21話
ドアをノックすると
「あいてるよ。」
返事がする。
部屋へ入ると、彼は机に向かって何か作業をしている途中だった。ネイビーブルーのコットンのセーターを着て袖を肘までたくし上げて、銀のフレームの薄い眼鏡をかけていた。
眼鏡をかけた姿なんて初めて見た。彫りの深い横顔に薄いフレームがよく似合って何だか知らない人みたいでちょっとどきっとした。
「ごめん。今、FAX流したら終わりだから。」
「何?仕事って。」
「うん、これ。急に8時までにやってくれって電話が入って。」
その用紙を手にとって見ると翻訳の原稿だった。
「使用書?」
「そう。」
パソコンの付属品、ケーブルやUSBの取り扱い説明書の訳したものだった。
「悟、こんなことしてたの。知らなかった。」
「2年くらい前からかな。ちょくちょく頼まれて。何もないときはないんだけど、急に原稿をあげてくれって言われる時がある。今日みたいにね。」
言いながら、FAXに原稿を流し込む。
「なんとか、間に合ったな。」
そういいながら携帯を手に取る。
取引先の相手みたいだ。仕上がって今FAXしたことを報告している。
「あと、郵送して終わり。」
「おまたせ。」
「うん。」
「どうした?」
「いや、すごいなあって。」
「これ?」
悟は原稿をひらひらさせた。
「だって、もうそういう仕事してるなんて。」
「アルバイトだよ。」
「実務翻訳は数が多いからね。2年ほど前に翻訳会社に登録しておいたら、ぼちぼち仕事をくれるようになって。製品の使用書やら説明書などののマニュアルが多いけど。」
「専門知識がないとむずかしいでしょ。」
「そうだな。金融とかコンピュータ関係、税や法律関係など専門があるやつは強いよな。」
「悟はパソコンやネット関係、詳しいからいいじゃん。」
「まあ、そういう関係のものが多いけど、前は何でも来てたよ。お菓子のパッケージからおむつカバーの取り扱い説明書まで。」
それを聞いて思わず僕は吹き出してしまった。おむつカバーだって。
「でも、これからおむつカバーなんてお世話になるじゃない。」
生まれてくる赤ん坊のことを指摘して、笑うと
悟はむっとしたように
「所帯じみるような話題はやめてくれ。」
ごめん。なんとなく気まずい雰囲気が2人の間に流れた。何となくタブーにしたい話題だ。これからのことを考えるとちょっと憂鬱な気分になる。ほっておいても赤ん坊は成長し産まれてくるのだから。こうしていられるのも期間限定か。それはわかっていて飛び込んだつもりでも本当は現実を見たくなかった。時間がくれば悟は東京へ行ってしまうのだ。家庭が待っている。
気を取り直したように悟が何か飲むかと聞いてきたので、ビールをもらうことにした。ビールを飲みながらその翻訳のアルバイトのことについていろいろ聞いた。
彼は僕と同じで出版翻訳をしたかったらしいんだけど、この世界では20代なんて箸にも棒にも引っかからない。30、40代でやっと駆け出し、50代になってやっとこさ一人前。それでも出来る人はほんのわずか一握りだ。本の表紙に『訳・誰それ』なんて自分の名前が載るなんて夢のような話だ。
それに比べて実務翻訳は門戸が広い。医薬品から金融、パソコン関係など商品全般の説明書や取扱書、いろんなマニュアル、会計、税理関係の書類の訳やいろんな仕事がある。
専門的な知識がないと専門用語を訳すだけではアウトだ。彼はコンピュータ関係に明るい。ソフトの使い方はもちろん、ハード関係にも通じ、ネット、インフラ、情報工学すべてに通ずる。どこでそんな専門知識を得たのだろう。この文系の学校で。不思議な人だ。
それでぼちぼちその方面の仕事をもらえるらしいけど、そうでないと登録している人なんてごまんといるけど、アルバイトのようなちょっとしたものでも実際仕事をしている人なんてほんのわずかだ。
それだけに専門知識もあり、迅速に仕事が出来る人に集中する。難しいのはわかっていたから彼はすごいなあと感心したんだ。学生なのに。
「それでも出版翻訳に比べたら仕事も多いし、門戸も広い。やろうと思えばやれんことはないよ。何事も勉強だからね。いろんなことしておかないと思って。」
でも、コース外れちゃったからねと、彼はため息をついた。生活の為に外資系の会社に就職したことをいっているのだ。どの部に配属されるかわかんないから営業やってたりして、なんて笑った。
ふっきれたのだろうか?なかなかふっきれるものではないよな。
「隆博。お前やってみんか。」
缶ビールを一気に飲み干した後、急に悟が言い出した。
「え?」
驚いて聞き返すと、もう来年には卒業して東京へ行ってしまうので、辞めることを担当のコーディネーターに話すと、代わりに誰か出来る子がいないか聞かれたという。
「えー。自信ないよ。」
「まず、やってみたら。」
「でも、悟みたいに専門知識ないし。」
「よく言うよ。お前だってコンピュータ関係強いんだろ。」
確かに好きでパソコンは良く使うけど。でも、と考えていると
「とにかく、また考えてみろよ。俺も教えてやるからさ。」
「うん。」
「しかし、集中してやると目が疲れるな。」
眼鏡をはずし目の周りをマッサージし始めた彼を見て、
「悟が目が悪いなんて知らなかった。」
「お前の前で眼鏡かけてたことなかったけ?」
「うん。」
「車を運転する時と、夜だけな。昼は見えるんだけどな。俺、鳥目かな。夜なんか作業する時にな。よく見えん。」
ああ、車を運転したところを見たこともなかったし、夜も飲み屋さんでしか会わなかったから。
「何乗ってるの。」
車種を聞こうとしたら、何か思いついたような顔をして
「乗せてやる。ドライブしよう。」
と言う。
「え、今から?」
「鳥目でしょ。見えるの?」
「うるさい。」
大丈夫かなあ、心配する僕を尻目に、やはり先輩面してさっさと身支度を済ませ、キーを手にする。