尻出し女はただのペテン師
1.
小林由紀子は、袋池のキャバクラで働く35歳のホステスである。
夜の街の照明に合わせた厚い化粧の下には、人生を半分投げていながら、男だけは捕らえて離さない退廃的な色気が漂っていた。
彼女は袋池の歓楽街に近い、橋板区の小綺麗なマンションに部屋を借りている。
同じ店のバーテンである山口幸雄と肉体関係にある。
山口の端正な顔立ちに、由紀子は一目で狂った。
彼の若さに溺れ、気づけば自分のベッドに引きずり込んでいた。
山口自身は羽赤区の団地に部屋を借りていたが、二人はほぼ毎夜、絡み合うように由紀子の部屋で肌を重ねていた。
ある日の夕暮れ、由紀子のところへ山口が息を切らせてやってきた。
「由紀子さん、店長が呼んでる。俺も同席しろって」
二人はキャバクラの奥にある薄暗い事務所に入った。
事務机に向かって伝票をめくっているのは、無精髭を蓄えた目つきの悪い店長だ。
「まあ、そこにかけろ」
店長はタバコの煙を吐き出しながら、本題を切り出した。
「うちがショバ代を払ってるG組が、手頃な隠れ家を探してるんだが、直で買うにはちと足がついちまう。そこでお前らの名義を借りたい。内縁の夫婦ってことにして、住宅ローンを組め」
「わかりました」
由紀子は山口の顔を見た。
山口は小さく頷いた。
後日、二人はみなと銀行西山支店の応接室にいた。
「私たち、籍は入れていないんですけど、もう内縁関係が長くて。そろそろ落ち着こうと、家を買うことにしたんです」
由紀子はわざとらしく山口の腕にしなだれかかり、しっとりとした視線を銀行員に送った。
銀行員は、二人が水商売関係者だと知ると難色を示した。
「当行が直接融資するのは、正直審査が厳しいですね。ですが、私どもは住宅金融支援機構の代理店もやっておりましてね。あそこなら、比較的審査は甘い。そちらで通しましょう」
「じゃあ、お願いします」
差し出された書類に、二人は流れるようにサインしていく。
「本人が居住すること」を誓う誓約書があったが、由紀子は大して気にも留めずにペンを走らせた。
店に戻り、手続きの完了を報告すると、店長は満足げに目を細めた。
「ご苦労だったな。名義貸しの礼だ、お前らの給料を少しばかり上乗せしてやる」
「ありがとうございます」
2.
滝沢明の自宅の隣には、80歳になる伯母が住んでいた。
しかし、その伯母が老人ホームに入ると、土地はすぐにデベロッパーの竹畑組に売却された。
土地は二分割され、安っぽい建売住宅が二軒建てられた。
滝沢の家から離れた側の棟はすぐに買い手がついたようだ。
ある日、滝沢の家を訪ねてきたのは、絵に描いたようなホステス風の女だった。
35歳前後だろうか、厚化粧の、やけに肉感的な身体つきをした美人だった。
その後ろには、従順そうな若い男が立っている。
「ちょっと、表へ来ていただけます?」
促されて外に出ると、家の前の電柱をこちら側に移設することに承諾してほしいという。
「電柱が近づけば地価が下がります。竹畑組にも、すでにお断りしています」
滝沢は冷たく撥ね付けた。
仲介した不動産屋の社員が「こちらが承諾すれば移設できる」といい、家を売りつけたらしい。
女は「小林」と名乗った。
彼女はどこか妖艶な笑みを浮かべて「よろしくお願いします」と頭を下げた。
滝沢も「よろしくお願いします」と頭を下げた。
しかし、小林という女も付き添いの男も、一向に引っ越してくる気配はなかった。
自転車が繋がれて柵になっていたり、見知らぬタクシー運転手が寝泊まりしている様子があるだけだ。
不審に思った滝沢は登記所へ向かい、手数料を払って隣の登記簿謄本を取得した。
そこには住宅金融支援機構とみなと銀行の抵当権が、総額5000万円も設定されている。
その9割を機構から、1割を代理店のみなと銀行西山支店から借り入れていた。
きな臭い香りが、滝沢の鼻腔をくすぐった。
3.
名義貸しの手当として、由紀子と山口の収入は少しだけ増えた。
それからしばらく経った頃、二人は再び店長に呼び出された。
「G組から追加の依頼だ。あの家、まだ寝かせてあるんだが、ポストの鍵を預かってる。たまに開けて、届いた手紙を持ってこい。それから、近所の目を誤魔化すために、一日だけでいいからそこで寝泊まりしてこい」
「わかりました」
その夜、二人は誰もいない新築の家で一泊した。
外は激しい土砂降りの雨。
窓を叩く雨音が、かえって室内の孤立感を深めていた。
家具もほとんどないガランとした部屋に、持ち込まれた安物のベッドだけがぽつんと置かれている。
照明を消すと、闇の中に雨の音と、二人の荒い息遣いだけが響いた。
その背徳感が、二人の肉欲を異常なほどに煽った。
由紀子は山口の若い身体にしがみつき、激しい雨の音に紛れながら、朝が来るまで何度も互いを貪り合った。
4.
翌朝、滝沢が買い物から戻ると、隣の家の前にあの「小林」という女がしゃがみ込んでいるのが見えた。
昨夜の豪雨のせいだろうか、放置された自転車のタイヤを熱心に調べている。
女はサイズが合っていないブカブカのジーンズを履いていた。
ジーンズの裾が大きくずり下がり、肉付きの良いお尻が半分ほど剥き出しになっている。
滝沢はその光景に目を奪われた。
生々しい大人のエロティシズムが、朝の静かな住宅街に不釣り合いに漂っていた。
しかし、女がその家に泊まったのは、結局その一晩だけだった。
怪しげなタクシー運転手が品のない足取りで出入りした。
見慣れぬ強面の男が玄関先でタバコを吹かし、黒塗りのワゴン車がそれを迎えに来るようなこともある。
ゴミの捨て方も劣悪で、カラスが散らかした生ゴミが異臭を放っても、誰も掃除をしようとはしなかった。
滝沢はパソコンを開き、住宅金融支援機構のウェブサイトを調べた。
「本人が居住する」という誓約を破った場合、融資は即座に解約され、詐欺罪に問われる可能性があり、関わった業者にも厳しい制裁が下る。
すべてが繋がった。
あの女はただの「名義貸しの人形」なのだ。
数日後、滝沢はポストの鍵を開けて手紙を回収し、親しげに笑い合いながら去っていく小林とあの男の姿を見かけた。
あの濡れた夜、あの家で二人が何をしていたのか、想像するだけで胸がある種の歪んだ興奮で満たされる。
あの尻出し女は、立派な詐欺罪の共犯者だ。
滝沢は迷わず、住宅金融支援機構へダイヤルした。
電話口の担当者に、目撃した事実、登記簿の内容、そして住む気配が全くないことを詳細にぶちまけた。
機構の担当者は重々しい声で、「事実であれば、一括返済の手続きをとります」と明言した。
それから数ヶ月後。
隣の建売住宅は、住宅金融支援機構によって競売にかけられたのか、いつの間にか別の不動産業者の所有物へと変わったようだ。
滝沢は時折、あの雨上がりの朝を思い出す。
おそらくあの女は朝からジーンズの下に何も履いていなかったのだろう。
誰もいなくなった空き家を見つめながら、滝沢は静かに自嘲の笑みを浮かべた。




