31話
そんなある日。僕は里佳子ちゃんと駅前のファッションビルにいた。
服が欲しいという彼女に付き合ってビルの中を隈なく歩き回り、やっと気に入ったファーの飾りがついたニットを手に入れた彼女と、地下のカフェでコーヒーを飲んで休憩した後、ビルを出て、駅前の大きな交差点で信号を待っていた。
休日の昼下がり、かなりの人手が出ていた。人の波に埋もれるような小柄な彼女の手を引き、青信号に変わった交差点に足を踏み出した時だ。
前方にひときわ目立つ長身の男がいた。人の波にもまれるようにこちらに向かってくる顔を見て、思わず声が出そうになった。
悟、言いかけて僕は言葉を失った。急に交差点の真ん中で立ち止まった僕の手を彼女が強く引いた。
「ね、立ち止まったら危ないよ。」
人の波が僕の肩に無遠慮にぶつかってくる。里佳子ちゃんは訝しげに僕の顔を見上げた。
悟もこちらに気がついたようだが、ふと視線をはずし、隣の人影に何やら声を掛けている。混雑する人並みが彼らの前から離れると、僕の視界の中に大きなお腹をしてゆっくり歩いてくる乃理子さんの姿が見えた。悟の手には、大きな紙袋。市街に何店舗かあるベビー用品を扱うチェーン店のロゴが眼に入った。
喉の奥が熱くなった。否応なしに現実を突きつけられる。大きなお腹をした彼女の手を引いた彼はどこから見ても幸せそうな所帯持ちそのものだ。いったい僕は何なんだ。
体中の血が足から頭に上ったようで、顔が熱くなり、体中が熱いのに、冷たい汗が背中に流れるのが気持ち悪かった。だけど、隣の彼女に気づかれぬよう平常心を装い、
「ごめん。行こうか。」
そう言った自分の声がどこか不自然で上擦っているのを感じた。
里佳子ちゃんも気がついたらしく、
「どうかしたの?大丈夫。顔、真っ青だよ。」
歩きながら、僕の顔を覗き込んだ。
「大丈夫。」
悟がゆっくりとこちらへ近づいてくる。彼は僕に気づかない振りをして通り過ぎた。すれ違うとき、垣間見た彼の表情が心なしか色を失っているように見えた。僕はその肩を掴んで、罵声を浴びせたい衝動を必死で堪えた。
〝何でなんだよ。奥さんもいるのに、子供も生まれるのに。何で僕なんだよ。〟
心の中で叫んでいた。ろくすっぽ顔を合わせることも最近は出来ないのに。幸せそうにベビー用品なんか揃えて。
わかっていたつもりでも、現実として乃理子さんの幸せそうな姿を見て、愕然となった。自分の心は自分でわかっているつもりだった。彼が東京へ行ってしまうまでの間。納得して飛び込んだつもりだった。自分の心がどう動くのか、どういった行動に走るのか、自分のパターンは判りきっているつもりでいても、本当はわからないことだらけだ。自分の心なんて。こんなに動揺するなんて、思いもしなかった。
交差点を渡りきったところで、急に身体が諤諤と震えて、止まらなくなった。気持ち悪くて吐きそうだ。今にも道路に膝をつきかねない僕の様子を見て、里佳子ちゃんが肩を抱いてくれた。
「どこかで休もうか。」
「いい。大丈夫。」
これ以上、平静さを保っていられなかった。
「ごめん。気分が急に。ここで別れていい?」
彼女は心配そうに小さく首を縦に振った。僕は彼女の返事を待たずに、その場を走り去った。
いつも心の片隅に彼がいた。心と体がいつも彼を求めていた。日常の喧騒にそれは埋もれて、時々意識の表面に現れる。心を思うに任せる時もあれば、無理にそれを意識の下に押し込めようとする時もあった。その感情に弄ばれることがひどく苦しくて、何とかそこから逃れようと、日々の営みに没頭するのだが、その意識はいつも僕を支配していた。そんな毎日が楽しく、甘美な瞬間のつなぎあわせでもある反面、それは地獄に落ちた者にしかわからない苦悩と背中合わせの毎日だ。
だけどお互い顔を合わせた瞬間、そこにあるのは心の深くから沸き立つような喜びだけだった。
心が通じ合っていると思えるその瞬間。彼が僕を見る目。あの笑うとくしゃくしゃになる目もと。
それを手に入れられるなら、地獄の使い間が僕をたぶらかしに来たとして、それが何だというのだ。 そんな気にさせてしまう彼の存在が僕の中では悪魔であり、そして天使でもある。罪悪と背徳にさいなまれて、のたうちまわり、苦しみ、それでもこの想いを手放すことは出来ない。
彼女と別れて、人混みの中をあてもなく彷徨い、深夜にやっと自分の部屋にたどり着いた。
部屋の明かりをつけ、ベッドに腰を下ろす。ひどく疲れた。体中の力が抜けてしまったようにだるくて仕方がない。このまま何も考えずに眠ってしまえたら楽だろうな。
夜の街を歩いていても、思い出すのは乃理子さんの手を引いて、信号を渡ってくる悟の姿だ。想像の中で、里佳子ちゃんを連れていない僕が、悟の肩を掴んで、交差点の真ん中で思いっきり殴り倒して、罵声を浴びせかけている。
〝どうしてだ。何故僕なんだ。行ってしまうのに。乃理子さんも赤ん坊も捨ててなんていけないのに。捨てるつもりもないのに。春になったら何事もなかったように、東京で新しい生活を始めるつもりなのに。〟
本音だ。今まで口に出そうとも思わなかったけど、今日の彼らの姿を見たら、急に自分が惨めになった。悟はどういうつもりで、僕に好きだと言ったんだ。
嫉妬だ。僕は嫉妬している。嫉妬なんて、やきもちなんて、女の子の持つ感情だとずっと思っていた。僕には無縁のものだと。思いもよらない自分の本当の感情に驚いて、戸惑っていた。
悟のことが憎い。憎くて、そして悔しくてたまらないのに。
なのに会いたい。会いたい。会いたい。
視界が薄っすらと滲んでぼやける。会いたくてたまらない。何故、僕はひとりなんだ。
携帯に里佳子ちゃんからの着信が何件か入っていた。メールにも、僕の体調を心配するメッセージが入っている。むろん、それに返信をする気力すら残っていない僕は、ベッドにうつ伏せになり、部屋のダウンライトの明かりをぼんやり眺めていた。だいぶ経ってから、暗い部屋の中に電話の留守電のランプが点滅して光っていることに気がついた。留守電が何件か入っているようだった。よろよろと立ち上がり、留守電を聞くためにスイッチを押す。
ああ、どうしよう。何件か入っているうちの2件は森下さんからだった。そのメッセージを聞いて僕は現実に引き戻された。
(堀江くん。連絡が欲しいんだけど。頼んでおいた原稿どうかな?明日の締め切り間に合うよね。いつも締め切りより前に届けてくれるから、今回ちょっと心配でね。君のことだから大丈夫だと思うけど。何かあったらすぐ連絡してくれ。)
頼まれていた原稿がまだ仕上がっていない。明日の午前中までに届けなければならない。里佳子ちゃんの買い物に付き合った後、部屋に戻りすぐに取り掛かれば間に合うとたかをくくっていた。だけど、今日のあのアクシデントのことで、すっかり原稿の事を忘れていた。でもそんなこと理由にならない。 今からでも何とか間に合わせなければ。
そう思い直し、デスクに向かう。原稿に取り掛かって数分もしないうちに、自分の胸の中にモヤモヤとした思いが湧き上がってきた。
(こんなことして何になるんだ。)
翻訳の仕事は僕の夢だ。だけど、悟の後釜として任されたこのアルバイト。何であいつの後を僕が引き受けなければならないんだ。自分が出来なかった夢を僕に押し付けているに過ぎない。悟の自己満足だ。そんなのに何で付き合わなければならないんだ。馬鹿らしい。
原稿を投げ捨てた。自分が自暴自棄になっていることはわかっていたけど、今は何も考えずに眠りたい。もうどうでもよくなっていた。
そう思って、ベッドに突っ伏した瞬間、携帯が鳴った。