14話
それから何年か経って、今思い起こすと、僕は波風を立てることを避けたのだ。6人は仲の良い友人同士だったし、聡も健二も一番の友達だった。芙美とは中学校も一緒で、仲良くしだしたのは高校へ入ってからだったけど、僕は中学の頃から芙美がずっと気になっていた。図書館で頻繁に会うようになって、仲良く話すようになり、本当は何度か告白しようと思ったけど、その関係を壊すことが怖かった。 もし、断られたら友達でもいられなくなる。そのうち同じクラスで6人が自然に仲の良いグループになるのは、そんなに時間がかかることではなかった。6人で楽しい日々を過ごした。聡が芙美を好きになってもそれは自然な流れだった。
でも、僕は何かを犠牲にしてまでも本当に欲しいものを欲しいと言えなかったのだ。後悔をしたけど遅かった。あの時はいろんなことがはっきり自分の心の中で整理が出来なかったけど、今になってひとつだけ言えることは、僕は自分の心に嘘をついたんだ。それだけは真実だ。そして、自分に勇気がなかったせいで、僕は取り返しのつかない大きなものを失くしてしまった。
何故、あの時あんな言葉が口をついて出たんだろう。どうして自分の心を隠したのだろう。
そんなことを思い出しながら、いろんなことを考えた。自分が目を背けようとしたもの。そして、背けようとしているもの。いろんなことをそつなくこなそうとしているのは自分が臆病だからだ。失敗した時に、それによって失うものを考えてしまうんだ。そして、自分の心に嘘をついて、後で後悔する。
もう、時間は戻ってこない。今、あの時と同じように、この嵯峨野に来て、芙美と座ったベンチに座り、あの時と同じように桂川の流れを眺め、渡月橋をバックにそびえる岩田山を眺めている。でも、芙美はもういない。もう2度とあの時は戻ってこない。
どのくらい、そこでぼんやりしていたのだろう。冬の日は短い。夕闇が押し寄せ、観光客たちが帰途に着き始めた。風が冷たい。
そろそろ帰ろう。そう思った時に、先輩の顔が浮かんだ。
そのことを考えまいと、あの人のことを考えまいと、自分の頭から追い出そうとすればするほど、その問題が自分の心の中にインクの染みのように広がっていった。
「好きだ」って言われた。僕にどうしろというんだ。
試験前に勉強を見てくれたのも、飲みに連れて行ってくれたのも、僕に特別な感情を持っていたからなのか。何故だろう。彼女と籍を入れるばっかりなのに。
いつから?ずっと前から?それとも。
彼の眼差し、彼の行動、仕草、いろんなものを思い浮かべた。特別なそぶりはなかったと思う。僕は何も気がつかなかった。だけど、思い返しても、あのキスを思い出しても、不思議に僕は嫌悪感を感じることがなかった。それはどうしてだろう。
あの帰り道、衝動的に彼に会いたいと思った。あの感情は何なんだろう。同時に脳裏に浮かんだ扶美のこととどう繋がるんだろう。いくら考えてもわからなかった。
いや、答えはもうどこかで出ているのかもしれないけど。
僕がまだ気がつかないだけで。
ただあの夜の、彼の行き場をなくした子供のような寂しげな表情が忘れられない。
夕暮れの風に追い立てられるようにベンチから立ち上がり、桂川沿いを歩いていると、ふと目に入ったものがあった。
(あ、あれ。)
土産物屋の軒先に並んでいた京紅だった。
あの時芙美が欲しがっていた物。
清水寺周辺で、土産物屋を覗いてぶらぶらしていた時、ある一軒の店で、芙美が貝殻に入った紅、京紅を欲しそうに見ていた。僕が「何、それ。」と聞くと、紅、ようは口紅なのだと説明した。
あの頃、高校生でも化粧している子はたくさんいて、マスカラを塗り、アイシャドウや口紅を塗っていた。学校では校則が厳しかったので、あまり学校内ではする子はいなかったが、放課後や休みの日には化粧をして出かける子が多かった。加奈子もあの日は化粧をしているみたいで、唇がピンク色に光っていたっけ。芙美は化粧などしたことがないらしく、素朴で他の同級生から見たら地味な方だろう。だから、芙美が紅を欲しいなどと言うのが、なんだか意外だった。
「買ったら」と言うと、こういうものは買って欲しいのだと言って僕を見た。僕は「買ってやる」と、喉本まで言葉が出かかったが、何故か気恥ずかしくて、「ふうん。そんなもんなの。」と言ったきりだった。すぐに近くにいた聡たちが来たので、その話はそこで終わってしまったが。
僕は京紅の店に入った。店内には漆黒に塗られた貝殻に詰められた京紅が並んでいた。貝殻には桔梗や藤の花などの絵柄が描かれており、その多様さに目を奪われた。
何故かわからないが、その可憐な花の形が気に入り、撫子の花が描かれた京紅を手に取った。お店の人に「これ、下さい。」と言うと、「彼女にお土産ですか。」愛想の良い笑顔を向けられ、包装しかけたので、簡単でいいと手を振った。
僕はその小さな箱を持って京都を後にした。
携帯の着信を見る。その後、メールをチェックする。受信トレイには里佳子ちゃんからのメッセージがいくつか残っていた。
(何もないか。)
僕が気にしているのは、先輩からの連絡なのだと頭のどこかでわかっていた。あれから彼からの連絡はぱったり止んだままだった。
しようがないか。僕から連絡するわけにもいかない。彼の言ったことの意味をまだ自分の中で反復している毎日だからだ。何故か気がつくとあの晩の事ばかりを考えている。里佳子ちゃんのメールに返事もしないなんて僕はどうかしている。
電車がいつものホームに滑り込む。ああ、ぎりぎりだ。走らないと最初の授業に間に合わない。気は乗らないが、単位を落とすわけには行かない。無理やりにでも足を学内に運ぶ。
構内へ入ると、賑やかに談笑している同級生たちが目に入った。皆が楽しそうに見えた。何の悩みもないように屈託がない。数人の同級生が姿を見て、声をかけてくれた。適当に話を合わせながらも、何とはなくみんなの輪には入りづらいような気がした。
講義室に入ると裕樹と健二が僕を見かけて、おう、久しぶり。授業の後飲みに行こうと誘われた。あまり断って自分の殻に閉じこもるのもよくないと気がついていたから、素直に2人の誘いに応じた。
授業が終わって、よく行く居酒屋へ行ってしこたま飲んだ。僕が少々は飲めるようになったことを2人は驚き、喜んだ。これから飲みに行くのが楽しくなるなと、2人ははしゃぎ、僕に酒をどんどん勧めた。僕は気が紛れた。2人がいてくれたことに感謝した。彼らと楽しくはしゃぎ、それでも、どこか自分は2人とは違うんだという思いが胸の中に染みのようにはりついているような気がした。
それは彼の告白を聞いてしまったからなのかもしれない。
「おおきに。また飲もうな。」
健二と裕樹が駅の改札に消えていく姿に手を振った。
二日酔いだな。まだ頭が痛む。
あれから僕のアパートで、3人して飲んだ。あいつらに付き合っていると、際限がない。もう帰れよ、と言って追い返すと、何言ってんだ。今夜は呑むぞと、人んちの冷蔵庫からビールを出すわ出すわ。あいつらいったい何なんだ。
でも、僕が元気ないのをあいつらは感じ取っている。だから無理にでも飲ませて気を紛らわせようとしてくれてるのだとわかっていた。
結局明け方近くまで飲んで、昼近くまで寝て、良いが醒めたところであいつらを車で駅まで送っていった。
さて、帰るか。
駅前に横付けにした車に乗り込むと、足に何かが当たる感触があった。屈んで足元を覗き込むと、ブレーキパットの下に小さな箱が落ちていた。
(何だろう?)
拾って手にとってみると、京都へ行った時に買い求めた京紅の小さな箱だった。
(あ、こんなところに。)
あの時着ていったジャケットのポケットに入れて帰った。部屋に戻ってポケットを探っても箱がないので、どこかで落としたのかと諦めていた。きっとポケットから転げ落ちたままで、気がつかないでいたのだ。
(そうだ。これ渡さなきゃ。)
ふいに思いついて、そのまま車を走らせる。
目的地は、芙美の住んでいた町だ。
さっき、京紅の箱を見て思ったんだ。今日こそ、芙美に会いに行こうって。