雨宿り
3曲を通し終えて、千聖は再度部員に自主練習を言い渡し、教員室に戻ってきた。
メル、エリ、悠里は曲を聞き終えて、ソファに座り、やはり顔を見合わせていた。
真希か、一年生か、どちらかが振り落とされるジャッジをしなければならない時は刻一刻と迫っているが、メルは演奏を聴く前の気の重たさが今では少し懐かしかった。
真希と一年生のレベルの違いは明らかだった。
真希の方が上手かったのだ。
なぜこのジャッジを頼まれたのか。メルはそちらの方に困惑しており、おそらくエリも同じ心境であった。
「ふう。で、どうだったかしら」
一人がけのソファに座り、千聖が3人に聞いた。
「初めてこの距離で聴いて、すごい迫力に圧倒されちゃったよ」
悠里が笑顔で答えた。
「私もです。みなさん息があっていて凄かったです」
エリも悠里に乗っかる感じで答えた。
「形にはなってました」
メルはソファの背もたれにはもてれかからずに、背筋を伸ばして、両膝を合わせた上に組んだ手を乗せて視線はテーブルに向けて答えた。
「ちょっと、メル」
とエリがメルの左の脇腹を右の肘で小突く。
「いいの」
とエリがメルの言葉を遮ろうとするのをやめさせ
「聞かせて、横山さん」
とメルの意見を聞くために視線をメルに向けた。
「すみません、藤原先輩。まず、このジャッジメントの真意が分かりませんでした。それから
さっきも言いましたけど、吹奏楽のことは全く分かりません。と前置きをさせてもらって、正直
言ってドラムがイマイチでした。他の楽器は音外してる人はいなかったなくらいしか分かりませ
ん。ドラムも下手じゃない。テンポもさほどズレなかったし、きちんと叩けてるんだと思います。でも余裕がなかった。一杯一杯なのが音から伝わってきます。それと、叩き方にムラがある。だから全体的にドラムだけ浮いて聞こえました」
千聖は目を閉じてメルの感想を聞いていた。
エリも正直に話したメルを見て
「ごめんなさい、私も同意見です。演奏が始まってすぐにドラムだけ違和感がありました。周りの楽器と溶け込んでいないように思いました」
千聖は目を開けて
「ありがとう。あなた達、松本君から聞いていたとおり、耳は確かなようね。それと、きちんと進言できる根性も本物ね。
そう、あなた達の言うとおり。形にはなってるわ。指摘されたドラムも下手ではない。我が部が求めるクオリティには達していると思う。でも上条真希のドラムはレベルが違うわ。テンポキープ、フィルインの正確さ、何より他の楽器をたてることができるの。そう、楽団の中のドラムは1歩引く演奏ができるかが重要なのよ。上条はその全てを持っている」
「余計分からないですよ。自主練の上条さんの方が格段に上手かったのに。なんでメンバーから外されるんですか」
メルは視線を千聖に向けて聞いた。
「見た目よ」
千聖は躊躇わずにメルに言った。
「え?」
メルは耳が追いつかなかったのかと思った。
「見た目、なんだそうよ。私も馬鹿げてると思うわ。でも事実、部員からの嘆願書にはそう書かれてあったわ。大きな楽団ならドラムは数台あることもあるけど、うちは1台。さっきの曲目を聴いても分かるとおり、ドラムにフォーカスされやすい曲が中心よ。いわば花形。楽団の顔。そんなドラムが大柄で太ってたら、あんな鋭い目つきだったら、うちの部全体のイメージに関わるのだそうよ」
「ほら、何年か前にさ。うちの吹奏楽部って綺麗めな先輩が多くて、可愛すぎるなんとかって
ちょっと騒がれた時期があったじゃない」
悠里が千聖に続いて話した。
「あぁ、そういえばあったね。そんな時期。私まだ小学生だった気がする」
エリは当時観たローカル局のニュース番組の吹奏楽部特集を思い出していた。
「実はあれからね、うちの部は世間から演奏以外にもビジュアルを評価の対象にされているのも事実なの。コアなファンもいるって噂よ。それを知ってか知らずか、吹奏楽云々よりも自分見て欲しさに入部する子達も多くてね。そんな流れを断ち切るという意味でも、私は堂々と上条にドラムを任せたいの。実力主義を貫きたいのよ。部長として、ミュージシャンとしてね」
教員室を出て、メルは悠里と二人で帰路に着いた。
エリは母親が今夜遅番だそうで、帰って夕食を作るため早々に自転車に乗って二人と別れた。別れ際、メルに
「上条さんのこと、頼んだよ!」
と言った。
「頼まれてもなぁ」
メルはジャージの上着のポケットに手を突っ込んで雨雲のかかった空を見上げた。雨はさっき上がったばかりだ。二人は割と広めの歩道を歩いていて、メルが歩道側を陣取った。
「私、ちーちゃんからちょっと前に今日のこと相談されててね。一度演奏を聞いてほしいって言われてたんだ」
「練習室見に行く時に悠里がちょうどいいって言ってたのはそのことか」
「まあね。でも珍しいね。メルあれから何も言わなかったよね」
悠里は空を見上げたメルを見て言った。
「珍しい?そうかな」
メルは空を見ながら悠里に答えた。
「だって、真希ちゃんがメンバーに入れないのは見た目が原因だなんて、メル一番嫌いじゃないそういうの。私あの場でメルは怒り狂うと思ってたよ」
「怒り狂うって・・・。あぁ、だから”私の案件”って言ったの?」
「そう、メル日頃から言ってるじゃない。柚木そらに似てるって言われるのが嫌だって。だから真希ちゃんの心情もよく分かるのかなって思って」
「見た目ね。うん、そう言うのはほんとくだらないと思うよ。でもさ、考えてもみてよ。私と上条真希じゃ比較にならないって。
上条真希は少なくともあの部の中ではドラムの実力を認められてる。でも見た目が原因で実力を発揮できないんでしょ。
私は自分の実力なんてまだ知らないし、楽器すら持ってないんだよ。そして知りもしない、できもしない”柚木そら”を求められるんだから。同じ”見た目”の悩みでも上条真希の方が断然かっこいいよ。
この前絡まれた酔っ払いはさ、後半は私のこと”そらちゃん”って呼んでたんだ。悔しいからできるだけ思い出さないようにしてたんだけどね。上条真希の話を聞いて、なんか思い出しちゃってさ。
上条真希はどこにいても、何してても上条真希なんだよ。いわゆる”見た目”も含めてね。なんかちょっと羨ましかったよ」
メルは視線を空から正面に向けて自分が感じた正直な気持ちを伝えた。
悠里はメルの、酔っ払いに絡まれた時のことを思い出さないようにしていたという言葉を聞いて、今日は終日メルのテンションがやや高めだったことの合点が入った。気にしていないようなそぶりだったが、やはりメルは落ち込んでいたのだ。
「ごめんねメル」
「ん?何が?」
「いや、謝りたいなぁって思って」
「なんだそれ」
メルは悠里を見て少しだけ笑った。が、すぐにまた困ったような表情に戻り、再度空を見上げた。
「しかしさぁ、どうも納得いかないんだよな」
「え?何が?」
「いや嘆願書だよ。あの吹奏楽部の音は息ぴったりだったし、部長の統率力は相当なもんじゃん」
「そうだね、ちーちゃん中学の頃からずっと吹奏楽やってるみたいで、経験も豊富だし。去年の次期部長選出の時も満場一致だったみたいだよ」
「じゃあ嘆願書って要らなくない?メンバーも部長を信用してるんなら、編成にしのごの言わないって普通」
「まあ、それもそうね」
「んー、なんで嘆願書なんか作ったんだろう」
メルが頭を抱えて俯いた。すると、ポツポツと雨粒がアスファルトに落ちて弾ける音が聞こえた。
「やばっ。降ってきた」
とメルは言い、悠里と一緒に走って近くのファストフード店の軒先を目指して走り出した。
「こりゃ本降りになってきたな」
メルと悠里はなんとか雨が本格的に降り出すより先にファストフード店の軒先にたどり着くことができた。
「そうねー、止みそうにないね。私お母さんに連絡して迎えにきてもらうね。メルも一緒に帰ろうよ」
「うん、悪いね」
メルは悠里に向かって両手を合わせて拝むような仕草をした。
それから二人はしばらく降り続く雨を眺めていた。
突然の雨に慌てている通行人は多く、運悪く濡れてしまった人はハンカチやタオルでしきりに服や頭髪を拭いていた。
傘をさして歩いている人や合羽を着て自転車に乗っている人はどことなく悠々としているように見えた。
悠里は慌てる通行人を見て
「今日、曇りの予報だったもんね」
傘持ってこなかった人多いはずだよと言った。
「うん、多分隣の人もそうだよ」
とメルは悠里を見てメルの隣で雨宿りしている人を左の親指で差しながら言った。
隣で雨宿りをしていたのは
上条真希だった。
「え、真希ちゃん?」
メルに言われて、メルが指差す方を見て悠里は驚いた。
悠里の声をかけられて真希は
「あ、松本君」
と答えた。
真希も傘を持ってきておらず、髪や肩が若干雨に濡れていた。
「ドラム、上手いんだね」
メルは真希に笑顔で話しかけた。
「え?」
「あ、ごめん。私、横山メル。同じ2年だよ。今日部活始まる前、私達練習室にいてさ。上条さんが練習してるのが聞こえてたんだよ」
「あぁ、そうだったんだ。いや、私はそんなに上手くないよ」
「またまた、謙遜はするもんじゃないよ。部長もかなり誉めてたよ」
「部長が・・・そう」
真希は視線を下げた。
「真希ちゃん、元気ないね。何かあったの?」
悠里が真希に優しく聞いた。
「今ね、退部してきたんだよ。吹奏楽部」
「真島」と表札に書かれたドアのインターホンをメルは押した。
すぐにドアが開いて、中から制服の間服の上からエプロンをつけた笑顔のエリが現れ
「いらっしゃい」
と言いメル、悠里、真希を自宅のアパートに招き入れた。
「ごめんね、エリちゃん。急に押しかけちゃったりして」
悠里は申し訳なさそうにエリに言うと、持参した鍋をエリに渡した。
いいよいいよと言い、エリは悠里から鍋を受け取ると
「うわ、本当にたくさん入ってるんだね、ビーフシチュー」
とさらに笑顔になった。
ファストフード店の軒先で真希から吹奏楽部退部を発表された直後、悠里の母親が迎えに来た。悠里が送っていくからと言って無理に真希を車に乗るように誘い、車内で松本家の夕食のメニューはビーフシチューであると知らされた。
悠里ママのビーフシチューは小さい頃からメルも何度も食べており好物の一つで、同時に一度にとんでもない量を作ることでも有名だった。悠里の家の夕食がビーフシチューである日はメルの家も夕食はいただいたビーフシチューであることが多い。
そこでメルは、どうせならビーフシチューを持ってエリの家に行くのはどうかと提案した。
エリは今夜遅くまで弟の理玖と二人で過ごす予定であったし、帰宅が遅くなったことで手の込んだ料理は避け、すぐにできるものばかりを準備するところであったため、メルからビーフシチューを持っての訪問の提案を受け、二つ返事で了解したのだった。
「毎回なんだけどね。なぜかうちのママ、シチューを作る時は分量の桁が一つ多くなるんだよね」
エリはもらった鍋をコンロで火にかけながら
「正直助かったよ。今日はもうサッと炒める程度のものしかできないと思ってたから」
と悠里にお礼を言った。
「エリの新妻感。たまらん」
メルの心の声は周囲にまる聞こえだった。
「あの、松本君。私までお邪魔して本当に良かったの?」
真希はまだ靴を脱がずに玄関に立ったまま悠里に聞いた。その声を聞いていたエリが
「上条さん、上がって。ご飯すぐできるから」
と急かすように言った。エリの言葉につられて真希は
「あ、はい」
と言って靴を脱ぎ、玄関から入ってすぐのキッチンに立った。
「さ、こっちこっち」
と温めた鍋を両手で持ち、持った鍋をリビングの方に動かしてエリは真希に移動を促した。真希がエリに促されるまま玄関から正面のキッチンに入って右側に位置しているリビングに移動した。すると、畳の間に置かれた食卓にはすでにビーフシチュー以外のメニューが並んでいた。
「理玖ー、ご飯だよー」
とエリが声を掛けると、リビングの隣の部屋から襖を開けて理玖が姿を表した。先に風呂に入ったようで、髪が若干濡れており大きめのジャージのズボンにロンTといういでたちだった。
「きゃー、理玖君。はじめまして。私、松本悠里です」
悠里はキャーキャー言いながら両手を降って理玖に挨拶した。
「はじめまして」
と理玖はすこし恥ずかしそうに挨拶しながら食卓の普段座っている自分の位置に腰を下ろした。
「はじめまして。私、横山メルです」
「あ、私は上条真希」
メルと真希も、悠里と比べるとかなり落ち着いた感じで挨拶をした。悠里はすぐに理玖の左隣に座った。
理玖の右隣にはエリが座り
「じゃあいただきましょう」
と言い手を合わせた。全員でいただきますと言い、真島家では珍しく賑やかな夕食が始まった。