春の残響
夕方五時のホームは、どこか心が緩む空気をしている。
仕事帰りの人、部活帰りの学生、手を繋いだ老夫婦、耳元でイヤホンを鳴らす若者──そのすべてがひとつの風景の中に溶け込んでいて、それを俺はぼんやりと眺めていた。
電車を待つ間、風が吹き抜けてゆく。夏の手前の夕風はどこか懐かしく、肌に触れた瞬間、何かを思い出しそうになる。そんなときだった。
「……好きです。付き合ってください」
その声は、不意に耳に飛び込んできた。
思わず視線を向けると、少し離れた柱の影に、スーツ姿の若い男の子と、制服姿の女の子がいた。彼はまっすぐに彼女を見つめていて、顔がほんのりと紅い。彼女は驚いたように目を見開き、それから恥ずかしそうに、でもちゃんと頷いた。
周囲は気づいていないようで、誰もがそれぞれの生活の続きを生きている。だけど俺だけが、まるで映画のワンシーンを見てしまったような気分だった。
──思い出していたんだ。
五年前の、自分の声。小さく、でも震えるほど真剣だったあの告白の瞬間を。
あの日も、同じように春の風が吹いていた。
駅のホームに立つ君は、いつもより少しだけ早く来ていて、ベンチに座って文庫本を読んでいた。俺は改札を抜けるとすぐに走って、その隣に腰を下ろした。
「急いで来たの?」
「うん。なんか、今日は早く会いたかった」
それだけのやりとりで、君は笑った。
あのときの笑顔を、今でも忘れられない。少し癖のある前髪と、口元のえくぼ。夕日がその横顔を照らしていて、俺はたまらなく愛しいと思った。
「……ねえ、好きだよ」
不意に口をついて出た言葉に、自分で驚いた。
けれど君は、驚いたあとで「うん、私も」と答えてくれた。
それが俺たちの始まりだった。
学生で、バイトと勉強に追われながらも、会う時間を見つけては駅で待ち合わせて、電車に乗って、何気ない日常を分け合った。
夏には花火を見に行って、秋には紅葉の下で写真を撮った。冬には寒さにかこつけて、長く手を繋いだ。いつも一緒にいたし、どこかに未来があると、信じて疑わなかった。
「俺たち、きっと結婚するよな」
「するよ。だって、運命だもん」
冗談めかした会話でさえ、本気だった。
それくらい、君を愛していたし、君も同じ気持ちでいてくれたと思ってた。
社会に出るまでは。
就職活動が始まり、選ぶ道が少しずつ違っていって、俺は地方に転勤になり、君は地元での仕事を選んだ。
最初は遠距離恋愛で頑張ろうとしたけれど、会える回数が減るにつれて、言葉も減っていった。
──会えない時間が愛を育てるなんて、誰が言い出したんだろう。
俺たちは、ゆっくりと壊れていった。誰が悪いわけでもなく、ただ時間と距離が削っていった。
最後に会ったのも、駅のホームだった。
「……ねえ、もう頑張らなくてもいいんじゃないかな」
そう言った君の声は、どこか悲しげで、優しかった。
俺も泣くことはできなかった。ただ、うなずくことしかできなかった。
「電車が到着いたします」
構内アナウンスの声が現実に引き戻した。
視線を戻すと、さっきの二人はまだ話していて、彼女の手を彼がそっと握っている。まるで、世界のすべてが今この瞬間にあるかのように見える。
少しだけ羨ましい、そう思った。
思えばあの別れの後、数年して偶然再会した。駅前の本屋で、君は変わらず文庫本を手にしていて、俺は声をかけるべきか迷った末に、少し遅れて「久しぶり」と言った。
「元気だった?」
「まあ……それなりに」
それだけの会話だった。でも、その短い時間で、俺たちがもう元には戻れないことを悟った。
恋には始まりがあって、終わりもある。すべての関係が、未来まで続くわけじゃない。
それでも、確かに幸せだった。君といた日々は、誰にも否定できない俺の宝物だった。
「電車、来たね」
「うん。じゃあ、また──」
何に「また」なのか分からないまま、君は手を振って、本を胸に抱えてホームを離れていった。
あの時、あんなに泣きそうになったのに、やっぱり泣けなかった。
涙よりも、静かな温もりだけが残っていた。
電車がゆっくりとホームに入ってくる。
風がまた吹いて、あの春の日の記憶をなぞっていく。今、隣には君はいない。でも、あの時間は確かにあった。
過去があるから、今の俺がある。
スーツのポケットに手を入れて、スマホを取り出す。
ふとした拍子に、アルバムが開いて、昔の写真が出てきた。
君と見上げた夜空。肩を寄せて笑う顔。
あの笑顔が、どうか今も幸せでありますように。誰かの隣で、ちゃんと笑えていますように。
俺はそっと画面を閉じて、電車に乗り込む。
窓の向こう、ホームに残された日常の風景が少しずつ遠ざかっていく。