1話
この世には危険がいっぱいある。
例えば、交通事故。普通に轢かれれば全治3ヶ月は免れないし、場合によって半年もかかる。交通事故で亡くなる確率は全体の0.2%とも言われていて、決して無視できる数ではない。
他にも、病気。癌で亡くなる人は男性で四人に一人と言われている。同じく男の僕にとっては夥しい数字だ。心疾患、脳梗塞、脳卒中、肺炎、腎不全、アルツハイマー病、死因として代表的な例は色々ある。
しかし、それらの幾らかを押し除けて、人口動態統計の死因ランキングにその名を轟かしているのが──呪死だ。
年間で一万人以上が亡くなるとされるこの死因の主な原因が怪異である。
怪異とは人の負の念によって発生する化け物、ないしは人類に対する敵性体のことを指す。
怪異には大きく分けて二種類存在し、夜に出現するとされる鵺羅と、暗闇に出現するとされる夜魅だ。
鵺羅は多くの場合実態を伴っていて、妖怪と存在が近い。地域によっては鵺羅を妖怪と呼称する場所もある。対して、夜魅はまさしく幽霊で、まだその存在が定かでなかった時代の呼び名が夜魅だと言われている。
そして、この鵺羅と夜魅、二つの化け物に対抗する存在もいる。
それが闘魂士だ。
闘魂という魂の質を操り不思議な技を使う人々のことだ。
彼らは厳しい訓練を通じて魂を操り精神を鍛えて人々の安寧を守る。
人を取り締まるのが警察で、人に備えるのが自衛隊なら、人を守るのが闘魂士なのだ。
しかし、僕はそんな存在達とは関係ない。
「おい、こんな時間に弁当を食うな」
「良いだろ、ちょっとくらい」
小言を言ってくる友人、雲井健人を正面に僕は再び唐揚げにぱくついた。
「授業中に眠くなっても知らないからな」
「はいはい」
呆れたと言わんばかりの表情で健人は前を向く。
授業中に眠くなったらと彼は言っていたが、問題はない。その場合、僕は眠るからだ。
「家でできない反抗、最高っ!」
僕は日常を謳歌することの享楽に感極まっていた。
クラスメイトの喧騒が蔓延るこの教室で、数々の生徒がひしめく音が聞こえるこの学校で、部活の朝練から帰ってくる女子達を窓辺から眺めながら、遠くの雲を見上げてほっと一息つくぐらいにはリラックスしていた。
そう、陰で闘魂士達などという魑魅魍魎にも似た存在が僕らのために戦っていようと、それは僕の知ったことではないのだ。なぜなら世間の多くがそんなことを知らない。
今だって、健人は素知らぬ顔で勉強し、名も知らぬ同級生はスマホをいじり、多くの学生が通学の電車の中で安寧のまま本やら動画などを見て過ごしている。これが戦時やそれに類する緊急事態ならありえないことなのだ。
だから、一般人である僕もこの安寧にあやかっていい。そう自分に言い聞かせて、授業の始まるチャイムを聞きながら席に着いた時だ。
かつ、かつ、かつ、とどこかで聞き慣れた音が聞こえてくる。
待て待て、まあ待て。まだ慌てる時間じゃない。ほんのり偶然、同じ速度、同じ歩き方で歩いている人がいるだけかもしれないじゃないか。この忙しない、悪く言えば短気な歩き方を思えば同じような人がいるとは到底思えないけれど。
がっ、と授業中に扉が開く。僕はもう周囲の反応が怖くて廊下側を見ていられなかった。
「影成様」
日本史の先生が驚きと共に後ろを振り向く。クラス中の生徒も声の主がいるであろう後方の扉の方を振り向き、その人物に注目を注いでいた。そんな中、悪びれもせずに当の本人は極めて透き通る声で僕の名前を呼ぶ。
「お迎えに上がりました」
「……またか」
僕は顔を覆った。もう恥ずかしくて前が見れない。
「さあ、こちらに」
「……はい」
現れたのは我妻家の使用人にして僕の付き人の越前愛美──高級テーブルに使われるようなダークがかった木材のような色の長髪を肩まで上品に流していた。
「影成」
この主は僕の前の席に座る友人の雲井健人だった。振り向くと気の毒そうだと言わんばかりに彼の顔が飛び込んでくる。というか、クラスメイトの三割がその顔をしていた。残りは驚きだ。
「まあ、頑張れよ」
「……おう」
僕は情けない声を出して、あれよあれよという間に黒のセダンに乗せられる。
(いつも通りふかふかな後部座席だな、こんちくしょう!)
僕が内心愚痴る中、冷静に愛美は僕に報告した。
「当主代理様が緊急令を出されました。現在七星会が結集されております」
「母上が、ね……」
実は、僕の母親は闘魂士をまとめる清明会、そこの理事会である七星会の実質的な取締役なのだ。
その母がわざわざ緊急で会合を開く理由、そして僕が呼び付けられたという現状、頭が痛い気しかしない。
「何をお考えですか?」
「……頭が痛い」
「なるほど、深謀遠慮はかくも遠き、ですか」
「???」
何を言ってるんだ? 僕にそんな深謀遠慮なんてないぞ?
──などと言っても、この使用人は騙されませんよと言わんばかりの冷たい顔を返してくるだけである。何も言わない方が吉だ。
「はは、次期家督に探りを入れるなんて、越前さんしかできませんね」
前から話しかけてきたのは我妻家のタクシードライバー、慶次さんだ。
この人は良い。優しいし、あの家に足りないものを全て持っているような気がする。家に嫁に来て欲しい。
しばらくして幾つかの信号を抜けて山の傾斜を登る道路を進んでいくと、閑静な住宅街を抜けて私有地に入る。
そこから実に15分、車で15分だ。その間車で揺られ続け、ようやく門に到着する。この家の庭は広すぎるのだ。
「いってらっしゃいませ」
慶次さんが頭を下げて僕たちを見送る。さようなら、僕に残った唯一の良心。
「それでは、参りましょう」
「……」
「いかがいたしましたか?」
「いや、なんでも」
経年を感じさせる格子門の横には手水鉢が備え付けられている。客用のためそれを使わず、踏み鳴らされた路地の上を歩いて枯山水と池水庭園が左右に見えてきた。
それさえも通り過ぎると厳かな玄関に到着する。高級木材で縁があしらわれた豪邸にありそうな玄関だ。さらにそこを抜けて家の中に入ると、綺麗な床の長い廊下に行きつく。
そこで今会いたくない人物にばったりと出会してしまった。
「お兄様」
お兄様↑ではなく、お兄様↓である。この太々しさを分かるだろうか。
我妻梅、「お梅ちゃん」で親しまれる今絶賛反抗期中の妹だ。
「お兄様、私を同行させてはもらえないでしょうか。いえ、させてください」
「それはもう拒否権がないように思うんだけど……」
「はい、ありません」
一言で言えば、苛烈。
母親譲りの長い濡れ羽色の髪にスタイルの良い長身は女子校に入れた親を称賛したくなるほどの美貌を兼ね備えている。
本当に、兄としても本当に美人だなこいつと思うレベルなのである。ただし、注意なのはビスクドールや人形を見て美しいと思う感性なのであって、異性の魅力は何も感じない。
当たり前のように僕の拒否権を奪ってくるあたりも母親に似たな。
「……好きにしていいよ」
「本当ですか!?」
ようやく声のトーンが上がる。自分の都合のいい時だけ喜ぶ、本当に現金な妹だ。
「それじゃあ梅も付いていきます!」
「はいはい」
まるで欲しかった玩具を買ってもらえるとワクワクする小学生男児のように宣言する妹は、もう手のひら返しを許さないぞといった雰囲気だった。
使用人に見られながら僕は奥まで進む。多分、梅がいることを気にしているのだろう。僕も関与すべきことなのだろうが、このおてんば娘のやることなど自分が制御できるわけがない。
使用人が二人待つ部屋の前まで来る。僕たちがやってくると、その襖が開けられた。
「ようやく来たな」
僕に出迎えの言葉をかけてきたのは七星会に参加する九重家本家の後継、九重十三郎だった。
訓練で付いたのだろう額の傷に黒髪短髪の理髪そうな顔立ち、170cmの身長は僕よりも当然高い。彼は太々しく父親の隣で座っていた。海千山千の老獪共の中で平然と我が物顔で座っている。
「梅、なんでここにいるんですか?」
凛々しい声が響く。我が母親、我妻文だった。
「兄様に許してもらったの!」
妹は一歩前に出てDカップの胸を張る。妹のバストサイズを知っているのは以前使用人に言っているのを偶然聞いてしまっただけだ。他意はない。
母が僕を非難の目で見てくる。ごめんなさい、お母様……でも、このお転婆娘を止められなかったんです。というか、こういうことを見越して事前に釘を刺しておいてくれませんかね?
「良いでしょ? ね?」
「……仕方ありません」
色白切長の目を少し見開いて、はぁとため息をつく我が母に対し子供のように喜ぶ妹。
我妻文は周囲に確認するように面々の顔を見た。
「まあ、良いんじゃないか?」
中央13陸がうち3陸を担う九重本家当主、九重長三郎は言う。
「別にかまへんよ、減るもんやなしに」
中央13陸がうち1陸を担う白鷺本家当主、白鷺朧は張り付けた笑みを浮かべる。
「私も同じく」
中央13陸がうち2陸を担う雲井本家当主、雲井庸平は頷く。
「……それじゃあ、会議を始めましょうか」
中央13陸がうち6陸を担う我妻本家当主代理、我妻文は先導を取った。
これから闘魂士を統べる清明協の首脳会議、七星会が執り行われる。
その取締役である『お文』こと我が母は、会議の要件を話した。
「今日皆様に集まってもらったのは他でもない、怪異の件についてです」
「そりゃそうやろうなぁ、じゃなかったらどついてますもん」
「おい、白鷺」
「なんですか、九重はん?」
「……」
「……」
白鷺当主と九重当主が睨み合う。その喧騒を、母は一つの咳で吹き飛ばした。
「お二人とも、宜しいですか?」
「……良いぜ」「当然ですわ」
二人はまだしこりを残しているようで、言葉尻に不満を残したトーンだった。
なんで僕がこんなところにいなきゃいけないんだ……
「先日、魂波マグニチュード6.3が観測されました。場所は静景の南西。住宅街の一角です」
「6.3やったら正味三位の深緋程度やないですか。雲井はんところが選りすぐりを出したらええんとちゃいます?」
魂波マグニチュードというのは文字通り魂波の大きさだ。鵺羅や夜魅は活動の際に魂波という魂の揺らぎを出すことで知られている。その大きさで怪異の強さをある程度図ることができるのだ。
M6.3は白鷺さんが言った通り、怪異階級における九段階中の三位、中央13陸を揺るがしうると断定される『深緋』の個体と考えられる。
怪異の脅威度は色で分類される。基本序列は紫>緋>緑>縹、それぞれに浅と深が存在する。故に一位は深紫、二位は浅紫、三位は深緋、四位は浅緋、五位は……と続いていく。最後は無色、人を害しない程度の怪異だ。
話は戻るが深緋程度ならば四縁家とよばれる我妻家・九重家・雲井家・白鷺家のそれぞれのエースの誰かが対処すればいい。
静景が雲井家分家の担当であることを考えれば、本家からエースを借り出して退治するのが通例のはずだ。しかし、今回はわざわざ緊急招集がかけられた。その意味は──
「地図をご覧ください」
「あぁ、これは……」
「ご覧の通り、想定されうる被害範囲に皇霞が含まれております」
僕らが囲むテーブルの中央に広げられた地図の中心から広がった赤い範囲は、皇族の所有地である皇霞の上にも広がっていた。それを神妙な様子で見つめる面々。特に白崎朧は鋭い視線をその地図に注いでいた。
「皇霞は中央13陸の最も大事な場所、やからお文はんは我々を呼びはったんやな?」
「その通りです。我々から出た錆で唯一私達が管轄してない皇霞に被害が出れば、問題になるでしょう」
「清明協の官営化が進みますな」
九重当主の言葉に面々の顔はさらに渋くなった。
清明協は今の所、政府から独立を保っている。それは元々民間の組織が政府に変わって市民の安全を守ってきた名残であるが、近年では官営化をしたほうが適切だという声も上がっているのだ。
清明協はなんとかその流れに争っているが、無関心な一般市民や一部の闘魂士からもその声は上がっていて、このままでは時代の流れに逆らえそうもない。そこで出てきたこの事案はまさに彼らに絶好の機会を与えるものなのだ。
「決してマグニチュードだけで怪異の階級分類は決まりません。M5の怪異であっても、皇霞の中心に現れれば浅紫──九位中二位相当と考えられます」
「なら、今回は一段上の浅紫、あるいは最上位の──」
そこで僕に視線が集まった。
え、なんで僕?
「……兄しか対処できないじゃん」
なんでだ、妹よ!
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