藤原千聖
「そりゃ危ないって!」
昼休み、高校に進学して以降メルは殆どの日を悠里と過ごすか一人で過ごすことが定番となっていた。
ところが、高校2年に進級して6月になるとなぜかメルの机を囲むように、悠里、エリ、瑠璃が各々のお昼ご飯も持ち寄ってメルの話をしながら過ごしている。
あれ、私こんなに友達多かったけ?
とまさに青春の1ページのような場面に遭遇してメルは思った。
「うん、瑠璃ちゃんの言うとおり。私が行かなかったら本当に危なかったんだよ、メル」
とエリはメルを心配そうな表情で見た。
「いや、エリもだよ!二人とも危なかったって話じゃん、それ」
瑠璃はエリの行動も含めて二人の友人に忠告をした。
メルは先月最後の週末に起こったこと、いつものようにライブを鑑賞した後、チンピラ風情の4人組に絡まれたが10年ぶりに再度革ジャンを着たパンクス二人に助けてもらった話をしたところであった。
「危なかったけど、おかげで恩人にも会えたし、エリとバンド組む事になったんだから、得たものの方が多いよ。でもまあ、男達に肩と腕を掴まれた時は流石にもうダメだと思ったよ」
メルは正直にあの瞬間に感じた事を話した。
悠里は弁当を食べていた箸先をメルに向けて
「あんな芸当はメルにしかできないけど、流石のメルも今回は懲りたんじゃない?」
とため息混じりに話した。
「はい、皆さんのおっしゃる通りです。今まで悠里にも心配かけてただろうし、その点は謝るよ。ごめんなさい。でも、もう目的は達成したし、しばらくはライブ観に行くの控えるよ」
あの夜、父の健一郎がメルを抱きしめた時、メルは健一郎が今までどれだけ心配していたのかを知った。悠里も今までメルに何も言わなかったがやはり心配していたのだろうと思い反省していた。
メルの話を聞いて、3人はようやく納得したように笑顔に戻った。
「今度は4人でライブハウスいこうよ。私行った事ないから、ちょっと興味あるんだよね」
瑠璃が好奇心旺盛な顔つきでメルに話しかけた。
「うん、そうしよう。楽しいところだよ、ライブハウスは」
メルは笑顔で瑠璃に答えた。
「それでさ、その二人のバンドのことなんだけど」
悠里は水筒のお茶を飲んでメルに聞いた。
「エリちゃんとメルがメンバーなのは分かったけど、その他の楽器はどうするの?って言うかメル何するの?」
「ボーカルでしょ!」
瑠璃がキラキラした表情でメルに右の人差し指を向けて言った。
メルは少し笑って右隣のエリを見た。
エリもニコッと笑ってメルを見た。
「実はパートはもう2人で決めててさ。
エリはギターボーカル。それで
私はベースをやるよ」
メルが笑顔で担当楽器の発表をすると、すぐに瑠璃は
「え?!ベース?ボーカルがいいって!」
と異議を唱えた。
「メル、ベース弾いたことあるの?」
悠里も心配そうな表情でメルに聞いた。
「ベースは弾いたことない。
瑠璃、残念。エリの曲はエリの声に合うように作られてるから、ボーカルはエリで決定。
私の声じゃどうもピッチが合わなくてさ。
それに、どうせどこぞのアイドルグループの柚木なにがしのイメージでボーカル推してきてるんでしょ?」
メルは瑠璃の考えを見透かしたように言った。
「バレてたか」
と瑠璃は肩を落とした。
「でも私もね、メルが歌ってくれたら嬉しいなって話はしたんだよ。でもきっぱり断られたよ」
エリは瑠璃のことを元気づけるように、メルと二人で話したことを打ち明けた。
「メルが”柚木そら”嫌いなのはもはや病的だね。
やったことないのにベースするって、なんか作戦はあるの?」
悠里は弁当を片付け、メルの机に右の肘をついて頬杖の格好になった。
悠里はメルと話す時は大体この格好になる。
「んー、楽器は今度中古のやつ買いに行くとして、そのほかの作戦は特になし」
メルはなぜか自信を持ってそう答えた。
「あはは、大丈夫かなぁ。練習場所は?」
悠里がなおも心配そうにメルに聞く。
「練習場所は音楽室横の練習室にしようと思ってる。この学校軽音部ないし、吹奏楽部の邪魔しなきゃ何も言われないでしょ」
メルは将来を設計する時、妙に楽観的な考え方をしてしまう。それがメルの恐ろしいまでの行動力の原点と言えるが、最大の弱点でもあると悠里は感じていた。
まったく、いくつになっても危なっかしい子なんだから
悠里は頬杖をついたままエリ、瑠璃と話している笑顔のメルを見てそう思った。
「分かった。吹奏楽部には私から話を通しておくね」
小さい頃悠里は、メルから守ってもらっていじめられていた時期を乗り越えた経験から、いつかメルを守れる人間になりたいと思うようになっていた。
例の公園での一件以降、人と話すことが怖くなくなったことも大きく影響しているが、そもそも自分は人付き合いが得意なのだと悠里は気づいた。
ある時、メルと誰かがトラブルになりかけた際に、悠里が仲裁に入ることでそのトラブルを回避できたことがあった。
これだと思った。自分の交友関係の広さは武器になると感じたのだ。
言わずもがな、悠里は校内の部活の部長クラスの生徒と全員仲が良い。
「サンキュー、悠里」
メルが笑顔で悠里に軽くお礼を言った。
悠里は胸がキュッと痛くなった。
・・・まただ。なんなんだろ、この気持ち
最近悠里はメルの笑顔を見ると、胸に何かしらの違和感を感じることが多くなっていた。よく分からない感情がついてくることが多く、悠里はこの正体不明の感情に困惑していた。
悠里がメルを眺めていると、悠里の視線に気づいてメルが悠里を見た。
「そうだ、悠里。今日放課後予定ある?さっそく練習室見にいこうと思ってるんだけど」
メルがニコニコ笑って話しかけた。
「予定ね、まあなくはないけど。ちょうどいいし行ってみようか、練習室」
悠里は胸にあるモヤモヤを、一旦無視しようと決め笑顔でメルに答えた。
放課後、メルとエリ、悠里の3人は音楽室横の練習室に居た。
瑠璃は絶対行くと言っていたが、音楽室に向かう間際にスマホを確認すると母親からの帰宅命令があり、泣く泣く音楽室見学は諦めた。
音楽室は新校舎の3階、最上階にあって、1フロア全てが音楽室と練習室と教員室が配置されており、放課後は関係者以外の出入りはほぼない。今日は吹奏楽部の練習があるようで、授業の終わった部員の一人が音楽室でドラムを叩いているのが聞こえていた。音楽室の横を通る時、やっぱり吹奏楽部はレベルが高いねと3人は口々に言った。
外は雨が降っており、花壇の手入れは今日はできない。エリはメルと悠里と一緒に練習室を見に来ることができ、雨に感謝した。
練習室は全部で4部屋あり、一部屋4畳半程のスペースで完全防音の作りになっている。扉も、リハーサルスタジオやライブハウスのそれと同じような重厚な作りのものだ。音大を受験する生徒の発声や演奏練習の場所も兼ねているため、部屋の隅には1台アップライトピアノが置かれており実際のスペースよりも狭くなっている。
メルは初めて入る練習室に目を輝かせ
「結構本格的な作りなんだね、驚いたよ」
と感想を述べた。
エリもすごいとかほーっとか声を出しながらキョロキョロと部屋の中を見ていた。
「少し狭いけどね、ここならある程度なら大きい音出しても問題ないんじゃないかな」
悠里はアップライトのピアノに片手を置いてメルとエリに話しかけた。
「んー、そのアップライトのピアノもさ、電子ピアノにしたらもっと部屋が広く使えるのに」
とメルはピアノをスペース泥棒のように言った。
開きっぱなしにしていた防音の扉付近に女子生徒が現れ、防音扉を2回ノックして
「失礼します」
と言って部屋の中を覗いた。
細身で164センチのメルの身長とほぼ変わらない背丈で、髪の長さもメルとほぼ同じだが、大きめのメガネをかけ、前髪はメルより長かった。メルとエリ同様間服の上からジャージを着ていた。
「あ、ちーちゃん」
やっほーと言って悠里が右手を顔の位置まで上げて挨拶した。と同時にアップライトピアノから小走りで入り口の女子生徒に近づいた。
「こちら、3年生の藤原千聖さん。吹奏楽部の部長さんだよ」
悠里は振り返ってメルとエリに千聖を紹介した。
「はじめまして」
メルとエリは同時にそう言って頭を下げた。
横山メルさんと真島エリさんと悠里は千聖に二人を紹介した。
「はじめまして。じゃあ、松本君の話してた二人はあなた達ね、練習室を使いたいっていう」
悠里は昼食後に早速千聖のもとを訪れ、練習室使用の許可を得ていた。
「そうです。私たちバンドを始めようと思ってて」
メルが一歩前に出てそう話した。
「バンドね。別に構わないけど、これだけは傷をつけないでね」
千聖はメルの方へ歩きながら話し、メルの後ろにあるアップライトピアノまで歩いてピアノに手を置いた。
「これは新校舎に音楽室が移る時、私が先生方に無理言って置いてもらったアップライトピアノなの。練習とは言え、やっぱり本物の音を聞きながらやると、きちんと耳が育つの。横山さん、分かるでしょ」
千聖は表情を崩さずに、よりによってメルに同意を求めた。
「はい、その通りだと思います!」
つい数十秒前にスペース確保を優先して電子ピアノにすればいいと悪態をついていたメルを知っているエリは、メルのその調子の良さに驚いた。
「私、バンドの楽器や機材をよく知らないんだけど、ここは狭くない?」
千聖がアップライトピアノ側から入り口に向いて部屋を見渡しながらメルとエリに聞いた。
「確かに、ライブハウスに置いてるアンプってかなり大きいからなー。あんなのここに置いたら、ドラムセットなんてとても入らないな」
メルは両手をおそらくマーシャルのヘッドアンプとキャビネットであろう大きさほどに広げて
練習室の中を動き回って適当な採寸をした。
すると、今まで隣の音楽室から鳴っていた例の自主練のドラムが鳴り止んだ。
「あぁ、もう部員が集まりだしたわね」
というと千聖は練習室から出て行こうとした。が、立ち止まって振り返り
「そうだ、松本君。例のこともあるしちょうどいいわ。そこのガルバンの子達とちょっと来てくれない?」
そう言うと、悠里とメルとエリを連れて音楽室の隣の引き戸を開けた。
どうぞというと3人を薄暗い部屋に通した。
「ここは…」
メルが不安そうに千聖に聞くと
「教員室よ」
と言い、千聖が照明を付け、部屋が明るくなった。明るくなると、様々な書類が置かれた事務机が壁に向かって置かれ、まるで今席を立ったかのような角度のまま放置されたオフィスチェアの背もたれには淡い桃色のカーディガンがかけられており、文化系の教員室の雰囲気を感じることができた。広さは先ほどの練習室3つ分と言ったところだ。
「教員室は綺麗にしとくようにあれだけ言ってるのに…」
千聖は机上の他にも面談で使用すると思われるソファや壁の本棚に乱雑に置かれた本や書類、一部衣類等を見ながらため息混じりにそう言うと
「あ、ごめんね。ここ、音楽教師の山野先生の教員室。汚いところだけど座ってゆっくりして」
照明のスイッチがある位置から動かずに視線でソファに座るように指示した。
音楽教師の山野先生は二十七歳の女性教師で、吹奏楽部顧問だ。
3人はなんとか座れるポイントを見つけソファに腰を下ろした。
メル、エリが二人がけのソファに、テーブルを挟んで向かいに置いてある同じく二人がけのソファに悠里が一人で座った。ソファはもう一つ、一人がけのものがあり、向かい合っている二人がけのソファを眺められる位置、コの字の縦棒の位置に置いてあった。
「お茶でいい?」
千聖は戸棚から湯呑を3つ出し、粉末の緑茶を湯呑みに入れると入り口横のウォーターサーバーからお湯を注いだ。
「どうぞ」
小さいお盆に湯呑みを乗せて運び、千聖はソファの前にある膝下ほどの高さのテーブルの本の上に湯呑みを3つ置き、一人掛けのソファに座った。
「ありがと、ちーちゃん」
悠里は慣れたように湯呑みを手に取った。メルとエリはまだ落ち着かず、壁や天井をキョロキョロと見渡してた。
「遠慮しないでね。ここのものは好きに使っていいって山野先生に言われてるから」
依然として一度も真顔から表情を崩さずに千聖が言った。
「さすが、部長クラスになると先生からの信頼も厚いんですね」
とメルが言った。エリは
「いただきます」
と千聖が淹れてくれたお茶の入った湯呑みを手に取った。
「まあ部長だからっていうより、私が山野先生の従姉妹だからよ」
「え?そうなんですか?」
メルとエリは飲もうと思ったお茶を吹き出しそうな程驚いた。
「ええ、山野は私の母の旧姓。先生は私の母の兄の長女よ。私は五つ上の兄がいるから、少し歳が離れてるけどね。流石に部長と言えども教員室をここまで自由に使ったら怒られるわ。親戚だから成せる業よ」
エリはへぇーと声をだし、メルはですよねぇとまた調子を合わせた。
千聖のこの落ち着き、佇まい、所作の一つ一つが大人びている理由が分かった気がした。
「部長、そろそろ部員が揃います」
教員室は隣の音楽室の教壇の裏にあり、教室と教員室を繋ぐ引き戸が入り口入って右にあった。そこを開け放しておけば教員室からも音楽室の音が聴けるのだ。その引き戸にはまるで大名に仕える副真のように部長に声をかけた女子生徒が立っていた。
「は、失礼しました。来客中でしたか」
女子生徒はやはり副真のような物言いをした。
「ん、構わないわ。副部長。部員には少し自主練をするよう伝えて」
ソファに座ったまま千聖が副部長に伝えた。
「はい。かしこまりました」
と言って一礼すると副部長は音楽室に消えていった。
「御意って言わないんだ」
とメルは真顔で言った。エリはメルが茶化して言ったのだと思って、ちょっとと言いながら右肘でメルの左脇腹を軽く小突いた。メルは小突かれた意味が分からなかった。
「御意って横山さん、戦国武将じゃないんだから。それとも私が武将みたいだと言いたいのかしら?」
千聖から聞かれてようやくメルはエリの小突きの意味を理解した。しかし
「いいえ、武将より怖そうです」
とメルは自信を持って答え、エリは肝を冷やした。
「ところでちーちゃん。何で教員室に呼んだの?」
悠里がお茶を飲み終えた湯呑みをテーブルに戻し、千聖に聞いた。
「松本君には以前話したけど、実は少し困ったことになっているの」
千聖はそう言うと立ち上がり先ほど副部長が出ていった引き戸に移動し引き戸のガラス部分から音楽室内を見るよう指示した。どうも千聖は言葉ではなく態度で相手にどう動いて欲しいかを伝えるタイプのようだ。
3人は千聖の指示どおり音楽室内を覗いた。40人ほどの部員が各々のパートの確認をしている様子で、音は取り止めもなく鳴り続いていた。
するとメルはその光景に違和感を感じた。
「ん?ドラムの席に座ってる人、さっき自主練してた人と違う人が座ってる」
音楽室内を見ながらメルが言った。
「さすが横山さん。私が見て欲しかったのはそこよ」
千聖も音楽室内を見ながらメルの着眼点の鋭さを褒めた。
「お褒めに預かり、光栄です。殿」
と調子に乗ったメルが副真の真似をした。エリは次こそ千聖の機嫌を損ねたと思って咄嗟に千聖を見た。千聖は一度メルを見てまた音楽室内に視線を戻すと
「精進怠るでないぞ、横山」
と無表情に殿を演じた。
あ、ノリのいい人なんだとエリは思い、安心した。と同時に表情わかりづらっと心の中で千聖にツッコミを入れた。
「さっきドラムの自主練してたのは、ほらあそこに立ってる女子、上条真希」
千聖は音楽室の右、廊下側の窓の方を見ながら言った。
3人も視線を移し、真希を見つけた。
「でかいなあの子。170センチくらいあるかも」
メルは思わずそう呟いた。
その身長の高さと体重も3桁に手が届きそうな体格、切長の目とショートカットの髪型のせいでかなりの威圧感を放っていた。
「彼女は2年。ドラムの腕は相当なものよ。でも今期の定期演奏会は今座っている1年がドラムを担当することになっているわ、今のところ」
腕を組み、教員室入り口側の壁にもたれかかりながら千聖は言った。
「え?上条さん、さっきの自主練の時かなり上手く感じましたけど、演奏会のメンバーじゃないんですか?」
そう聞いたエリも真希のドラムの腕は相当なものだと感じていた。
「2年?見たことないな」
メルのその問いには悠里が答えた。
「真希ちゃんは6組なの」
「あぁ、6組。どうりで見たことないはずだ」
とメルは呟いた。
2年生は南棟の校舎だが、1組から5組が1階で6組からは2階になるため、メルは真希を見たことがなかった。
「今期の演奏会は3年のドラムが腕の怪我で出演できないから、私は順当に2年の上条をメンバーとして加えた。すると、その編成に不満があるとかで上条と私以外の全員の署名が書かれた嘆願書が届いたの。編成の見直しを要求すると。だから、今日のリハーサルで最終選考とすると部員達には伝えたわ」
「うーん、と言うことはあの1年の女の子、相当上手いってことか」
メルが感心してドラムセットの前に座っている女子を見た。
「そこを、3人にジャッジしてほしいの」
”3人に”のところで千聖は悠里、メル、エリの順に指差しながら言った。
エリは千聖から指を差され、思わず自分を指差して
「む・・・無理ですよ。私吹奏楽のこと全く知らないですし」
おどおどとエリが千聖の要求を拒否した。
「右に同じです。部長のメンバー編成に物申してまでドラムの椅子に座るってかなりの自信だと思うんですよね。あの1年の子。そんな目に見えたものの勝敗を無関係な私たちがジャッジして、結果上条さんを傷つけることになるなんて、荷が重すぎますよ。藤原先輩」
メルは引き戸から離れ、座っていたソファに向かって歩きながら千聖に言った。
「まあまあメル。せっかく演奏聴かせてもらえるんだし、聴いてみようよ」
悠里もメルの後に続いてソファまで移動した。エリも悠里に続いてソファに位置に戻った。
「それにね、この話は結構メル案件だと思うんだよね」
と悠里が続けた。
「何?私の案件って。勝手に言葉を作るな悠里」
メルが怪訝な顔つきで悠里を見た。
「じゃ、頼んだわね」
と言うと千聖は引き戸から部員の待つ音楽室に入っていった。
「強引だな、あの先輩」
メルは真希にとって辛い結果になると思い、気が進まなかった。が、ここでごね続けて千聖の機嫌を損ねるとバンドの練習場所も失いかねないとも思っていた。
「じゃ、聴いていくか」
と言うと、メルはソファに腰を下ろした。
部長の千聖が音楽室に入り、教壇に置かれた指揮台に立つと、先ほどの副部長が
「起立」
と号令をかけた。号令の直後、部員はピッタリ息を合わせて席を立った。
その音は教員室にいるメル、エリ、悠里の3人にもしっかり聞こえていた。どうやら千聖は引き戸を開けたまま音楽室に向かったようだ。
「座ってください」
と千聖が声を発すると、すぐに副部長が着席の号令をかけ、また全員がピッタリとタイミングを合わせて椅子に座る音が聞こえた。
「えー、顧問の山野先生ですが現在臨時の職員会議に出席されています。不在の間、私が指揮を務めます。よろしくお願いします」
と千聖が言うと
よろしくお願いします、と部員が大きな声で部長に返事をした。
「ひー、結構体育会系なノリなんだな」
とメルは驚いて引き戸から聞こえてくる吹奏楽部のやりとりを聞いた。
「では、先日お伝えしていたとおり、このリハーサルは演奏会のメンバー編成の最終選考を兼ねています。各自そのつもりで演奏に臨んでください」
千聖がそこまで言うと、部員は、はいとまた大きな声で返事をした。
「では、話していても始まりませんので、早速リハを開始します。演奏会のセットリストを通しでやってみましょう」
通しとはいわゆる「通し稽古」のことで、演奏会の曲目を最初から最後まで当日の演奏順に沿って演奏することだ。バンド練習の際には曲単位の練習でも最初から最後まで演奏することを「通し」とか「ランスルー」と言ったりする。
部長の指示に従い、これからセットリスト冒頭部分として準備している3曲を全て演奏する。
千聖が指揮棒が上げた。
部員が楽器のスタンバイをする。
部員全員が千聖の指揮棒に注目している。
言葉はないが、楽器を持ち上げる音、服が擦れる音で今音楽室がどんな状態か全て分かるようだった。
全員が息を合わせて始まった曲は
大野雄二の「ルパン三世のテーマ」だった。
吹奏楽では定番の曲目で、誰もが聞いたことのある曲の代表だろう。
途中”キメ”と言われる意図的に音を止めるテクニックも入り、聞き応えのある曲だ。
演奏が始まって3人はソファに座ったまま顔を見合わせた。
3人は同時に立ち上がり、先ほどの引き戸から音楽室内を覗いた。
「こ・・・これは・・・どういうことだ?」
メルはドラムを叩いている1年生を見ながら言った。