから。鰻はだめでしょ、スパゲティだって僕は大好きだけど、悟は嫌いだし。あと何だっけ?
「あんまりこういう家庭料理みたいなの食べたことなかったんだよ。それだけだ。」
彼は反論した。
「まあ、来始めた頃はほんととっつきにくい子でなあ、きついし、しゃべらんわ、食べんわで。でもこの辺の生活が面白かったんやろうな。そのうちに馴染んでね。この子の兄弟やら、その辺の近所の子供やら連れて、夏は川へ泳ぎに行ったり、釣りをしたり、冬はその辺の山に入ってクロスカントリーやらスキーをしたり。隆司には子供がおらへんかったもんで、悟のことをたいそう気に入っていて、ほんとの子供みたいに夏も冬も連れて遊びに来ておったからなあ。」
「叔父さん、今は?」
悟が答えた。
「仕事で海外出張。イスタンブールだ。もう3年はあるね。」
「そうやな。」
吾郎さんが答えた。
「隆司がおらん間に悟が結婚したんて聞いたら、びっくりするやろうな。」
「うん。一応手紙では知らせた。」
「そうか。」
そこで吾郎さんはちょっと言いよどんだ感じで、彼に聞いた。
「親父さんは?」
「うん。承諾してる。」
「そうか。」
「最近、どうなん?」
文さんが聞いた。
「うん、普通。」
「結婚のことはなんて。」
「うん、喜んでくれたよ。」
親父さんとはうまくいっていないことを聞いたことがあった。それでも結婚が決まった頃から少しずつではあるが行き来していると言っていた。たぶん、ふたりもそれを心配しているんだろう。
「そうか。」
そこで、文さんは興味津々で相手の女性のことを尋ねた。それについて悟は簡単に答えただけで、あまり深くは説明しなかった。
「文さん、ビールないよ。」
彼は空になったビンを指差して、追加をねだった。
「はい、はい。」
話を変えようとした彼の意図が僕にはわかっていた。