〈 1 〉
――落雷。
カーテン越しに走った閃光と耳をつんざくような轟音は同時だった。
それはイコールで距離の近さを表していた。
嫌な予感がした。
ちょうど日付を超えて、明日に差し掛かったこの時間。
明日も学校なので早く寝ないといけない。
それは分かっている。
睡眠時間が体調に直結する私において、その重要度は類を見ない。
でも、この予感を無視してこのまま眠りに就くことを、私は看過できなかった。
――逡巡する時間さえ惜しい。
「ちょっと、こんな時間にどこ行くの!」
玄関のドアに手を掛けた私の背中から、母親の叱責が飛んでくるけれど、私はその声を無視して外へと飛び出した。
雨具を着て、全力で走った。
顔に雨粒が当たる。
水溜りに足を突っ込んで靴下も全部濡れた。
けど、そんなのは些細だった。
どうでもよかった。
街灯なんかこれっぽっちも頼りにならないと辟易する。
スマホのライトで前方を照らしても、その光は地面まで届かない。
光に反射する雨が針みたいだ、と思っただけだった。
息も絶え絶えのまま夜道をひた走った。
着いたのは地元の小さな神社だった。
当然、街灯なんて無い。
でも辺りは明るかった。
〝炎の柱〟が闇夜を照らしていたから。
雨の中でも衰えることのない勢いを湛えて。
有機物が焼ける匂いがした。
灰が足元に落ちた。
私は火の元へと駆けていく。
小さな石段を登り、一目散に走った。
「――息を止めて!」
私は燃えている御神木の根本で苦しみに喘ぎ、どたばたと捻じれている、背の低い女の子に向かってそう叫んだ。
呻いているその子の口からは火が漏れていた。
「っ……み、きぃっ」
私の名前を呼びながら、落ちている濡れた落ち葉を握りしめて、震えながら苦しんでいる。
「限界まで息を吐いて――そして、口を閉じて――」
その子の背中に手を添えたが、あまりの熱さに思わず手を引っ込めた。手のひらがジンジンとして、感覚が無かった。
それが火傷したせいだということを、今はまだ自覚できていなかった。
今、私にできることは彼女を見守ることだけ。
握りこぶしに力を入れても火が消えるわけではない。
そんな自分が歯痒くて、苦しくて――。
ただ、悲しかった。
―――………
「炎は酸素が無ければその活動を維持できない。逆に言えば海の中でも酸素が供給され続ければ燃え続けることができますが……」
理科の先生がそう説明するのを横目に見ながら、私は自分の右手を握り込んだ。
――痛っ。
痛みにつられて手のひらを見てみれば、そこには包帯でグルグル巻きになった身動きの取れない右手があった。
私は使い物にならないミイラのような右手を睨んだ。
箸もシャープペンシルも持てない右手。
昨夜、母親に叱られながら手当されたもの。
なので、今日の帰りに病院へと寄らなければならない。
面倒だけどここで天邪鬼になるほど阿保じゃない。病院には素直に行った方がいい。
だからこそ、必要以上に薬を塗って、必要以上に包帯を巻かなきゃいけないのが面倒だった。
「念には念を」という気持ちが強い、親の甲斐甲斐しさここに極まれり、というやつだ。
そのせいもあってか、前述した通り、私の右手は包帯でグルグル巻きだった。
不自由なこの手のせいで、授業中はずっと「暇」と戦っていた。
これが今日最後の授業だけど、これより前の授業も同じ感じだった。
ずっと話を聞くことしかできないのは、思っていたよりも苦痛だった。
板書をノートに書けないけれど、それは後で先生が授業内容を記したコピー用紙をくれるらしく、ひとまずは大丈夫っぽい。
だとしても、結局、左手を使わなければいけないタイミングは結構あって、そこはどう頑張っても自分でどうにかしなければならなかった。
慣れない左手が重ねていく失敗。
それを誰の所為にもできないまま、私はただ辟易した。
給食で一人だけ遅いのも恥ずかしいし、大好きな体育を見学しなくちゃいけないのも嫌だった。
チョークが黒板にぶつかる音がする。
私よりも痛い思いをした少女のことを思い浮かべる。
口から炎を吐いていたあの少女の姿がフラッシュバックする。
彼女の喉は焼けていた。当然、肺も胃も焼けていただろう。
それですぐに自分の右手を思い出し、痛みに気付き、喉がぎゅっと縮んで、唾が口腔内を濡らした。
目の端に少量の涙が溜まり、慣れない左手でそれを拭う。
うとうとと頭を前後に揺らすクラスメイトを一瞥して、私は天井にぶら下がった蛍光灯を仰ぎ見た。
すると、蛍光灯の光が網膜に焼き付いてしまい、視界から離れなくなった。
黒板を見ても焼き付いた横線が付いてくる。
それが鬱陶しくなって、私は逃げるように目を瞑った。
今日の授業中、睡眠時間が少なかった影響でずっと眠りっぱなしになると思っていたのに、何故か朝から今までずっと目が冴えていた。
かと言って、元気かといえば決してそうではない。
身体は怠いし、なんだかぼんやりしていた。
それでも眠気は襲ってこなかった。
そのせいもあって、つまらない悠久の時間を飛ばすことができず、ずっと思考せざるを得なかった。
今も目を瞑っているのに、全く眠くなる気配はない。
せめてノートに文字を書く事が出来れば気も紛れるのに、それもできない。
瞼を閉じた暗闇の中で、退屈と対峙する。
退屈は私の心に焦りを植えた。暗闇は昨日の夜を思い出させた。
焦りの原因も思い出したことも、どちらもあの子のことだった。
今はもうあの子のことしか考えられない。
今までもそうだったけれど。
これからはもっとそうなる気がした。
―――………
放課後になったので、私は部活動へと向かう友達に別れを告げ、制服のまま一人、病院へと歩きだした。
雨が降っていたので、傘を差さなければいけないけれど、片手で折り畳み傘を解き、差すのは案外難しい。
「傘を差す」という何気ない動作によって、私が普段、如何に両の手を駆使していたのか実感する。
人のいない通学路。
色の濃いコンクリートが続く道。
なんだか少し寂しい気持ちになった。
傘の布に雨粒が当たる音を聞いていると、人の足音に聞き間違って少し気が紛れた。
病院に到着し、診察を受けた。
先生に「何が原因で火傷しましたか」と言われて、私は頭が真っ白になった。
あったことを素直に話してしまうと、別の病院を紹介されかねないからだ。
急に訪れた釈明の機会は私に大量の脂汗をかかせてきた。
早く何か言わなくちゃ……と焦りながら、無理やり思考をこねくり回した。
その結果、変にどもりながらになってしまったけれど「えっと……鍋肌に触れちゃって」と言うことができた。
でも正直誤魔化せたとは言いづらい。
……先生も不審な目をしていたし。
けれど、まぁ、結果的には渋々納得してくれたから良かったけれど。
―――………
病院から家に帰った後、すぐに自分の部屋まで直行し、ベッドに鞄を投げ捨てた。
そして、すぐに部屋を出て、玄関までとんぼ返りをし、玄関前に広げたまま置いておいた折りたたみ傘を拾いながら、私は神社までの道を歩き始めた。
最初は普通に歩いていたけれど、段々早足になっていき、気が付いたら私は走っていた。
雨の中を走るのは昨日ぶりだ。
でも走りたいから走っているのではない。
今すぐにでもあの子に会いたいと思っているだけ。
石段を駆け上がり、落ち葉を踏みながら、私は昨日ぶりにあの御神木の前に立った。
御神木の周りには、赤と白のカラーコーンが置かれていて、その間を黄色と黒のコーンバーが仕切っている。
周りを見渡してもあの子の姿はない。
その事に落ち込みながら、私は御神木の様子をジッと観察する。
煤で黒くなった部分はあれど、木の表面は案外無事なように見えた。
ただ、その〝内部〟は違って見える。
縦に切れ込みを入れたかのように伸びた黒。
無事を装う外皮とは大きく違う幹。
灰と煤が作り出した空っぽの黒――それを内包する御神木。
その黒には見覚えがあった。それは教科書で見たブラックホールのようだった。
ふいに木の焼けた匂いが鼻を掠めた。
改めて上から下まで眺め、その惨さに息が詰まる。
心の白に黒が混じって、溶け合わずにただただ歪んだ。
天気が悪いから視界がこんなに暗いのだろうか。
なんて言って、目の前の現実から目を背けようとした。でも、駄目だった。
傘の骨から落ちた水滴が肩を濡らす。
秋の雨は冷たいと今自覚した。
目の前の現実が「自覚せよ」と促してこなければ、私はそのことに気付くこともなく冬を迎えていたはずなのに。
唇が震え、肩がわななき、視界が歪んだ。
だけど手が塞がっていて、私の涙を拭う手はどこにもなかった。
折りたたみ傘を持つ手の力がするりと抜ける。
もうどうでもいいという脱力感が脊髄すらも黙らせたみたいだった。
不器用だったとしても、唯一使えた左手すらこのざまだ。
とっくのとうに気が付いていた。
死にたくなっているということに。
「――つみき」
声がして。
小さな手が支えてくれたから、私は傘を落とさなかった。
小さな手が頬を伝う涙を拭ってくれたから、私は余計に泣いてしまった。
小さな傘に収まってしまうほどに小さな女の子は、笑顔で私を見上げていた。
声にならない声で、私は彼女の名前を呼ぶ。
「っ……ぅ……づぐも」
「なーに?」
「よ……がっだぁ」
私はつくもを抱きしめた。
もう一生離さないという思いを込めて、目一杯の力で抱え込んだ。
このままくっついて、一つに混じり合いながら消えてしまいたいと強く思った。
でもどこか違和感があることを片隅に思いながらも抱きしめ続けた。
草木の匂いがした。酸っぱくない汗の匂いがした。
鼻先に彼女の髪の毛が触れる。
くすぐったいけどその感触が気持ちよくて、髪の毛の束に鼻を突き刺し、彼女の頭の匂いを吸い込んだ。
彼女が生きているという実感を、嗅覚から脳に刻み込んだ。
「つみきっ……苦しい」
「分かってる。でも離したくない」
今にも潰してしまうのではないか、と思う程に薄い体躯。滑らかで柔らかいもちもちの肌感触。
見た目でさえこんなに小さいのに、抱きしめたらそれ以上に小さくて――そして異常なほどに〝軽かった〟。
空気を掴んでいるという錯覚すら覚えそうだった。
「つみきに……見て欲しいものがあるの」
私に抱きしめられたままなので、潰れた声でつくもはそう言った。
私は惜しい気持ちをグッと押さえつけて、その小さな体を手放した。
少し離れたつくもは照れながら視線を絡ませてきた。
そして、華奢な細い腕が伸びる先で、小さな握りこぶしが白いワンピースの裾をぎゅっと掴んだ。
私の視線はそのまま下へと降りていき、陶器のような青白い足に見惚れていると、可愛らしい小さな膝小僧を見つけた。つくもはその左右の膝をスリスリと重ね合わせてよじらせた。
ムッと唇をすぼめて、上目遣いになる。
心臓がキュッと縮んだり、大きく爆発したりする感覚がして、自分が興奮しているのを自覚した。
そして、さっきまで悲しみに暮れていた自分が嘘のようだとも思った。
一瞬でこんなに嬉しい気持ちにさせてくれるのだから、つくもはやっぱり凄い。
そんな気持ちに呼応したのだろうか、さっきまで降っていた雨が止み、一筋の晴れ間が見えて、オレンジ色の光が地面を照らしている。
なので彼女の姿もよく見えた。
「いくよ?」
つくもはそう言って、掴んでいたスカートの裾をたくし上げた――。
綺麗な白と黒。
それが一番に抱いた感想だった。
彼女が履いているパンツの柄ではない。
純白のパンツがある〝その上〟。
彼女のお腹に〝大きな穴〟が空いていたのだ。
柔らかそうなお腹の皮膚と黒い空間の境目はしわしわに爛れていた。
それに気付かなければ、ただ真っ黒の絵の具でお腹を塗ったようにしか見えなかったと思う。
どう見ても腹黒かった。
天使のように純粋な彼女のお腹は真っ黒だった。




