12話
彼の部屋はこぢんまりと片付いていて、ベージュを基本にしたインテリアでまとめてあった。部屋の隅の方に彼女が使っているらしいちょっとしたドレッサーがあって、ああ、女性と一緒に住んでいるんだなあと、実感した。
「いい部屋ですね。きちんと片付いてるし。」
「そうか。」
「ひとりでは広いでしょ。」
「そうだなあ、2人で住んでも大丈夫なくらいだよな。」
聞いた話では彼の父親はある商社の重役で、その会社の名前は聞けば皆が知っているような有名な会社だ。家も裕福らしい。彼の父親が借りたのだろう。いいとこの坊ちゃんだな、と思っていると、
「まあ、どのみち春までだけどな。就職したら引っ越す。又住む家を探さないと。」
「東京でしたよね。」
「うん。」
そうなんだ。春になったら東京へ行ってしまうんだ。もうあと僅かか。この人と会えるのも。ちょっとしんみりした気分になったけど、そんなこと考えても仕方ない。
気を取り直して、僕らはソファの上にあぐらをかき、冷蔵庫から取り出したビールを飲んだ。しゃべりながらも時折ふっと、意識が飛ぶ。眠くて意識が朦朧とする。自分が何をしゃべっているのかよくわからない。彼の声がずっと遠くで聞こえるような気がする。
これはまずいな。
帰れなくなると思い、
「もうそろそろ帰ります。」
ソファから立ち上がった。
「泊まっていけば?」
「いえ、まだタクシーも拾えるだろうし。」
そう答えたが、自分の声が水の底から発せられた音のようにくぐもって聞こえた。同時に部屋の隅にあるダウンライトの仄暗い明かりが揺らめいて、形を失くした。
自分の近くに誰かの寝息を感じた。
(誰だろう?)
薄っすらと目を開けて周りを見ると、見覚えのないベージュがかかったようなモスグリーンの色が目に入った。それが彼の家のソファの色だとわかるまでに、少しの間が必要だった。
(あ、そうか。寝ちゃったんだ。)
ふたりでいい気になって浴びるように酒を飲んだ。酔っ払ってしまい、気づかないうちにふたりして眠り込んでしまったらしい。
頭を起すと、ジーッと耳鳴りがしたが、それでもソファの上に起き上がると、だんだん意識がはっきりしてきた。
居間のライトは全部消してあり、小さな足元のダウンライトがひとつだけポツンと点いていた。隣接する対面式のダイニングキッチンの明かりは点いていたから、その明かりで先輩の姿を確認することが出来た。ソファの下の床でうつ伏せになって眠っている。横向きに顔をこちらに向けて。
彼の側に行き、声をかけてみる。
「先輩。」
返事がない。
何とはなしに、彼の顔に目を向けてみる。薄暗い明かりの中で、長く伸ばした前髪が崩れて目の上にかかっているのが見えた。彫の深いはっきりとした目鼻立ち。薄い唇。ふと、綺麗な人だななどと思ってしまう。そう、彫刻みたいだ。こうやって動かずにいると。
だけど、じっと彼の顔を見ていても仕方ない。ソファの上に置いてあった毛布を彼の肩に掛けた。どこかでタクシーでも捕まえて帰るか。
彼の耳元に口を寄せて、
「先輩。僕帰りますね。玄関の鍵、かけて。」
「うん。」
返事が聞こえた。なんだ、起きているのか。大丈夫だな。
そう思い、彼の側から立ち上がろうとしたら、ふいに床についていた手首を握られた。
「隆博。」
眠ったまま、いや、目を閉じたまま、左手で僕の右手首を掴み僕の名前を呼んだ。
「ごめん、このまま聞いてくれ。」
(何だろう。)
握られた手首が熱かった。彼の手の体温だ。
先輩の声はもう酔ってなんかいなかった。
「好きなんだ。」
僕は耳を疑った。
今、何て?
彼は僕の手首を掴んだまま、目を開けずにもう一度繰り返した。
「お前のことが好きなんだ。」
咄嗟にその言葉の持つ意味がわからず、彼が寝転んでいるカーペットの幾何学模様を凝視した。息もせず。
「あの時、乃理子と間違えたんじゃない。お前だとわかっていた。」
その言葉で瞬時に僕はすべてを理解した。
「まさか、だって。」
僕の声に反応するかのように起き上がった彼と目が合った。
ダウンライトのぼんやりとした明かりに照らされた彼の顔は、僕の知っている先輩の顔ではなかった。
そう、弱々しく、力を出し切ってゴールに倒れこんだようなランナーのように、そんなすべて自分をさらけ出し、疲れ切ったような。
ずっとこのことを彼は考えながら、僕と接していたんだろうか。気がつかなかった。いつも見ている、強気で快活とした自信に満ちた彼の表情はすべて消えていた。
僕が何か言葉を発するのを待っている。だけど、何も言葉が出てこない。どうしよう。
彼の目を見ていられなくて、カーペットに目を落とした。それを合図にするかのように、彼が僕の肩をつかみ、ゆっくりと顔を近づけてきた。僕は拒めなかった。動悸が激しくなる。耳のすぐ側に心臓が位置しているように思えた。そのくらい自分の心臓が音を立てて波打つのがわかった。柔らかい唇の感触がした。彼の前髪が自分の額に触れるのを感じた。僕は動けなかった。
だって、あんな目を初めて見た。真っ直ぐな視線。冗談とかそんなんじゃない。自分の心の動きに怯えながら、それでもそれを隠そうとせず、僕に真っ直ぐにぶつけてきた。それがわかったから。だから。
どのくらいの時間だったんだろう。とても長い時間に思えた。こんな悲しいせつないようなキスを受けたのは初めてだ。でも、何か言わないと。混乱した頭で必死に考えた。何て言ったらいいのか。確かに憧れていた先輩だし、彼と一緒にいるのはとても楽しい。だけど。
「でも・・先輩にはもうすぐ・・」
乃理子さんがいるんだ。もうすぐ赤ちゃんだって生まれる。そんな状況で、どうして僕のことが好きだなんて。きっと混乱してるんだ。背負わなければならない責任に怯えているんだ。僕は咄嗟にそう思った。彼の表情が暗くてよく見えなかった。だけど、それがかえって僕をほっとさせた。
彼の返事を待たずに部屋を飛びだした。その場にいるのがいたたまれなくて。
真夜中の3時を過ぎていた。
真夜中の国道は閑散としていて、時折、荷物を運ぶ長距離トラックが僕の脇をすり抜けていった。タクシーなど一台も通っていなかった。だけど、タクシーに乗ることを考えてなぞいなかった。
こうやって歩いて帰ろう。混乱した頭を整理したかった。歩きながら、僕は彼の言ったことを何回も復唱した。僕はそれにどう答えたらいいのだろう。答えるべきなんだろうか。
「好きなんだ。」
そう言った彼の表情を思い出そうとした。薄暗い明かりの下の薄い形の良い唇を思い浮かべた。
あの雪が降った夜。携帯から彼に電話した。会いたいと思ったあの気持。
あれは何だったんだろう。自分の不可思議な説明のつかない彼への気持と、今聞いた告白を線上に並べてみた。
でも彼の僕への好きという気持と、僕が彼を先輩として慕う気持は違う。そう思った。
だけど、聞いてしまった後はもう元へは戻れない。
あの一言で、僕と彼の間には大きな川の流れが出来た。対岸同士に僕らはそれぞれひとりずつポツンと佇む。今までは同じ川のほとりを歩いていた。それも彼が東京へ行くまでの間の短い時間だとしても。
だけど、あの一言を僕は聞いてしまった。もう戻れない。あの川を越えるのか、もうこのまま対岸に位置したまま、僕らは離れていくんだろうか。
寂しいと思った。だけど、僕はあの川を渡れない。直感的に渡ってはいけないと思った。胸に鉛の塊を落とし込まれたように気が重かった。胸の辺りに息苦しさを感じた。
見上げると、冬の月が青く冴え冴えと光っていた。