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19話

 それから数日後のこと。

 バイト先の店の窓から外をぼんやり眺めていると、不意にオーナーが口を開いた。

「そろそろ店閉めようか。」

「もう閉めるんですか?」

 反射的に壁の時計を見た。11時か。

 オーナーは問いには答えず看板を仕舞い始めた。

「まあ、今日は寒いし、お客は来ないし、こんな日は早く家に帰って自分が一杯やりたいよ。」

 寒そうに、オーナーは身震いした。客が来ないかと待ってはみたが、どうやら今日は閑古鳥になりそうだった。

「珍しいですよね。こんな日も。」

「まあ、客商売には波があるしね。給料日前の週末で財布が硬い時だからねえ。」

 ああそうか、自分みたいな学生にはぴんとこないが、世は給料日前か。いつもは12時過ぎまでは店を開けているのだが、こんな日は客が来ないだろうと、オーナーは早々に空気を読んだみたいだ。

「隆博、もういいぞ。」

「ええ。」

 店仕舞いを手伝っていると、オーナーが帰れというように手を振った。

「オーナーは?」

「ちょっと、店の事務処理があるから。少しやってから帰るわ。」

「じゃあ、お席に失礼します。」

 遠慮がちに言い、帰り支度して店の裏口から外へ出た


 外へ出ると雪が降っていた。

「あれ、雪だ。」

 傘が置いてなかったかと、裏口から出て、店の荷物置き場をがさごそと物色していると、後ろに人の気配を感じた。

 オーナーかな。

「オーナー、帰るんですか。雪降ってますよ。」

 その気配に背を向けたまま、声を掛けると、

「隆博。」

 名前を呼ばれた。オーナーじゃない。

「あ。」

 不意を突かれてびっくりして振り向くと、水木先輩が立っていた。

「先輩。」

 努めて、平静を装った。

「帰りか。」

「ええ。」

「早いな。」

「客がいないから。」

 僕はぶっきらぼうに答えた。言葉が続かない。

 僕らはだまって突っ立っていた。雪の降りが強くなってきたようで寒い。

 彼が口を開いた。

「こないだのこと謝ろうかと思って。」

「謝らなくても。謝るとかそういうことじゃないし。」

 僕の声は上擦っていただろう。何と答えよう。答えようすがない。

「もう、済んだことだし。」

 自分の声色が気になった。先輩は苦しそうな顔をした。

 

 いつから彼はここにいたのだろう。

 よく見るとダウンジャケットの肩が濡れていた。

 前髪に雪がついているのが気になった。その雪を見て次の瞬間、何を思ったのか反射的に手を伸ばして彼の髪の雪を振り払おうとした。自分で自分のしようとしたことが意外で、びっくりした。

 僕は急いで手を引っ込めた。動悸が激しくなる。彼はそれ以上何も言わず泣きそうな表情になった。 ふたりとも言葉を発することなく、立ち尽くした。

 どのくらいそこに立っていたのだろう。たぶん、時間にしたらほんの数分の出来事だったに違いないが、とても長い時間に思えた。

「すまない。このまま曖昧な気持ちのままで、東京へ行くのも嫌だったし、行く前にもう一度お前の顔が見たくて。」

 そう思い切ったように言うと、彼はきびすを返した。

(お前の顔が見たくて)

 その言葉を聞いて、何かが自分の中で一瞬弾けて飛んだような気がした。今ここで呼び止めなかったら一生彼を見失ってしまう。そう思った瞬間、心が凍りついた。

「待ってくれ!」

 振り返った彼の表情が見えた気がした。暗い街灯の下だったのに、その時何故かはっきり彼の顔が見えた。驚いたように目を見開き、戸惑いが少し開いた口元にみえた。でもそれは決して何かを拒絶した表情ではなかった。

 僕は彼に恋をしている。その時、はっきり意識した。里佳子ちゃんのことも、相手が男だということも、すべてその瞬間吹っ飛んで消えた。


 振り返った彼が僕の方へ歩み寄る。僕は彼の顔がまともに見ることが出来ずうな垂れる。

 芙美が僕の中で何度も振り返りる。花びらを手にして。

 舞い落ちる雪が、扶美の掌の中で薄い桜の花びらに変わった。

 少し俯き加減に肩を落とし、

〝美しいものって儚いんだね。〟

 扶美の声が響く。


「隆博。」

 雪の中、彼の薄い唇が僕の名前を呼ぶ。

〝美しいって儚いことだ。〟

 違う。僕はその時はっきりと理解した。

 扶美が言った言葉。大事にしていた扶美との思い出。その言葉を彼も口にした。

 だから扶美に重ねて、僕は彼を意識していたのかとずっと思っていた。

 だけど、違う。違うんだ。僕が好きなのは扶美の思い出と重ねた彼の言葉じゃない。彼自身だ。ずっと会いたいと思っていたのは、失くしたくないと思っていたのは彼だったんだ。だけど。

近づいてきた彼が僕の腕を取る。

「隆博。もう一度言ってもいいか。お前のことが好きだ。」

 彼が僕の顔を覗き込む。僕は表情を読み取られないように、顔を背けて、

「ずっと会いたいと思っていた。本当だ。だけど、怖いんだ。」

 やっとそう言葉を発した。

「俺が男だから?」


 そうかもしれない。いや、でもそれ以上に怖いことがある。

 人を本気で好きになることだ。本気で好きになった相手がまた消えてしまったらどうしよう。僕はずっとそのトラウマに囚われたままだった。だから、どの子も好きにならなかった。相手の心の中に踏み込むことが怖かった。どこまで相手の中に入っていいのか、距離を恐る恐る測っていた。飛び込むことなんて出来なかった。

 ゆっくり首を振った。

 彼が、その大きな手で僕の頬に触れ、顔を包んだ。

 暖かい手の感触に、鼓動が激しくなる。小刻みに身体が震えるのがわかる。降り続く雪が背中を濡らしていくのがわかるのに、もう熱いのか冷たいのか身体が感じる感触すらわからない。

「顔を上げてくれ。」

 ゆっくりと視線を彼の顔に移動した。優しい目をしていた。僕が好きだと思ったのは彼の目だ。笑うと目尻に細かい皺が寄る。顔を近づけるほどの至近距離でなければわからない、この皺が好きだと思ったんだ。

「消えないか?」

 僕は聞いた。

「俺が?」

「僕の前から。」

 怖いと思っていても、もう僕は彼のすぐ側まで来てしまった。今、手を伸ばせば彼の手に触れる。そして、もう戻れなくなる。本気で人を好きになることを避け続けていても、もう彼に触れてしまったら、僕は落ちていくだろう。この恋に。

「消えるわけない。消えろと言われても、お前の側から離れたくない。」

 落ち着いたしっかりした声で、彼はそう答えた。


 ベージュがかかったモスグリーンの色が目に入った。その色が彼の家のソファの色だと、もう今ははっきり意識出来る。

〝俺の部屋に来るか。〟

 雪の中で濡れた僕の背に手を回して、先輩が言った。黙って頷いた。


 ソファを背にキスを受けながら、僕の身体は強張っていた。彼が好きなのは本当だけど、身体がうまく反応しない。女の子としか経験がないからどうしていいかわからない。

 最初は恐る恐る僕の反応を確かめるように、小鳥のように小さく口を啄ばんでいた彼が、そのうち激しく唇を重ねてきて、熱い舌を滑らせてきた。ゆっくりと僕の口腔を探るように舌を這わせた後、舌を絡ませてきた。

 息が上がる。心臓がすぐ側で音を立てていた。

 彼の口が耳朶を食み、首筋へ降りてくると同時に、僕のジーンズのファスナーに手がかかる。

 一瞬、身体が硬直する。が、次の瞬間には彼のもたらす快感に、身体全体の筋肉が弛緩する。ゆっくりと僕の中心を包み込むように彼の手が動くのがわかる。背後から僕を抱くようにして、手の動きを早める。思わず声を上げそうになるのを彼の口が塞ぐ。全神経がそこに集中するのを止めようすもなく、されるがままになっていると、腰の辺りに彼の屹立したものが当たっていることに気がついた。

 急に怖くなった。これからこの身に起こることを予想して、身が竦んだ。だけど、後戻りは出来ない。僕らは手に手を取ってこの恋を選んだのだから。

「痛いから、息を止めるな。」

〝息をしろ。〟

 耳元で彼が囁いた。低い声で優しく。

 これは自分が望んだものなのだと思った。この痛みも、この肌の熱も。


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