24話
(えっ?)
〝そういうの。〟
彼が僕のことを好きだと言った晩の事を思い出した。
彼が口ごもって言いにくそうにしているのは、僕らの関係のことだとすぐにわかった。迷いながら来た。そして今もこうやって一緒にいるのにどこかで迷っている。その感覚は僕にもわかるような気がした。だけど、それについて何かを答えてやれるかというと、何も言えない。
僕は座っている脇の砂を手に掴んだ。
気まずい雰囲気が流れ、僕は口も聞けずにいたが、彼は構わず一気に話を続けた。
「高校の時、部活でラクビーをやっていた。結構強くてな。いろんな大会へ。いいところまで行ったんだ。練習も厳しくて上下関係も厳しくてな。でも、いい先輩がいっぱいいて、部活以外でもいろんなこと教えてもらって、そういうの楽しくて。大会が終わると、飲むんだ。打ち上げ。その…2年の時かなあ。打ち上げでしこたま飲んで、酔っ払った先輩が自分の部屋で飲もうって。その先輩、親元から離れてひとりで下宿していて。好きな先輩だったんだけど、かなり酔ってたんだろうなあ。」
そして少しの間口をつぐんで、意を決したように言葉を続けた。
「やられちまったんだ。そん時。」
びっくりして何も言えなかった。
「ショックでだいぶ長い間立ち直れなかったな。その後、そういうの忘れたくていろんな女の子とつき合った。全く手当たりしだいだな。」
そして暗い海の方へ視線を向けて
「お前も知ってるだろ。複数の女の子とつきあってたこと。節操ないな。俺。お前にまであんなこと…。」
自分を否定していじめているみたいだ。
「そんな言い方・・・」
「いろんなこと考えた。俺、そっちの世界の人間なのかなあって。高校の時そういうことがあって、自分が自分で嫌になって普通の世界の人間じゃなくなってしまったような気がして、忘れたくて。でも、結局お前に同じことをしてしまった。嫌で嫌でしょうがないのに、本当は俺はそういう人間なのかなあって。今でもわからない。」
(僕だってわからない。)
(問われたらどう答えていいかからない。扶美のことをずっと忘れられずにいた。今だって忘れていない。なのに里佳子ちゃんとも切れていない。悟のことは好きだ。それは間違いない。だが、今まで女の子にしかそういう気持ちは抱かなかった。)
返答に困って、彼の肩に手をかけると、
「でも、隆博が受け入れてくれて嬉しかった。認めたくないって思いながら、それでも自分の気持ちをどうすることも出来なかったし。どうしていいかわからなかった。隆博が受け入れてくれなかったら、多分俺駄目になってたかもしれん。」
彼が小さな子供のように見えた。少し震えて、自分の気持ちに戸惑い、自分で自分を否定して、そして救われようとしているような幼い子供に。
彼が僕の目を見た。悲しそうな不安そうな目。
衝動的に自分の口を思いっきり彼の口に押し付けた。その反動で僕らは砂浜に倒れた。髪の毛や服に砂がつくのも構わず、むちゃくちゃに口を押し付けた。いきなりキスをされて息が出来ず、むせて咳き込む彼を押さえつけるようにして、何度も何度もキスをした。歯が当たる音がして、唇が切れて血が出てるのがわかったけど、構わず僕らは砂浜を転がるようにして抱き合った。
そうしたかった。そうせずにはいられなかったんだ。
僕らは落ちていこう。それがどこかはわからないけど。もう、ひとりにはさせない。
悟は何も言わなかった。放心したように僕にされるままだった。
波の音がした。砂まみれになった僕らは、何も言わずにじっと長い間そのままの格好でいた。焚き火が燃えるぱちぱちという音を遠くに聞いた。
何が正しくて、何が悪いのか。その基準はじつに曖昧だ。世間ではタブーだとされていることが本当は善なのかもしれないし。良いこととされていることが人間の心を蝕んでいくこともあるに違いない。
僕らはその境界線にいた。このままここに留まることはふたりにとってはマイナスになることかもしれない。
マイナス要因とは、世間一般にいわれるタブーとされることを僕らは共有してしまったのだ。
僕らに時間はない。少しずつ、少しずつ、時間がせまっていた。僕らはそのことを忘れるように、忘れたいがために、時間の許す限り一緒にいた。じっと毛布に包まって、お互いの体温を感じながら冬の夜があけるのを待った。
一緒にいて何になる。体を重ねてそれが何になる。前の僕はそう思って自分の心を封印していたけど、今はそれだけを心が欲してることだった。
ふたりでいると何もかも周りのことを忘れてしまう自分がいた。悩みがあるなら話せと言ってくれた裕樹の顔も健二も、学校の授業のことや将来の夢さえ意識の外にあった。このことが後になって僕らをどう変えてしまうか。心にどんな影響を与えるのか、何もわからなかった。今、ここに彼がいることだけが僕の心に充足感をもたらしていた。
芙美のことだ。自分の気持ちに素直になれず手放してしまったものの大きさに後悔をして、月日を過ごしたことを考えた。欲しいものを欲しいということによって、失うもの。それは必ずあるだろう。夢を見ている渦中の者にはそれが何なのか、どのくらいのものなのか推し量ることは出来ない。すべて、夢が覚めたときに見えてくるものだから。
だけど、僕はその失くしたものの多さや大きさを見て、恐怖するだろうけど、でも欲しいものを欲しいと言ったことに関しては後悔しない。絶対後悔しない。悟もそうだと思う。ずっと、僕らが欲していたものはきっと同じものだったに違いない。
どうもあの晩以来、ふたりして風邪を引いたらしかった。
当然といえば当然だな。酔っ払っているうちはいいが、酔いが覚めた途端、冬の海の寒風にさらされ芯まで冷えて、おまけに砂浜に転がっていたんだから、風邪を引いても当たり前といえば当たり前の展開だ。
店内に心地良いジャズの音色が満ちている。
僕が鼻を啜りながら客のオーダーを聞いていると、オーナーが何してて風邪引いたんだと、聞いてきた。
僕は顔が赤くなった。まさかこのくそ寒いのに、海辺で遊んでたなんて言ったら怒られる。オーナーは半分親代わりみたいなもんだから。親元を離れている僕の監視役だ。父親と彼は友人で、ここへバイトさせておけば安心だろうという母親の目論見は充分感じられた。
湯冷めしたみたいだと適当に返事をして、オーダーされたカクテルを客のテーブルへ持っていこうとしたら、ドアのチャイムが鳴る音がして客が入ってきた。
「いらっしゃいませ。」
振り向くと悟だった。
「いやあ、いらっしゃい。さ、こっちへ。」
オーナーの方が嬉しそうにカウンターへ手招きする。それを見て僕はちょっとむっとした。
僕の客なんだけど。
そうなんだ、最近オーナーは彼がお気に入りみたいだ。どうも、音楽にも(何にでも秀でていると感心するばかりだが)詳しい悟とは話が合うみたいで、ジャズのことから始まって、いろんな話で盛り上がるみたいだ。だから彼が来るとオーナーは嬉しそうに話し込むので結局、僕に会いに来てくれたのにほとんど僕とは話らしい話も出来ない。だって、僕が客の相手からカクテルまで作らないといけないんだもの。オーナーが話し込んでしまって動かないからだ。
悟は、今日は薄いグレーのシャツに、黒のウールのジャケットを着ている。
「どこへ行って来たの?」
小声で聞くと、聞こえなかったらしい。
「なんや。」
目尻に皺を寄せて笑顔をこちらに向ける。その表情にどきっとした。
よそいきらしい服を指差すと
「ああ、用事があって東京へ行って来たんだ。」
それでか。いつもジャケットなんて着ない、ラフな格好の方が多いので、もの珍しくじっと見てしまう。彼は背が高くて肩幅もあるので、ジャケットを着るととてもよく似合った。
オーナーもそう思うらしく、今日は男前だね。いつもよりもね。なんて言いながら、いつも彼が飲むソルティドッグを作りはじめる。
東京へ行ったことをそれ以上詳しくは聞かなかった。彼には彼のもうひとつの生活があるし、いろいろと用事があるらしいがあえて詳しいことは彼も話さない。
「すみません。」
背後で客が呼ぶ声が聞こえた。応対に出て戻ると、やっぱりオーナーと悟は何やら楽しそうに話をしていた。
「オーナー、ギムレットとサイドカー。」
注文すると
「隆博、作れるだろ?」
僕に任せる気だ。ここ最近いつもなんだから。しょうがなくシェーカーを振る。そして、それからずっとオーナーは腰を落ち着けたままだったので、諦めて僕は客の応対に追われていた。むすっとしたのが表情に出てたのかな。トイレに立った悟が僕の側に来て、
「むくれるなよ。後でうちで飲みなおそう。」
と囁いた。