11話
先輩は酔ってきたせいもあるか元気になってきた。
彼はそれからいろんな旅について話をした。バイクをフェリーに積んで北海道へ渡ったこと。函館から北上して、洞爺湖、登別、札幌を経由して富良野のラベンダー畑、見渡す限りの大地に波打つ丘が伸びやかに広がる美瑛。旭川そして稚内、最北端、サハリンの島影が望める宗谷岬まで。それから、伊豆半島。ヒッチハイクをして伊東、熱川から南下して下田へ。海辺から一転して、中伊豆の山の中を河津七滝から天城峠を越えて土肥へ抜ける。恋人岬、堂ヶ島を経由して下田へ戻るコース。
途中、お金がなくてお寺の境内の軒下にもぐって寝ていたら、朝になっていて、行き倒れかと人だかりが出来ていて恥ずかしかったこと。
富山・雨晴海岸海に浮かぶ立山連峰が見たくて、海岸でテントを張って立山連峰が見えるまでねばったこと。沖縄。浅瀬でおこぜに射されて病院に運ばれたこと。カヌーで矢久島を回ったこと。
楽しそうに話をする彼を見ていて、僕は思ったんだ。この人は若いせいもあるけど、一ヶ所で落ち着いて生活をするようなタイプの人ではないんだろうな。いろんな所へ行って、いろんな経験をして。狩猟民族のような。その土地に根付いて土地を耕し、子孫を増やしていくような農耕民族ではないんだろうな。
僕はどっちだろう。たぶん、農耕民族ではない。獲物を狩り積極的に生きていく狩猟民族タイプでもない。遊牧民族かなあ。雲と共にあちこちへ流れていくような。
と、ぼんやり考えていると、
「お前もいろんなとこ、行っとけよ。自由が利くうちにな。」
寂しそうに彼が言うので、
「人生終わったような顔しないでくださいよ。落ち着いた生活は生活で、幸せな部分もあると思いますよ。」
精一杯慰めてみた。彼は首を傾げて考えこんだので、つい言ってしまった。
「…後悔してるんですか?」
すると彼は、ふっとカウンターの端に目を背けて、
「…こんなこと言うと、女々しいんだが…いまだに気持ちの整理がつかんのだ。お前が望んでるみたいに、翻訳で食べていけるようにもっと勉強もしたかったし、自分が決めた道へ進みたかった。でも、今は嫁さんと、産まれて来る子供を食べさせていくことが先決だ。だからT社に入社した。安定している企業だし、給料もいい。でも、自分がやりたかったこととは違う。どこまで自分が出来るか、理想を追い求めたかったんだ。ばかみたいだろ。自分で蒔いた種なんだ。でも潔くないんだな。本当は違う人生があったのかなあなんて、あれこれ考えてしまうんだ。こないだ嫁さんが流産しかかった時も、俺はおろおろするだけで、どうしていいかわからなかったんだ。向こうの母親とか来て、てきぱき入院の手続きをして、身の回りの物を持って来て。俺は動転していて、あいつの母親に言われることをするだけで。こんなんで父親になれるんかなあって、自信なくなってきたんだ。だからお前に会えなかった。落ち込んでたからね。こんな俺を見られたくなかったんだ。」
そう言った後、
「でも、会ってこんな愚痴を聞かせているんじゃ話にならないよな。」
がっくりきている彼が急に弱々しく見えた。
「いろんなことが急にありすぎたんですよ。誰だって戸惑います。急に人生の方向先を変えられたみたいに思って。僕だって、今、彼女が妊娠したらどうするかわかんないですよ。」
「避妊は?」
「もちろん、していますよ。」
とは言ったものの、セックスどころかまだキスすらしてない相手だけど。里佳子ちゃんは。
「だよな。俺が悪いんだ。気をつけていたつもりだったんだけど。つもりじゃいかんよな。本当に人を好きになるっていうのがよくわからないんだ。いろんな女の子とつきあった。たぶん、お前も耳に入っているかもしれんが、複数の女の子とつきあっていた。乃理子はそのうちのひとりだ。でも、俺を一度も責めん。一度も責めたことがない。自分以外の女と同時につき合っていたことを気づいても。いつも控えめで、しっかりしていて優しい。子供が出来たって聞いてうろたえたけど、男として責任を取るのが当たり前だって思って。それで幸せだと思った。あいつは可愛い。だけど、今更になって本当は自信がない。あいつを本当に愛してるのかわからない。ちゃんとやっていけるのが、自信がないんだ。」
この人でもこんな怯えたような自信のない表情をするんだ。それよりも何故僕にこんな弱い所を見せるんだ。
「僕はまだ人生なんてわかっていないし、子供だし。うまいこと言えないけど、先輩がしんどいなあと思ってることを僕に話すことで、少しでもそのしんどさを和らげたり、悩みが解決出来そうになったりするなら、僕はいつでも聞きたいと思います。そのくらいしか言えないけど。」
「でも、自分で蒔いた種だから、自分の問題は自分自身で解決するしかないんだ。わかってる。」
「何かの小説に書いてありました。自分で解決出来ないなら我慢するしかないって。」
「うん。でも我慢する人生はつらいな。」
「そうですよね。」
「今までいろんな悩みや問題があったけど、解決できる方法はあるって信じていた。し、そして解決してきた。大概のことは。でも、解決の方法が無い問題っていうのがあるんかなと、最近は思うよ。」
「先輩にしては弱気ですね。でも、今はそう思っても、例えば時間が経ったり、周りの状況が変わったり、自分の気持ちの持ち方が変わったりとか変化があると、その問題に対しても何か変化があるんじゃないかなあ。そして、ある日当然ふっと解決の糸口が発見出来たりとか。」
「やっぱ、お前クールだわ。」
「えっ。何で。」
「だって客観的で理論的、冷静だもん。」
「僕だって取り乱す時くらいありますよ。たぶん、自分のことでないから客観的に見てるだけですよ。僕もあなたの立場だったら、悩むかも。」
「そうかなあ。」
「ま、元気出してくださいよ。」
彼を元気付けるようにわざと大きな声で、大将にお代わりをオーダーした。
「すまんなあ。後輩のお前にこんな愚痴言ってさ。」
「別に。僕でよかったら、何時でも。」
そして、思い切って言ってみた。
「僕、嬉しいですよ。そういう心の内を話してくれるの。信用されてるのかなって。」
本音だった。彼が心の内を話してくれることが素直に嬉しいと思った。
すると、彼はちょっと恥ずかしそうに
「何だかなあ。よくわからんがお前には素直にいろんなことを話せるような気がするんだ。」
それから僕たちはいろんな話しをしながら、かなり飲んだ。焼酎は飲みやすくてこれならいくらでも飲めそうな気がした。頭も痛くならないし、気分も悪くならなかった。先輩もかなり飲んでいた。元々飲める人なので、どのくらい飲んでも大丈夫なのかわからなかった。彼も自分の限界がまだ先だと思って、次々にお代わりをした。そうこうするうちに時計の針も12時を回ったし、それに、僕よりも彼の方がかなり泥酔してたので、自分がしっかりしているうちに送って行こうと思い店を後にした。
店を出ると、又雪がちらほらしてきたので、電車で帰るのは止めることにした。
本当のことを言うと僕もこんなに飲んだのは初めてで、足元がふらついているのが自分でわかっていたから。無論、先輩は僕より酔っていた。お前に迷惑かけん程度に飲むとは言ったくせに、結局この間送っていった時より酔っているように見えた。
仕方ない。先輩に肩を貸しながらタクシーを拾い、彼のアパートの場所を告げた。
タクシーに乗り込むと、
「隆博。俺のとこでもうちょっと飲み直さないか?」
呂律の回らない声で言うので、
「まだ飲むんですか?」
僕も途切れ途切れに意識が飛ぶのを意識していたので、これ以上飲んだらまずいなと思っていた。
「いいじゃないか。乃理子は実家へ帰っているし、誰も居ないから。」
座席に身を沈めながら、拗ねた子供のような口調で、僕の顔色を伺う彼。
「しょうがないですね。」
それで、僕は彼のアパートでタクシーを一緒に降り、少し休んだら帰るつもりで部屋へあがった。