〈 2 〉
小さな寝息をアラームにして、私は目を覚ました。
私の頭はつくもの肩の上にあった。
社の奥に入って風を避け、木の柱を背にして座り、制服の上着を二人で羽織りながら肩を寄せ合い眠っていた。
日頃、誰も来ないことを知っているし、神様も今は許してくれると思う。
……怒られてもつくもが言い返してくれるだろうな、なんて考えて私は一人でにやけた。
すぅすぅと耳元で聞こえてくる可愛い寝息は一定のリズムを保っている。小さい口で吸ってから吐いている。密着した柔らかい唇の隙間を縫って、二酸化炭素の混じる息が温かく吐き出されている。
上から見下ろしたつくもの顔は赤ちゃんみたいだった。頬っぺたが膨らんでぷるぷるしている。つんと尖った唇が滑らかな曲線にアクセントを加えている。
鎖骨がぴんと張って華奢な肩を支えている。白い肌が眩しい。前後する小さな胸には小さな膨らみが確かにあった。
お互いが触れあっている部分で溶けあった二つの体温が、その他の冷たい部分を強調する。
私は彼女を見下ろしながら、彼女が言ったことを頭の中で思い返す。
「もう私とは会わないで」
彼女は申し訳なさそうな表情で私にそう言った。
そんな表情をするのなら、いっそのこと言わないで欲しかった。
「あと少しで私は死んじゃうから」
言わないで欲しかった。でも言わせてしまった。
「だから今日だけは……ずっと一緒に居てあげる」
正直に言うと、まだ彼女の言ったことを信じていない。
信じたくなかった。
だって今も元気だから。「死んじゃう」なんて言われても、そんなのは到底信じられない。
私は時間を憎んだ。
残酷にも刻一刻と未来へ進んでいくこの時間を。
今、この時間で止まってくれれば、それ以上の幸せなんていらない。
そんな切なる願いをいくら唱えたとしても。
神様にだって叶えようがない。
私は肩を震わせた。
「……つみき?」
つくもはもぞもぞと動きながら、目を瞬かせて、私の名前を小さく呼んだ。
「ううん。何でもないよ」
私はそう呟いた。
まるで自分に言い聞かせるように、そう言ったのだった。
―――………
後日、私はいつものように神社へと来ていた。
信じたくなかったし、諦めたくなかった。投げ出したくなかった。どうせならその「死」とやらに向き合ってやる! と息巻いてすらいた。
だけど、神社のどこを探しても、つくもの姿は無かった。
昨日感じたつくもの温もりが、彼女との最後の思い出になるかも知れない。
そんな可能性が頭をもたげる度に、私は無性に腹が立った。
私は一体、何に腹を立てているのだろう。
この世界に? つくもに? 自分自身に?
疑問は解決しないままだった。そのせいでお腹に苛立ちが居座り続けた。
家に帰っても、夜ご飯を食べても、動画を見ていても、漫画を読んでいても、ずっと苛立ちが収まらなかった。
そして、お風呂から上り、風呂上がりのアイスを食べ終わった後になって。
ようやく、その苛立ちがなくなり――そして、入れ替わるように、今度は「焦り」が身体を支配した。
ソワソワが止まらない。
何かしなければいけない気がするけど、何に対しての焦りなのかが分からない。
ジッとしていられない時間が続いて、瞬く間に日付を超えた。
もう眠らなければならない時間だ。
私は焦る身体を無理矢理動かして、ベッドに押さえつけた。
当然、眠れるわけもなかった。
心臓が怖いぐらいに動いている。蠢いている。
やがて、眠れないままにもぞもぞと身体を動かしていると、何かがこと切れたようにフッと焦りが収まった。
ようやく眠れると思った。
でも、その後にやって来たのは、とめどない量の「不安」だった。
目を瞑り、ネガティブな脳内イメージが思い浮かんでは、それから目を背けるようにして瞼を開けた。そして、また目を瞑ると嫌なイメージに思考を汚される。
そんなことを繰り返している間に、カーテンの向こう側が明るくなって、私は余計に焦った。
その日の夜は、結局、自分が眠ったのかどうかも分からなかった。目を瞑っただけだったのかもしれない。
それでも、私は気だるい身体を無理矢理起こし、のそのそと学校に行く準備をする。
鞄の中の教科書を入れ替えて、重さが変わったのを感じながら部屋を出る。顔を洗って、歯磨きをし、朝ご飯をパスして、早足気味に玄関まで行き、扉を開け、目の前に停めてある自転車に急いで跨りながら、鞄をカゴに放り投げ、私はいつも通り通学路へと漕ぎだした。
学校に着いてから机に座った後、いまさらになって眠気が襲ってきた。
あまりにも遅い。
そう文句を垂れながらも、強烈な眠気に逆らうことが出来なかった私は、机に突っ伏して、とろんと意識を失ったのだった。
―――………
今日の授業で、私が先生に注意をされた回数は二桁を回っただろう。
上体を固定できないほどの眠気に襲われていたのだから仕方がない。
それで私は夢を見た。
その夢にはつくもがいた。彼女は私の両手を握って泣いていた。
私が「綺麗だなぁ」と思った瞬間に体が飛び跳ねて、机を大きく揺らし、クラスの人間にクスクスと笑われた。
休み時間に「えっちな夢でも見てたの?」と友達に揶揄われたけれど、私はそれに苦笑いしか返せなかった。
性懲りもなく今日も神社に来た。
今日こそはつくもに会えるんじゃないかと思うと、行かない日を作りたくなかった。
でもやっぱりいなかった。
作業服を着たおじさんたちが御神木を見ながら立ち話をしていたけれど、それがどういう内容だったのか、私には分からなかった。
だけど、嫌な予感がしたのは確かだった。
―――………
それから三日が経った。
その間、放課後になったら毎日神社に通っていたけれど、ついぞ、つくもには会えなかった。
火傷した右手は少しずつだけど治りつつある。
もう右手で箸もシャープペンシルも掴めるようになった。
だけど、私はそれが嫌だった。
右手の火傷が治れば治るほど、つくもとの距離が離れていくような気がしたから。
この手の痛みを忘れてしまった時、私は〝つくものことも忘れてしまうんじゃないのか〟という不安に駆られるのだ。
そんな不安に祟られたのか、あの日からずっと、夜眠れない日々を過ごしていた。
そのせいで目の下がクマだらけだった。
親にも「学校休む?」と心配されているけど、学校に行かないと眠くならないので、無理を言って行かせてもらっていた。
一回だけ保健室に行って眠ったこともあった。
心の中の不安が段々と大きくなってきている実感はある。
でもこれは、私がまだ彼女のことを思っている証拠。
〝想っている〟証明なのだと思う。
いや、思いたかった。
想うことが希望だから。
そう思うことで、この不安や焦りに安心を覚えていたから。
私の中から焦りと不安が拭えないのも、〝彼女を想うが故〟なのだから。
そう理由を付けて納得感を持たせようとした。
だから、〝本当に彼女は実在していたのか〟と疑い始めてはいけない。
それはあの日に感じた温もりが否定してくれるはずだから。
否定してくれる。
彼女の存在を肯定してくれる。
彼女と私はあの時確かに一緒にいた。
彼女の顔がパッと思い浮かばないのは私の記憶力が悪いから。
それに視力も年々落ちていっているので、そもそも視覚も記憶も頼りにならない。
――私は彼女の匂いを覚えている。
草木の香りがした。酸っぱくない汗の香りがした。
それが、〝元々ある神社の自然の匂いと、私の汗の匂いだったかも〟だなんて思ってはいけない。
思っては、いけない。
……想っては、いけない?
――違う! 絶対に違う!
「想ってはいけない」なんて、そんなことを考えては駄目だ。
それだけは分かっている。
……分かっている。
分かっているから。
だから――。
―――………
学校が終わり、今日も神社に来た。
私は財布に入っていた全ての小銭を小さなお賽銭箱に入れた。
ジャラジャラ、カラン、コン、カツン。
そして、神様に願った。
もう一度彼女と――つくもと会わせてください。会話をさせて下さい。
と。
手のひらを合わせて、目を瞑り、彼女の姿を思い浮かべながらずっと願い続けた。
その間、無意識に息を止めていたらしい。
その苦しさを「心の苦しさ」と勘違いし、無視をしていたら、いつの間にか酸欠になっていた。
私はそのままその場に崩れ落ち、気が付いたら地面に座り込んでいた。
地面は酷く冷たかった。それで冬が近いのだと分かった。
無風で音の無い世界は、私が一人であることを脅迫的に意識させてくる。
私は惨めになりながら立ち上がり、まるで置物のように立っている枯れた御神木を横目に、早足で家へと帰ったのだった。
帰ると、玄関の前にしゃがみ込んでいる小さな人影が見えた。
その子はこの寒さなのにかなりの薄着だった。
髪の長さから推測するに女の子だと思う。
私は期待した。願いが叶ったのだと期待した。
痛いぐらいに心臓が鼓動した。そのせいで私はただただ立ち尽くした。
目の前の女の子以外の景色がぼやけて輪郭を失う。
「……つくも?」
私がそう言ったのと同時に、その女の子は黙って私の下へと駆けてきて――。
飛びつくように抱き着いてきた。
でもその勢いが強すぎて、私は踏ん張り切れずに尻餅をついた。
「うわっ……いてて」
「つみき」
私の名前を呼んだその声は、私の知っている声だった。
こっちを覗いてくるその顔も、仄かに香るその匂いも、彼女の何もかもを、私は知っていた。
幻想なんかじゃ――全然なかった。
「本当に――」
「……?」
「本当に……本当につくもなの?」
私がそう言うと、つくもは揶揄いの笑顔を湛えて、
「さぁ……どうでしょー?」
と言った。
その言葉を聞いて、私はやっと確信できた。
つくもと再開できたというかけがえのない事実を。
―――………
すんすんと匂いを嗅いで一服する。
「もう……本当につみきは匂い嗅ぐの好きだね」
私は匂いを嗅ぐのが好きなんじゃない。〝つくもの匂いを嗅ぐ〟のが好きなだけ。
つくもは「よっこらしょ……」と小さく言って立ち上がり、私の手を握った。
「はい、立って立って」
両手を引かれながら私は立ち上がり、つくもの顔を見た。
私は頬を伝う美しい涙を見た。
自分が泣いていることに気付いていないのか、表情は満面の笑みのまま、彼女は泣いていた。
「つくも?」
「……? あ、あれ、何でだろう。なんか、つみきの顔見たら勝手に……」
そんなつくもに釣られたのか、私の目にも涙が溜まった。
嬉し涙を流すのは初めてだった。
それからしばらく、家の前で二人して泣いていた。
そして、流れ落ちる涙が徐々に落ち着いてきた頃合いになって、つくもが口を開いた。
「つみきは私のこと好き?」
「――そんなの当たり前! つくもの心も身体も匂いも触り心地も……何もかもが大好きだよ!」
「ふーん」
「急にどうしたの?」
「いや、私とお揃いで安心した」
「へ? あ、そ、そうなんだ……お揃いかぁ」
つくもはクルクルとバレリーナのように回転しながら私から少し離れた。白いワンピースの裾が風で巻き上がってまるでお花の様だった。
それで、ワンピースの中が見えそうになって、勝手に視線が少し下がった。
……のに気付いて、すぐに視線をつくもの顔へと戻したら、そこには訝しむ目があった。
「えっち」
「み、見えなかったよ! ……ぎりぎり」
一度、その中を見たことがあったとて、その魅力が磨り減るわけではない。何回でも、いつだって見たいものなのだ。
「別につみきになら見られてもいいけど」
「え……ホントに?」
「あっはは! 本気にした?」
あぁ……〝見た目にそぐわない生意気な揶揄い〟をしてくれるのが本当に可愛いところだとしみじみ思う。
まるで、数百年生きてきたようには見えない外見。
彼女はずっと幼女の姿のまま生きてきた。
私と初めて出会ってた時から彼女の身体は何も成長していない。
でも私にとってそんなのはどうでもいいこと。
好きになった人がたまたま幼女の姿をしていて、生意気で、大人びていて、人ではなかっただけに過ぎない。
「ねぇつみき」
「なぁに?」
「もう二度とつみきに会えないと思ってた」
「……私も」
神に縋るほど渇望した願いだった。
つくもも同じ気持ちでそう言ったのなら……そんな嬉しいことはない。
「本当に会えないと思ってた。だけど……今日会えた」
つくもは噛みしめるようにそう呟いた。
「うん! 会えた!」
「だからさ」
「うん」
「つみきに〝会わないで〟って、私はもう言わない」
「……うん」
「つみきのお陰で〝諦めなければ絶対に会える〟って分かったから」
「……」
嫌。
「〝バイバイ〟じゃなくって」
嫌だ。
「〝またね〟って言うんだって」
嫌っ! 嫌だ嫌だ嫌だ!
「そう思ったんだ」
嫌っ……。
「つみき――」
……っ。
「またね!」
笑顔で手を振るつくも。
きつく絞られた私の喉からは何も出ない。
唇はますます硬く閉じていく。
左右に揺れている小さな手。その動きがゆっくりになって見えた。
そして、その腕には〝遠心力〟が働いていることを次の瞬間に理解する。
〝つくもの「腕」が目の前で回転しながら遠くに飛んでいった〟のと、〝私が遠心力を理解した〟のは同時だった。
飛び散る鮮血。
真っ白で華奢な腕が地面をバウンドする。
灰色のコンクリートを赤黒く染めるその血液は嘘みたいに鮮やかだった。
絵の具なんじゃないかと思った。
それからすぐのことだった。
落ちた腕から視線を戻した先の光景――それは私の理解を飛び越えていた。
首と腰と膝に角度の違う切れ込みが入って、瞬間、赤に弾けたのだ。
勢い良く飛び出した赤は、水風船のようにばしゃっと炸裂した。
ワンピースに白だった頃の面影は残されていない。
染みた赤のグラデーションがあるだけ。
バラバラに横たわる体の残骸と頭。
赤の水溜りが広がっていく。
私は足が竦んでよろめき、後方に尻餅をついた。
痛みでギュッと目を瞑った後、再び目を開いた。
そして、困惑の渦へと陥った。
何故なら、目の前には大量の落ち葉と枝が落ちている〝だけ〟だったから。
さっき見た夥しい量の赤はもうどこにもなく、そこには枯葉や枯れ枝の茶色や黄色があるだけ。
「はぁ……はぁ……ぅ、ぁ……ぐっぁ、ぁぁ――」
喉が絞まってうまく呼吸ができない。
私は自分の首を触り、心臓に手を当てて何とか落ち着こうとした。
幸いなことに、しばらくしたら普通に呼吸ができるようになってくれた。
それでも気持ちは普通じゃいられなかった。
否応なしに沈む首に抵抗しないまま俯いていると、目の前のコンクリートに累積している落ち葉が見えた。
「……ぁ……っ……」
未だに声が出せなかった。
呆然としたまま、私は目の前に落ちている大量の葉っぱと枝を自分の下に手繰り寄せた。
一心不乱に引き寄せた。
そして、それを抱きしめた。
枯れた草木の匂いがした。
でも温もりは感じなかった。
声もしない。ただかさかさと音が鳴るだけ。
柔らかさとは縁遠い乾燥した葉の感触。
そうした一つ一つの〝違い〟を見つめようとして。
認めようとして。
呑み込もうとした。
だけどそれは、〝身体〟が受け付けてくれなかった。
「現実」に対する拒絶反応としての空嘔が、そのことを可視化して教えてくれた。
嗚咽が漏れて涙が滲み、視界がぼやけた。
一度瞬きをしても変わらずに滲んでいる。
そんなぼやかされたの世界の一部に、私は「白」を空見した。
目に溜まった涙を拭って、クリアになった瞳が捉えたのは肌だった。
雪のような肌膚。
落ち葉の山に埋もれて見える手底。
ここから見ても肌理細かい肌だと分かる手がそこにあった。
落ち葉の山をかき分けて、私はその手を掘り起こした。
どこからどう見ても、それはつくもの手だった。
正確には「手」ではなく「腕」。
落ち葉の下に隠されていただけで、前腕も二の腕もちゃんと付いていた。
すぐにその腕を服の下に隠して、私は逃げるように家の中へと入っていった。




