16話
お参りに彼女の家に行っても、聡の話は出なかった。誰もが彼の名前を口にすることはなかった。聡のつらい気持ちは僕らも容易に想像出来たが、僕は彼を慰めることは出来なかった。芙美の葬式が済んで、だいぶ経ってから彼は学校に出て来たが、事故の後の傷が痛々しく、僕は差しさわりのない話しか出来なかった。事故のこと、芙美のことはいっさい触れなかった。
でも、事実、このことで僕たちの間には埋めようとしても埋めることの出来ない溝が出来たのは避けようのないことだった。実際、芙美は死んでしまった。彼女は永久に僕らの前から姿を消したのだ。その事実は拭い去ろうとしても拭い去ることは出来ない。聡は一緒に事故に遭って芙美だけが死んでしまったことを、ひどく後悔していた。
自分がバイクに乗せていたから。あの日、あの道を通らなければよかったとか、いろんなことを考えていたのに違いないけど、彼だって被害者なのだ。つらいのは彼だ。僕より、誰より、後悔と、罪の意識にさいなまれて一生それを背負っていくのだ。だから、誰が彼を責められよう。どうしてお前だけ生き残ったのだと、誰がなじることが出来よう。
だけど、僕の心の奥底にはきっと醜い部分があったに違いない。
聡、何故お前だけ生きているんだ。芙美はどうして死んでしまわなければならなかったんだ、ってね。
自分の醜い部分を見たくなかった。それでだろうか。何となく聡とは距離が出来てしまった。以前のように腹を割ってしゃべることもなく、毎日のように遊んでいたのに、遊ばなくなった。聡は聡で、僕は僕で、健二や違う友達と毎日を過ごしていた。もう以前のようにはなれなかった。でも、それは仕方のないことと、僕は割り切っていた。それよりも芙美が死んだことで僕はその後、たぶん半年から1年くらい、そう高校を卒業するくらいまでの間は、どこかおかしかったに違いない。夢遊病者のように、意識が朦朧として、その辺りのことを今から思い出すと、少し記憶が飛んでいるところがある。受験生だったのに、どこをどうして勉強していたのか。よく、あれで大学が受かったものだと、われながら感心する。
確かにあの頃の僕はおかしかった。時々、学校の帰りに無性に芙美に会いたくなる。そして自転車で40分もかけて、あの事故現場まで行くのだ。芙美が後ろに乗っているような気がするのが嬉しくて、自転車を走らせた。そこへ行ったからといって何もないのに。馬鹿みたいだと、夕暮れの堤防を何度、泣きながら走っただろう。毎日、普通に学校へ行って、受験勉強をして、塾へ行って、母親に文句を言いながら飯を食べて。
でも、ときおり風呂に入っている時や、自分の部屋でヘッドホンをつけ音楽を聴いているときなどに訳もなく涙が溢れてきて、止まらなくなることがあった。いつまでこんな日が続くのだろうと、途方にくれた。
そして、ひとつの罪の意識に苛まれ続けた。
あの日、バイクを貸したのは僕だった。聡から扶美と約束しているのに、自分のバイクの調子が急に悪くなって動かないからと。
まさか、こんなことになるなら貸さなければ良かった。
バイクを貸したから、扶美があのバイクの後ろに乗ったから。だから。
それはどうしようもない事故なのに。もうひとつ言えばこちらには過失などなかったのに。赤の点滅信号で突っ込んできた車に責任があるのに。
だけど、僕はバイクを貸したことをずっと悔やんでいた。
健二が、
「おまん、いい加減にせい。ずっと引きずったままでおるんか。」
ある日、話があるからと呼び出された。
健二は知っていたんだ。彼に扶美のことを話したことはなかった。だけど、いつも一緒にいる彼は僕のことをよくわかっていた。
「だけど、バイクを貸したのは僕だし、扶美に気持を言えないままこんなことになってしまって、どうしていいのかわからないんだ。」
堰を切ったように彼に胸の内を打ち明けた。
「俺もようわからん。」
そう俯いた後、天を仰ぐように空を見上げ、
「どっかに扶美、おるよ。おまんがいつまでもそんな顔して、うじうじしとったら扶美だって辛気臭うてかなわんわ。」
わかってる。自分でもいつまでもこんな思いを抱えて生きてるの嫌だ。
「俺が考えるには、毎日、普通に同じ時間に起きて、食事をし、学校へ行く。何も考えず、規則正しくいつもと同じように過ごす。そんでいいんやないか。だっておまんも俺んらもそうするしか仕方ないやんか。それ以外、俺んらに出来ることなんてあらへんぞ。」
そして、週命日のお参りを49日を境に止めた。きりがよかったし、こうして引きずることが僕らにはつらいことだと、その時はそう思ったのだ。早く、気持ちの整理をつけて、次の段階へ行かなければならなかった。そして、そちらを選んだのだ。無論、それが正解なのだと思った。辛過ぎたのだ。その事実にいつまでも向き合っていることが。
それから二度と僕はバイクに乗らなかった。
どのくらい彼女の墓の前で僕は惚けていただろう。気がつくと日はすっかり傾き、夕暮れの闇が迫っていた。僕は身震いをした。薄いジャケット1枚で、ずっと冷たい墓石の前に座っていたのだから。季節はもう12月で、雪が舞う日も多い。雪の多いこの地方は、11月の末頃にはちらほら雪が舞い、12月には道に雪が積もり真っ白になる日も多い。僕はすっかり冷えた体を引きずってアパートへ戻った。
バスタブに湯を張っている間、毛布に包まってウィスキーの薄いのをちびちびやっていると、体に体温が戻ってくるのを感じる。下戸だった自分が嘘のように、アルコールと相性が良くなったらしい。自分の体質が変わってしまったようだ。でも、飲めるのはいい。嫌なこと、思い出したくないことを忘れることができるからだ。一時でも。どうも、芙美の墓の前で呆けていたら、あの頃のことをあれこれと思い出してしまった。自分の胸の中に思い出さないように封印していた思いを。
僕は本棚から芙美の遺品を取り出した。「ウォーターシップダウンのうさぎたち」リチャード・アダムスだ。彼女の家にお参りに行っているときに、おばさんがもらって欲しいと出してきたものだ。
僕たちが仏前にお参りした後、いつものようにおばさんがお茶とお菓子を出してくれて、
「隆博くん。ちょっと待っていてね。」
そう言い残して、部屋から出て行き、数分経って戻ってくるとおばさんの手には1冊の本が握られていた。そして、それを僕の前に出すと、
「これね。芙美が隆博くんに渡そうと思っていたものらしいのよ。」
「僕に?」
手に取り、ペラペラと中をめくると、ページの最後の空白の部分に、僕に宛てたメッセージが書かれていた。
『隆博くんへ。私が最初に読んだ洋書です。この本を読んで、私が感じたことをあなたも感じて欲しい。』
「おばさん、これ本当にもらっていいんですか。」
「もらっていいも何も。芙美があなたに残した物なのよ。」
僕はその本を手に取ると、涙が滲んでくるのを感じた。こんな所で泣くなんて。皆もおばさんもいるのに。でも、恥ずかしいけど本当にその時、嬉しかったんだ。そして、ひどくひどく後悔した。芙美の気持ちを思った。大事な本を僕に残した彼女の本当の気持ちをその時初めて理解した。そして、自分の気持ちを。そして、何よりすべて遅すぎたことを知った。
何をしてももう芙美はいない。それでもその本を僕にと、残してくれた芙美の気持ちを少しでもわかりたくて、一生懸命訳して何ヶ月もかかってやっとその上下巻2冊もある洋書を読みきったんだ。だから、一番思い出のある作品だ。
その頃のことを思い出しながら、本をめくっていると、何か紙切れがひらりと落ちた。その紙切れを手にとって、僕ははっとした。
(ああ、こんなところに挟んでおいたのか。)
それは、ワークショップで水木先輩と組み合わせになった時の、僕の訳したものに対する彼の評が書かれたものだった。それには彼には似つかわない上品な言葉で、賛辞の言葉が書いてあった。それを読んで僕には彼が僕のことを、僕の才能と言ったら大げさかもしれないけど、僕のことを理解してくれているのだと感じ、ひどく嬉しく思ったのだ。だから、この大事な本の間に挟んでおいたのだ。
彼の書いた文字、彼の筆跡を見、ひどく彼に会いたいと思った。今すぐにでも会いたい。でも、僕は頭を振った。その思いを振り払うように。
会いたいと思う自分の気持にまだ振り回されている。どうして彼に会いたいと思うのだろう。この気持は恋なのか。好きな人に会いたいという、あの思いなのか。まだよくわからない。だからもう、会わない。会えないのだ。僕らの関係は変わってしまったのだ。あの夜を境に。彼はもう僕にとって過去の人でしかないのだ。そう思った瞬間、胸ぐらを凍った手で掴まれたかのように急に息苦しくなった。目の奥が痛んだ。
それでも、次の瞬間、僕は違うことを考えようと無理にそのことから意識をはぐらかそうとした。無理やり傷口から瘡蓋を引き剥がすように。
(ああ、いけない。風呂の湯が一杯になってしまう。)
僕は、その紙切れを今までと同じようにページの間に挟み、本棚に大事にしまった。そして、グラスに残ったウィスキーを一気に喉に流しこみ、浴槽へと向かった。バスタブに体を沈めると、細胞のひとつひとつが一気に弛緩し、気が緩んだ。暖かくて気持ち良かった。
どうしてだろう。ふっと、涙があふれてきた。
泣くなんて。男のくせに。何を泣くんだ。芙美のことか?思い出したら悲しくなったのか?それとも、本当に胸を占めていることは何なんだろう。わかっていたはずだ。だけど僕はそれに目を向けたくなかった。
ばかばかしい。泣くなんて。でも、よく考えたら、僕ひとりだ。ここにいるのは。自分の部屋だし、泣いたって喚いたっていいじゃないか。誰もいないんだ。誰に聞かれることもない。その方が、気持ちが楽になるのかもしれない。
僕は泣くことによって自分で自分を癒したかった。気持ちの奥に、何かが枯渇していた。それは何だろう。乾いていた。
僕はバスタブにジャブジャブとお湯を流しっぱなしにしながらいつまでも泣いていた。誰に聞かれるのでもないのに、何故かお湯を流しっぱなしにすれば泣き声が聞こえないだろうと思ったのだ。