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25話

 今日は客の入りが良く店内も華やいだ感じだ。クリスマスが近く、店内にはツリーが飾られ、電飾の飾りや窓辺に並んだポインセチアの赤が華やかな雰囲気を醸し出している。ここの店の客層は男性客が多いが、最近は若い女の子やカップルも目につく。

 客の応対に追われながら、ちらちらとオーナーと彼の方に目をやると、オーナーが何かを彼に頼んでいるようだ。それに対し悟が、出来ないとでもいうふうに手を振って困った顔をしているのが見えた。

(何だろう?)

 そう思っても僕は忙しくその話の輪に入れないので遠くから見ていると、悟がしょうがないなあとでもいうふうに肩をすくめ、オーナーに追い立てられるようにピアノの方へ向かうのが見えた。

(ピアノ?)


 実は店の奥にはちょっとしたステージがあって、グランドピアノが置いてある。

 ここ最近はやってないんだけど、前は歌い手さんを頼んでジャズっぽいのや古い映画に使われたムーディな曲を(これはオーナーの趣味、〝カサブランカ〟でハンフリー・ボガードがピアノを弾きながら歌う〝Times goes by〟とか)ピアノで演奏しながら歌ってもらったりしていた。

 以前来てもらっていたクラブ歌手の女性が故郷へ帰るから、と辞めていった辺りから、どうもオーナーのお眼鏡にかなう歌い手さんがいなくて、そのままピアノは埃をかぶったままだった。それでも時々は僕が掃除して、オーナーが調律もしていたので、たぶん使えると思うけど。

 何でオーナー自分でやらないの?と聞いたことがあった。だって一回レイ・チャールズをやったのを聞いたことがあって、ものすごくうまかった。でも、オーナーは俺が歌手になってしまったら店のことは誰がするんだ?って言って、聴くほうがいいなと呟いた。それっきりだ。

 悟がピアノの前に座った。

(弾くのかな?)

 そう思ってオーナーの方を振り向くと、彼は腕を組んで満足げに悟の方を見守っていた。

 鍵盤をたたいてちょっと音を合わせていた彼が、おもむろに鍵盤に指を滑らせながら歌い始めた。


Oh Danny Boy the pipes the pipes are calling

From glen to glen and down the mountainside

The summers gone and all the roses falling

It’s you It’s you musut go and l must bide


 へえ。僕は感心した。彼の甘い歌声に。こんな特技があるなんて知らなかった。人前で歌うことなんて苦手そうなのに。

 カウンターに戻りオーナーの顔を見ると、

「ダニーボーイか。いい声してるね。」

「何でもいいから好きなの一曲やってって頼み込んだんだ。」

 歌っている彼を見て、映画〝メンフィス・ベル〟のハリー・コニックJr.を思い出した。ダニーボーイはアメリカの古い古典でロンドンデリーの歌詞を変えたものだ。

 ハリー・コニックJr.はジャズボーカリストでこの映画でデビューを果たした。

 映画の中でのハリーの役は、第2次世界大戦中の1943年にナチスドイツの軍事基地を攻撃するため、イギリスから飛び立つ「B-17爆撃機メンフィス・ベル」に乗り込む若い兵士の役。その彼が兵士の慰安パーティで白けた場を救うために、飛び入りでステージに上がり歌うシーンがあって、その時彼がピアノを演奏し歌ったのが「ダニーボーイ」だ。甘い歌声と現役ジャズボーカリストの彼の歌にため息が出るような素敵なシーンだった。古い映画だけど映画の好きな母親のデッキにあったのを観たことがあった。


……Sunshine or in shadow

Oh Danny Boy, Oh Danny Boy

l love you so.


 最後のフレーズの“Danny・・・”と歌うところで彼と目が合った。

 キイから目を上げたほんの一瞬。視線をふっと横に流すような動きがなんだかセクシーでどきっとした。

 映画の中でのハリーもこのフレーズのところで、ダニーという仲間の若い兵士にじっと流し目をするシーンがある。そのシーンを思い出して僕はひとりでにやにやした。彼もあの映画を観たことがあるんだろうか。

「何にやにやしてるんだ。隆博。」

 オーナーに声をかけられてどきどきしながら

「メンフィス・ベルって映画知ってます?」

「いや。」

「ハリー・コニックJrは?」

「ああ、知ってるよ。ジャズボーカリストだな、彼は。」

 オーナーにその映画にハリーが出ていて、ダニーボーイを歌うシーンがあるのだと説明すると、なるほどね。とうなずいた。


 あちこちで若い女性客が悟のことを囁いていた。

“うまいわね。彼。” “素敵、声がいいわ。”

 近くのカウンターに座っていた女の子が僕の袖を引っ張った。

「彼ここのスタッフ?新しい歌手を入れたの?」

「いえ、スタッフでも歌手でもないですよ。あれ、僕の先輩。」

「へえ、プロなみね。」

 女の子は彼に熱い視線を送っている。僕は鼻が高かった。

「しかし、うまいですよね。彼にこんな特技があるなんて知らなかった。」

「特技っていうか、これで食ってたらしいよ、彼。」

「えっ?」

 驚く僕に説明しようとオーナーが口を開きかけたら、ちょうど曲が終わった。ステージの方に視線を向けると、ピアノから離れようと席を立った悟を、近くの席に座っていた女の子が2、3人彼を囲んで何やら頼み込んでいる様子だった。悟は困った顔をして首を振っていたが、あんまり熱心に女の子たちが頼むので、うんうんと頷きながら彼女たちが言うことを聞いていた。

「リクエストかな?」

 オーナーが見ていると、悟がこちらに人差し指を立てて合図していた。

「もう一曲か。」

 オーナーが頷きOKのサインを出すと、

 もう一度ピアノの前に座った。


I’m walkin’, yes, indeed.

I’m talin’about you and me.

I’m hopin’that you’ll come back to me.


 さっきとは違って、ちょっとアップテンポなメロディ。

 彼が歌いだすと周りの女の子たちが黄色い歓声を上げた。


「ジャズ?」

 知らない聞いたことのない曲だ。

「古い曲だね。ファッツ・ドミノの〝I’M walkin’〟だ。悟くんよくこんな曲知ってるね。いくつだ?彼。」

 オーナーは感心するように僕に説明してくれた。ニューオリンズ生まれのピアニスト兼歌手のファッツ・ドミノの1957年の大ヒット曲で、R&Bを代表する一曲。アップテンポな楽しくなるようなメロディに、わかりやすい歌詞。すぐにメロディを覚えられそうだ。

 深みのあるハスキーな彼の甘い声にうっとりした。オーナーもひとこと「惚れるねえ。」と満足げだ。細い指でキイを叩き、マイクに向かう。ときおり前髪をかきあげながら歌う彼がとてもセクシーだ。

 僕は店の壁にもたれながらその様子をじっと見ている。女の子たちが彼の歌う姿をじっと熱い眼差しで見ている。彼はそんな周りの様子など意に関しない様子で、自分の世界で音と遊んでいる。外では見せない子供のような無邪気な楽しそうな表情。リズムに身を任せて、音にすべてを委ねている。僕はじっとその表情を見ていた。

 この時間も過去になっていくのだろう。人間の記憶なんて実に曖昧だからね。今この瞬間の悟の表情も、その着ている服も、奏でているピアノの音も、後で思い出そうとしても細かい部分まではもうしっかりとは思い出せないようになってくるだろう。もうこのままここで止まって欲しいと思うような瞬間でさえ、すでにそう思った瞬間に過去の物になっていくのだ。


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