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1話

 リズムに心を委ねる。五感のすべてをその音に委ねる。心が解き放たれる心地よい空間に誘われるこの感覚。誰にも邪魔されることのない自由な空間。時間も忘れ身体の感覚もなくなってしまうような忘我の極地。

 そこは自分だけの楽園だ。その音にすべてを委ねる。

 リズムに乗ってキイを叩く。子供のような彼。笑うとくしゃくしゃになる目元。音に身をまかせ、そのリズムと振動に心も魂も自由に泳がせて、その一瞬、一瞬を楽しんでいる彼を、今この時、僕の目に映る彼の姿を記憶しておこうと思った。もう2度と戻らない時間。全神経を集中させて、彼の姿を心の奥深くに記憶する。

 それしか出来ない。でも、それでいい。


 あれはサークルの日帰りの旅行だ。

 日本海の沿岸のちいさな漁村を訪れた。目的は昼食においしい海鮮物を食べることだった。案内された小さな料理民宿。海水浴場の近くにあって、夏は大勢の海水浴客でにぎわう民宿だが、まだ海水浴シーズンには程遠い。訪れる人はまばらだ。

 僕たちは案内された広間で向かい合わせに座り、食事を始めた。ビールや焼酎などのアルコールも出て、飲める人たちはそれなりに楽しんでいたが、僕は一滴も飲めない下戸だった。

 窓の外からは海が見えた。食事もそこそこにして、早く海を見に行きたかった。新鮮な海の幸は確かにおいしかったが、生物を食べ続けたせいか胃の辺りがむかむかしてきた。それとも、先程まで揺られていたバスのせいだろうか。

(早く海が見たい。海岸沿いを散歩したら気分が良くなるんじゃないだろうか。)

 そんなことを考えていると、

「熱いうちにお召し上がり下さいね。」

 宿のおかみさんが僕の前に茶碗蒸しを置いた。それを合図のように僕は立ち上がった。そして、広間を横切り、玄関にならんでいる宿の下駄をつっかけて外に出た。


 部屋の中のむっとした熱気に包まれていた僕には外の風が心地良かった。宿の隣には民家や民宿などの建物が密集していて、車がやっと1台通れるかどうかわからないほどの細い路地が連なっている。海の方からはぷうんと潮の香りがした。僕はその路地を海の方へ歩いていった。宿からほんの2、3分程歩くと海水浴場がある。僕はコンクリを積んで出来た防波堤を歩いた。目の前には日本海が広がり、ほんの目の先には景勝地として名高い神島が見えた。

 いい眺めだなあと思った。山国で育った僕には海は珍しく、海を見ると胸がわくわくした。大人になった今でもだ。波が荒々しいイメージがある日本海だが、ここは内陸部に近いせいか波が穏やかだ。僕は防波堤のコンクリの上に座り、寄せては返す波の動きをぼんやり眺めていた。無心になって波が作り出す泡を見ているとだんだん気分がすっきりしてきた。でも本当はそんなに気分が悪いわけではなかった。

僕は待っていた。ぼんやりと、いや、はっきりと。

 彼が来るのを。

 席を立った僕が、数分立っても戻って来ないことに気づいて。気分が悪く、外へ出かけたのだろうと、そう思って。もしくは、皆の食事が終わりもうそろそろ出発だと呼びに来るのではないかと。

 でも、彼は来なかった。時計を見ると下駄を突っかけて出てから、15分ほど経っていた。時間的にはとうに食事が終わり、次の目的地に出かける準備をしなければならないような時間になっていた。

 何故、彼が来ると思ったのだろう。来るはずがない。

 自分のばかな考えに苦笑しながら腰をあげた。

 さて、気分も良くなったし、そろそろ戻らないと本当に置いてかれそうだ。


 路地を上がり、一つ目の角を曲がった所でいきなり彼に出くわした。

 彼はこちらには目もくれず、僕に気づかないふりをして、

「ああ、やっぱり外は寒いなあ。」

 聞こえるような大きな声でつぶやいた。

(なあんだ。気づいているんじゃん。)

 そして僕の前を横切り、海岸線の方へどんどん歩いていった。

(僕を迎えに来てくれたんだろうか?それともただ単に風にあたりにきただけ?)

 僕はちょっと迷った。もし、僕を迎えに来てくれたのじゃないなら追いかけていくのも変だし、さてどうしようかと一瞬躊躇したが、結局は早足で彼に追いつくことにした。

「先輩はそんな薄着してさ、風邪引いてるくせに。」

 彼の背中に向かって少し大きな声を出して悪態をついた。昨日会った時、鼻をぐずぐずさせていたことを思い出したからだ。風邪を引いているくせに薄い長袖のシャツを一枚着ているだけだ。

「ちゃんと着ているさ。こんなん風邪のうちに入らんよ。」

 後ろを振り向きもせず彼が言い返した。

 僕は彼に追いつき、並んで歩いた。迎えに来てくれたのがどうか、聞こうと思ったが結局口をつぐんだ。

 その瞬間、僕たちの真上を鳥が飛んでいった。沖の方へ飛んでいく鳥を指差して

「あれ、かもめ?ワシかな?」

「さあな。」

 ぶっきらぼうに答えた彼の薄い唇に目がいった。


〝美しいということは、儚いということだ。〟

 又あの時のことを思い出した。あれから何度か彼の言葉を思い出す。

 ワークショップでの出来事。ある小説の原文をそれぞれが思い思いに訳したものを、皆の前で発表しあった時の事だ。

 小説のあらすじはこうだ。

 薄幸の少女。病に侵され残り少ない命。彼女の元を度々訪れる青年。ふたりして窓の外を眺めていると、ふいに雪が降り始めた。綺麗だと、喜び勇んで外へ駆け出す少女。その手に雪を取ると、一瞬にして溶けて消える。手に消えた雪を名残惜しそうに眺め、小さく息を吐く少女。辺りの空気が小さく小刻みに振動し、彼女の杞憂が彼の胸にも痛いほど伝わってきた。程なく消えゆくであろう自分の命の灯と、掌に溶けた雪の儚さが同じものだと感じたであろう彼女の心境を思い、青年の胸によぎった思いの一節をそれぞれが訳した。

〝いくら美しいものでも、形あるものはすべて消える。〟

〝どんなに美しくても、形あるものはその形を変えていき、いつまでも同じ姿を留めておくことは出来ない。〟

 といった訳が多かった。

 その中で彼だけが、

〝美しいということは、儚いということだ。〟

 そう訳した。簡潔にして心に響くフレーズ。

 原文から離れすぎているという意見が出た。

 確かに。訳手の意見や感情が入りすぎるのは良くない。いかに書き手の心を、その物語の意図とすることを率直に、解りやすく、そして真実を読み手に伝えるか。

だけど僕は彼の訳したそのフレーズに心を惹かれた。それは、僕にとって特別な忘れえぬ言葉だったからだ。そして何故かその彼の薄い唇や、彫りの深い横顔が記憶から離れず、何度も頭の中をよぎった。


「何だ。」

 横顔に視線を感じたのか彼が尋ねた。

「いや、別に。」

 視線を逸らし、僕は空と海を交互に眺めた。薄いブルーとグレーが入り混じったような空。沖を渡る風。風に乗ってときおり鼻をくすぐる潮の香り。眼前に見える岩を連ねた見事な景勝地。海岸線を縁取る松の木立。時間にしてわずか数分の出来事だったが、時が止まったような感じがした。もう少しこうやって海を見ていたい。そう思っていると、おもむろに彼がくるりと方向転換をし、

「これ以上行ってもなんもない。戻るぞ。」

 早足でどんどん宿の方へ歩き出した。僕も慌てて彼の後を追いかけた。


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