34話
次の講義の為、教室を移動していた時だった。
「隆博!」
名を呼ばれて振り向くと、振り向きざまに殴られた。渡り廊下に無様に尻もちをついたまま、鉄拳の相手を確かめると健二だった。
「健二。」
口いっぱいに鉄くさい嫌な味がして、唾を吐き出すと地面が真っ赤に染まった。
「いきなり何するんだ。」
「お前さ、いい加減にしろよ。」
走り寄って僕の胸倉を掴んだ健二が仁王のような顔を近づけてきた。
「何のことだ。」
訳がわからず聞き返すと、
「おまん、理由も言わずに里佳子ちゃんと別れたんだってな。」
すぐに事情は飲み込めた。だからって何で逐一健二に言っていくんだよ。あの子も。自分のわがままを棚にあげて、僕は胸の中で舌打ちをした。
あの朝、原稿を届けに行った帰り道、彼女に携帯をかけた。
〝もう会えない。〟
〝何故?何があったの。〟
〝ごめん。本当にごめん。〟
手の中の小さな機械から、彼女が何かを言っているのが聞こえた。罪悪感が一杯に胸の中に広がる。それから逃れたいがために僕は急いで通話ボタンを切った。
もう何も考えたくなかった。彼女に落ち度なんて何もない。ただただ僕のわがままだ。誰からも離れたかった。ひとりになりたかった。
「彼女は理由を知りたいって言うんだ。このあいだ会った時もおまんの様子がおかしかったから、心配して。」
あの日のことか。あれからあの子に会っていないからな。
健二から目を逸らしたまま、黙り込んでいると、
「何やってんだ。」
人並みを掻き分けて裕樹がやって来た。
派手に倒れた物音を聞きつけ、喧嘩だと誰かが叫び、あっという間に人垣が出来た。それすら意に関せず、健二は僕を詰問していた。その場に裕樹が飛び込んできた。
「こんなとこで何やってんだよ。」
裕樹は僕の腕を掴んで立ち上がらせ、健二の背中を押して、その場を後にした。
講堂の裏口に僕ら3人は顔を付きあわせて立っていた。
「で、何。今日の喧嘩の理由は。」
健二が眉根に皺を寄せたまま、
「裕樹だって知ってるだろ。例の彼女のこと。」
「ああ、あれか。」
裕樹も事の次第は知っているようだった。
だからっていきなり殴らんでも、とその場の雰囲気を和ませようと軽い笑い声を立てた。
「いや、僕が悪いんだ。」
僕はふたりに素直に頭を下げた。
「おまんさ、最近おかしいわ。里佳子ちゃんに、おまんから別れるって言われる前に何かあったんかって聞いたら、その前の日にデート中に、おまんが気分が悪くなったって真っ青になって帰ったって。で、何か思いつくことはって聞いたら、駅前の交差点で、お腹の大きな奥さんを連れたひときわ目のつく長身の男がいたって。それを見ておまんの様子がおかしくなったって。」
「で、それさ、水木先輩だろ。背が高うて、めちゃめちゃいい男っていったら、俺んらの周りって、あの人しかおらんやろ。」
図星で、僕は何も言えず黙った。
健二は仏頂面のまま続けた。
「前も怖い先輩に誘われて行かないかんって、デートすっぽかしたんやて。それも水木先輩やろ。それに俺んらの誘い、ここんとこ続けてドタキャンしたやろ。それやって水木先輩や。」
健二たちから飲みに誘われて、出かけようとした所へ悟から電話が入ったことがあった。彼に会う為に、急に誘いを断ったことが数回あった。
彼は僕の顔から視線を外さないまま、
「どういうことや。おまんの行動、訳わからんわ。」
言われてもしょうがない。だからって言えない。悟と僕のことを。ふたりとも親友だと思う。今まで隠し事ひとつしたこともない。何でもお互いのことは話していたけど。
「まあ、俺んらのことはええけど、里佳子ちゃんに理由も言わんと勝手に会えんなんて言って、それまでだってええ加減あの子振り回して。おまん男やろ、しゃっとせんな。」
「理由を言え。理由を。」
健二が僕の肩を掴んで揺すった。
自分のいい加減さがあの子を苦しめている。悟が春には僕から離れていってしまうことがつらくて、あの子と本気で付き合おうかと思ったこともある。だけど、それはただ単に苦しい思いから逃げたいがためだ。本当は。そんな理由。里佳子ちゃんに申し訳ない。当たりまえだ。誰からも責められて当然だ。そして、やっぱりそれすら出来ず、理由すら言わずに勝手に別れを切り出した。いい加減な自分。
そんな自分とは対照的に悟は乃理子さんと幸せそうにしていた。又交差点でのふたりの様子が目に浮かんだ。
でも、あの時悟は言った。
〝このままどこかへ行ってしまいたい。何もかも捨てて、乃理子も赤ん坊も。お前だけいたらいい。〟
苦しそうに。
どの悟が本当なのだろう。あれが本音なのだろうか。
そう思った途端、胸を力任せに思いっきり殴られたように苦しくて、涙が滲んだ。
その様子に驚いた健二が、
「扶美のことやないやろ。」
里佳子ちゃんを振り回している理由。滲んだ涙の理由。それを健二は扶美のことだと思ったらしい。 僕が何年もそのことから立ち直れずに、夢遊病者のようにふらふらと真夜中に健二を尋ねていったりしたことを彼は思い出したに違いない。あの頃の僕は不意に泣き出したり、訳のわからないことを呟いたりして、周りの人を困らせていた。
「違う。扶美のことじゃない。」
僕は首を振った。反射的に悟のことが口をついてでかけた。
「本当は僕はみず・・・」
他に好きな人がいる。水木先輩とつきあっている。
言いかけた僕の口を塞ぐように、裕樹の大きな腕が肩を包んだ。
〝言うな。〟
微かに耳元で裕樹が囁いた。
「健二、理由はお前が聞いてどうする?隆博が直接その子に言わないといかんやろ。お前がそこまで首を突っ込むことじゃないだろ。」
裕樹の気迫に、
〝まあ、そりゃそうや。〟
彼は納得した。
〝隆博もいろいろあるんやろ。後は俺に任せてくれ。〟
裕樹がそう言うと、健二は、
「わかった。後はおまんがあんばようしてや。」
そう言って講堂の角を曲がって去っていった。
「裕樹。」
裕樹の顔を見ると、
「細かいことはよくわからんけど、言いにくいこともあるやろ。無理して言うことないよ。」
その時、直感的に彼は知っているんだと思った。健二は何でも口に出したり、行動に示さないとわかってもらえないけど、裕樹は何も言わなくても、察してくれたり、勘が良く気持ちの細かいところまで酌んでくれる機悟さがある。
〝何で、水木先輩よ。もうすぐ子供も生まれるんやに、あんまり飲んで歩いとんと、奥さんに愛想つかされるんやないか。隆博。おまんええんか。〟
立て続けに焼酎をお代わりしていた健二が、真っ赤な顔をして僕に絡んできた。
あの時も3人で飲んでいたところへ、悟から急に電話が入って居酒屋を後にしようとした時だ。
悟が待っていることが気掛かりで、絡んできた健二をどうしようかと困っていると、
〝ええ。行け。〟
悪酔いしているような健二の腕を掴んで、裕樹が笑って目配せをしてくれた。
ああ、たぶんあの頃から裕樹はわかっているんだ。きっと。
「健二もそのうちわかってくれるやろうし。」
彼は僕の肩に腕を回したままそう言った。
僕は学食のテーブルの向かいで、〝何をやらかしても友達でいてくれるか。〟と聞いた時、〝たとえ、お前が泥棒をしても、殺人をしてもだ。俺がお前を嫌いになることはない。そうすることには何かしら理由があるだろうし、俺はお前を知っているつもりだ。〟そう即答してくれた裕樹の男らしい確信に満ちた笑顔を思い出した。
「ありがとう。」
裕樹の顔を真正面から見て、はっきり口に出した。
彼は首を振って、
「俺んらはいいけど、彼女には理由をちゃんと言った方がいいぞ。言いにくいかもしれんが、逃げちゃいかん。」
僕の気持ちは決まった。後ろに誰かが見守ってくれてる。自分のことを理解してくれる。それが何て心強いのだろうと思った。
「そうだな。裕樹の言う通りだ。」