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33話

「間に合ったか?」

 車に乗り込むと悟がそう聞いてきた。

「うん。」

 そしてちらりと僕の頬に目をやった。

「腫れてるな。」

 そして僕の頬に触れ、運転席から身を乗り出して顔を近づけてきた。

「やめろよ。人が見てるよ。」

 森下さんの会社のほんのすぐ側の路肩に車を止めていた。オフィス街でサラリーマンが行きかう路地だ。

「見てたっていい。」

 遮る様に彼が言った。彼の唇が僕の唇に触れると泣きそうになった。軽いキスをして体を離すと、

「お前が自棄になってるの、俺のせいだろ。」

 そう言って運転席に身を沈めた。

「タバコある?」

「うん。」

 シャツのポケットからタバコを出して、僕の方へ放り投げた。それを受け取り、タバコをくわえ火をつける。僕はタバコを吸いながら窓の外を見た。午前中のオフィス街。スーツ姿のサラリーマンやOLが忙しく行きかう。タクシーの群れ。

 僕らだけが普通に回るこの世界から遠ざかっているように思えた。


「昨日連れてた子、彼女?」

 ふいに悟が口を開いた。里佳子ちゃんのことを言ってるのだ。

「あの子は。」

 口ごもった。だけど、彼女だったら何だって言うんだ。

「どうでもいいことだ。僕が付き合ってる子だとしても、悟には関係ないことだ。」

 彼が何か言いたそうに鋭い視線で僕の方を見ていることに気がついたが、窓の外を凝視したまま、僕は続けた。

「悟はいったいどういうつもりだ。あんなお腹の大きな奥さんまでいるのに、何を好き好んで僕と付き合ってる。」

 言ってからしまったと思った。こんなこと最後まで言うつもりはなかった。弱い自分。悟を責める言葉しか思いつかない。責めたところでどうなるものでもないのに。

「乃理子さんのことわかっているつもりだったけど、実際目にしたらたまんないよ。」

 理性で抑えることが出来ない。語尾がきつくなっていることも充分わかっていた。

 悟は一言も発しなかった。じっと微動出せず、僕の横顔を見ているのがわかった。彼の視線が痛いほどだった。どんな表情をしているのか。見るのが怖かった。

 どのくらい沈黙が続いたのか。彼は黙り込んでいる。僕もそのまま黙り込んだ。

 先に沈黙に耐え切れなくなったのは僕の方だった。

「ここでいい。歩いて帰る。」

 車を降りようとした。車のドアノブに手を伸ばした僕の腕を掴んで、

「送っていく。」

 彼が言った。

「いや、いい。」

「送っていく。」

「いいよ。」

 何度かそんなやり取りをしているうちに、僕は段々イライラしてきた。

 ひとりにしてくれ。自分はもう数ヶ月もたたないうちに東京へ行っちまうんだろう。僕のことなんかどうでもいいはずだ。

「いいって言ってるだろ。僕に構うな。さっさと東京でもどこでも行っちまえよ!」

 声を荒げた。


 次の瞬間、手が飛んでくると思った僕はさっと身を除けたが、彼は殴ってこなかった。重苦しい沈黙があり、彼の方を見ると、悟はハンドルを抱え込むようにして運転席に突っ伏していた。

〝泣いている?〟

 彼は押し殺した声で泣いている様だった。

 悟は腹から搾り出すような苦しげな声で言った。

「つらくないって、俺がつらくないって思ってるのか?」

 声が震えていた。

「俺が何とも思っていないって。つらくないって。平気な顔してお前と別れて東京へ行って、それでいいと思っているって、隆博はそう思ってるのか?」

 僕は答えられなかった。自分のことで精一杯で悟の気持ちまで考えてなかった。いつも強気で平然といろんなことをやってのけて、僕といる時もいつも笑っていて、だから苦しんでいるなんて、悲しい思いをしているのは僕だけだと思っていた。

 悟が泣いているのを初めて見た。胸が痛かった。

 彼は運転席に突っ伏したまま、顔を上げずに続けた。

「このままどこかへ行ってしまいたい。何もかも捨てて、乃理子も赤ん坊も。」

「お前だけいたらいい。」

 垣間見えた彼の本音。僕は何も言えなかった。その身体に手をかけてやることすら出来なかった。僕も一緒だ。本音を言えば僕も同じだ。僕たちを残して世界は回っていればいい。僕らは取り残されていい。だけど、現実は僕らを甘やかしてなんてくれやしない。


 現実は僕らの間を流れる大きな川だ。僕らはその激流を見て立ちすくむ。

 この思いを今すぐ捨てることが出来たらどんなに楽だろう。それが出来ないことはイヤというほどわかっているのに。どうして一緒にいられないんだろう。好きなのに。

 つらいのはそういうことだ。好きなのに一緒にいられない。求めているのにそれを得ることが出来ない。そしてお互いの気持ちを知っているのに、それを酌んであげることが出来ない。お互いの気持ちが一緒なのにたどり着くところがない。どんなに心の底から相手を思っていても、相手に対して何もしてやれないことが一番つらいのだ。


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