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35話

 この冬一番の寒波が通り過ぎた後、構内は真っ白な雪に覆われていた。

 講義を終えた僕は久しぶりにゆっっくり構内を歩いてみることにした。

 石造りの大きな正門をくぐると、すぐ右脇に事務局があり、図書館、講堂がある。まん前に南校舎、その左脇に西校舎、少し歩くと、東校舎があり、研究室塔が並んでいる。その奥にエルム、つまりハルニレの木が聳える森がある。それを抜けると、学生の交流会館があり、そこを左に折れると延々と続くポプラ並木がある。所々にベンチがあり、学生らが話をしたり、本を読んだり、昼飯を食べたりしている。

 ちょうど適度な距離の良い散歩道で、夏の新緑の季節には、短い夏を惜しむように、ポプラの木々が鮮やかな緑の葉をつけ生き生きと輝いている。そのポプラ並木を通り抜けると、ちょっとした池があって、数羽の鴨やアヒルが水面をうろうろと餌を啄ばんだり、水の中に潜ったりしている。

 僕は夏場の新緑の季節にこのポプラ並木を歩くのが好きだ。どこもかしこも構内は緑で覆われる。  木々の下を歩けば、日中でも強い日差しを感じることはない。木漏れ陽がゆらゆらと顔を照らし、心地好い乾いた風がシャツの中を通り抜け、髪を撫でていく感触が好きで、よく歩きに来る。授業の合間をみてこの散歩コースを楽しみ、池まで行って鴨たちに餌をやり戻ってくる。


 この地方は夏が短い。一年の大半を雪で覆われる。先日まで降り積もった雪が道の脇に押しやられ、溶けかけたアイスクリームのようになっていた。

 並木道まで歩いてみようかと迷いながら、エルムの森を抜けたところで、4、5人の同じ学部の先輩たちに出くわした。頭を下げて挨拶をして脇を抜けようとすると、

「おい、隆博。」

 声をかけられた。

 振り向くと、その集団の中に悟がいて、彼らと別れこちらに歩いてくるところだった。

 原稿を届けに行った朝以来、会っていなかった。

「どうしたの?学校で会うなんて。」

「もう授業はないんでしょう。」

 並んで歩きながらそう言うと、

「ああ、もう最後だからなあ、構内を歩いて見納めしようかと思って。後、ちょっとした手続きとか、しないといけない用事があったんで。」

 さっき一緒にいた先輩のうちのひとりが、こっちを向き大声を上げた。

「おい、悟。来れるんだろうな。」

「ああ、後でな。」

 そういって手を振って答えている。僕は去っていく先輩らに頭を下げて見送った。

「何?」

「うん、後で飲み会。」

「最後?」

「ああ、まあそうかなあ。」

 僕は急に寂しい気持ちにとらわれた。

「なんや、元気ないな。」

「いや、別に。」

「寒いなあ、お前こそ何してるんだ。」

「ちょっと池まで歩いてみようかと思って。」

「授業は?」

「もう終わった。寒かったらいいよ。悟、戻れば。」

「そっけないな。」

「だって。」


 そうか、もう学校へ来ないんだ。最後に構内を見納め、最後にみんなで飲み会。そんな話を聞いて、悟はもう去ってしまうんだなと改めて思い、そして自分の置かれている状況を考えたらとてもハイな気分になんてなれるわけがない。

「まあ、いいわ。俺も見納めや。ポプラ並木を歩いてみる。」

 そう言って僕の髪の毛をくしゃくしゃと掴んだ。元気のない僕を元気づける為か。

 気を取り直して歩き出すと、すぐに並木道にたどり着いた。雪で真っ白になったこの並木道もなかなか精悍な感じがしていい。道の脇には先日まで降り積もった雪が押しやられていたが、今朝から降り続いた真新しい雪が真っ白な雪の道を作っていた。それらが光を受けて所々きらきらと光っている。誰もいない。誰も足跡をつけていない。

「だいぶ積もってるな。」

 悟が言った。

「そうでもないさ。」

 冬の間外を歩く時、この辺では膝まであるスノーブーツを履くのが常識だ。中心部の街へ行く時は滑り止めのついた靴かスニーカーでいいけど。そういうわけで、今日の僕たちも例外に漏れずスノーブーツを履いていたので、雪道を歩くのがどうということもない。

 先に歩き出そうとすると、

「ちょっと待った。俺が先だ。」

 悟が僕を遮った。

「何で?」

 訝しげに立ち止まった僕には気にも留めず、先にどんどん歩き出した。

「足跡のついていない道に、一番乗りで足跡をつけるのは気持ちがいいなあ。」

 などといっている。

 そうか、何もついていない雪道に一番初めに足跡がつけたかっただけか。相変わらず子供っぽいところがある。

「また、隆博呆れてるだろう?」

 振り返っていたずらっ子のように口の端をあげた悟を見て、ああ、あきれているよと首を振った。彼はにやにやと笑っている。


 そして彼の所まで追いついていき、又並んで歩き出す。ふくらはぎの辺りまで雪が積もっていた。なかなか歩くのが大変だ。

「戻る?」

 彼に聞くと

「いや、いいよ。たまにはこういうのも面白いよ。」

 と笑っている。そして次に急に真面目な顔をして

「そういえば、あの…。」

 と口ごもった。

「何?」

「バイト。辞めちゃうのか?」

 翻訳のバイトのことか。

 僕は首を振った。

「あの時はちょっと自棄になっていただけだ。よく考えたら、自分がやりたかったことを引き受けただけだ。悟はチャンスというか、きっかけをくれたんだ。」

 あの時は、悟が自分が出来なかったことを押し付けただけだと思った。だけど、違う。押し付けられたからやってるんじゃない。自分の夢なんだ。将来、やりたい仕事に繋がることだ。

「そうか。良かった。」

 悟はほっとした笑顔を見せた。

「心配してたんだ。隆博がもう辞めてしまうと言い出すかと思って。」

「大丈夫。森下さんもよくしてくれるし。」

「そうか。」


 今日の悟は言葉少なだ。

 何かを思いつめているようだ。少し硬い表情をした横顔を見て、そう思った。

 それに気づかない振りをして、僕は黙って歩いた。

 この雪の日に、構内のこんな奥まで歩いてくる人もいず、当然、雪掻きもしていない道を、歩くというよりも押しやるようにして進むと、数分で池に出た。

 池は凍っていて、むろん鴨もアヒルもいない。枯れた草や木の上に雪が積もっていて、冬枯れの寂しい雰囲気をかもし出していた。池の脇にちょっとした急ごしらえの東屋があって、自販機がぽつんと一台だけ置いてある。

「しかし、こんな所まで歩いてくるとさすがに凍えるわ。」

「こんな物好きは僕らくらいだろうね。」

 悟はポケットから小銭を出してコーヒーを買い、僕の手に渡してくれた。手袋を外し、凍えた指先で暖かいカップの感触を楽しむ。ふたりして凍った池の水面を眺めながらコーヒーを飲んでいると、

「こないだは殴ったりしてごめん。」

 悟がすまなそうにつぶやいた。

「いいんだ。」

「俺、お前の気持ちを考えなさすぎていた。バイトを辞めるなんて自棄になっていたのは、何故かわかっていたのに。」

 僕は首を振った。

「だけど、ひどいことを言った。僕は。」

 現実としてどうしようもないことを口にしたんだ。聞けば悟だってつらいことくらいわかっていたのに、自分の気持ちを抑え切れなくて、言ってしまった事を後悔していた。原稿を届けに行った帰りのこと。

「隆博に責められて当然なんだ。」

 彼は肩を落とした。僕はその姿を見て、急に寂しさにとらわれた。

「それに。」

 悟は迷ったように池の湖面に視線を泳がせた。

 彼が何を言いたいのかわかったような気がした。でも、言わせたくなくて、彼のコートの袖を引き寄せた。

「ちょっと、コーヒーこぼれ・・・」

 言いかけた彼の口を塞いだ。冷気で冷たくなった唇はすぐに熱で熱くなる。

 彼の気持ちを確かめるように舌で弄ると、それに反応するように彼の熱い吐息がすぐ側に感じられた。

 顔を離すと、珍しく顔を赤く上気させている。

「急にびっくりするよ。」

 いつも彼のリードだ。僕から彼を求めたりしたことはない。積極的な僕の反応に驚いていることが手に取るようにわかる。

 こぼれたコーヒーが雪の上に茶色い染みのように広がる。それに視線を落とした悟は黙り込んでしまった。


 たぶん言いたいことはお互いいっぱいあるだろうに、だけど実際は何ひとつ口に出来ない。その中のひとつでも言ってしまえば僕らの関係の終わりを示唆することになるかもしれないと、お互い神経を尖らせているのかもしれない。

 先のことなど何も考えたくない。こうやって雪の降る湖面を二人で見ていることだけが大事なことのように思える。ただ、ひとつだけわかることは、こうして悟と一緒にいると、僕が欲していることは彼と一緒にいる時間だけなのだとわかる。

 黙り込んだ彼の横で、僕は冷静に考えを巡らせていた。

 もう、これで学校も見納め。ふたりでこの池に来ることももうない。なのに、悟は何故、別れると、もう会えないのだと、僕に告げないのだろう。僕だって聞きたいわけじゃないけど、実際もうこうしていられる時間なんてあと僅か。どちらが先に流れていく時の無常さを口にするのだろう。僕はその時、冷静でいられるだろうか。自信がない

 不安な胸の内のように薄い灰色に曇った空から、細かい雪がちらちらと舞いだした。

「雪降ってきたな。」

 悟が空を見上げる。

「そうだね。戻ろう。」

 自販機の横にあるごみ捨てに、カップを丸めて捨てる。帰り道を歩き出してふと後ろを振り返る。東屋に佇んだまま、悟が動かない。

「どうしたの。雪がひどくなるよ。」

「隆博。」

「うん。」

「一週間、いや3、4日でもいい。出られないか?」

 雪が、彼の頭の上に白い綿のように舞い降りる。あの時、彼が僕のバイト先に来た夜。髪の毛についた雪を反射的に振り払おうとして思わずひっこめた手。僕は彼の方へ歩み寄り、髪の毛についた雪を手でつまんだ。白い結晶は瞬時に僕の指先で溶けて消える。

「悟の好きな旅?」

「ああ。」

 一瞬の間をおいて僕は言った。

「いいよ。出られるよ。」


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