プロローグ ラグーン姉弟
「おいそっちいったぞ!盾構えな!」
「ウッス!任せてください!」
「オウ!網もそろそろ待機しときな!」
昼下がりの晴れ空に威勢のいい声が響く。街から1時間ほど歩いた草原では、全長2メートル大の牛と、十名余ほどの人間が相対していた。
彼等は近隣の街に本拠を構えるギルドであり、この猛牛トレーオを狩猟目的に遠征に来ていた。戦闘開始から30分、猛牛トレーオは消耗し、尻尾を小刻みに上下に揺らしている。
突進力は最初の半分といった状態だ。ここを凌げば楽に捕獲できるが、油断すれば捻じくれた角に貫かれ、一瞬であの世行きだ。
「回り込んでくるぞ!軽い奴は距離取りな!」
「気張るぞ、明後日の祭の良い景気づけだ!」
女リーダーの指示に従い、呼吸を合わせて足を運ぶ。中々に重労働だが、彼等の表情は明るい。この先に待つ報酬や仲間からの歓声を考えれば、痛みさえも心地よく思えたからだ。
「女将!丘にいるヤツは援軍かなにかで?」
「ん?知らないぞ。誰だアイツは」
彼女等のいる場所から20メートル程離れた位置、傾斜の付いた丘の上に2つの人影が見えた。こちらから見上げる配置であることや、逆光であるせいで細部は見えないが、全く慌てる様子も無く悠々と歩いているようだ。
トレーオも人影に気付いたようで、威嚇するように鼻を鳴らした。ここまでの戦いで疲れてはいる筈だが、その振る舞いには未だに威圧感が残っている。トレーオはその場で短く叫ぶと、尻尾を背中に当たるほど強く振りながら、槍らしき物を持っている人影に向けて突進を始めた。彼の持つ棒の先端が陽光を反射したのを、自身への挑発と捉えたか。
「やばいやばい!おーい、そこのあんた、早く逃げな!」
「走れ!走れ!」
「あぁ、間に合わない!」
人影は声に気づいたようでこちらと猛牛を交互に見るような素振りをしたが、いかんせん猛牛との距離が近すぎた。逆光の中で2つの影は交錯し、そこにいた人々は凄惨な光景を想像しながら、思わず目を瞑った。
「……何か妙じゃないか?」
彼女等の予想とは裏腹に、悲鳴らしき声は聞こえなかった。草原は何もなかったかのように、草が風にそよぐ音だけを鳴らしている。
「見ろ、あそこ!」
先んじて坂を上った1人の曲刀使いがそれに気づき、右手をこちらに振って集まるよう促した。丘を登りきった彼女等の視線の先には、ひっくり返って地面に倒れている牛の身体と、こちらを見て口を開けている猛牛の首が置いてあった。
牛の表情は先程まで暴れまわっていた時の、憤怒の形相のままだった。きっと最後まで、自分が死ぬことには気づかなかったのだろう。
「よぉおたく等、さっきは叫んでくれてサンキューな」
牛に目を奪われて気が付かなかったが、牛の数メートル横には一組の男女が立っていた。恐らくは先程の人影の主であり、槍を持っている男のほうが牛の首を切り落としたのだろう。
真っ赤なコートと高級そうな黒いブーツが特徴的な男は、リラックスした様子で伸びをし、腰を左右に曲げてストレッチをしている。
「君、一撃でトレーオを仕留めたの?」
「この牛が大分弱ってたおかげだよ。あんた達がやったんだろう?」
「うおぉ、こいつぁ見事な切り口。槍でこんな綺麗に割けるのか?」
「槍じゃなくて矛だぜ。こいつでズバッと一振りさ」
男はゆっくりと伸脚をしながら足元を指さした。確かに、槍にしては穂先が大きく、先端も反るように綺麗な曲線を描いている。何より目を引くのは刃の質だ。日の光を一点に集めたような白銀色の刃が紛れもない高級品であることは、仮に素人が見たとしても一目瞭然だろう。
「これは立派な……、この切り口といい、かなりの手練と見た。どこか有名なギルドの所属か?」
「どこにも入ってないぜ。の~んびり旅をしてるんだ。こっちの姉ちゃんとな」
それまで男の背に隠れるように息を潜めていた茶髪の女性は、男の言葉に反応して軽く頭を下げた。ギンガムのフレアスカートに白のブラウスを合わせて藍色の上着を羽織り、背には鳥の翼を象った木製の弓を背負っている。いずれも一目で分かるほど高級そうな布を使っているようだ。一見そこらの少女のような装いだが、猛牛を一撃で倒す男の姉なのだ、こちらも只者ではないのかもしれない。
「……どうも、姉のパティです」
「よろしく頼むよ。いやなに、どこにも所属してないってんなら丁度いい。君の力を見込んで頼みがあるんだ」
「頼み……?報酬と内容次第だな。お金の貸し借りはごめんだぜ?」
「大丈夫、そういうんじゃないから。2日後に私等の住むサマナって都市でギルド同士の格付けがある。そこでギルドの男共が殴り合うのさ。別に深刻な話じゃない、祭の余興だ」
「それに助っ人として出ろってわけか」
「話が早くて助かるよ。お給料も出すつもりだけど、どうかな?」
「いいぜ。祭も気になるし、サマナには元々寄るつもりだったんだ。やるからにはバッチシ貢献させてもらうぜ。姉さんもいいだろ?」
「……いいんじゃない?でもやるからには優勝しなさいよ」
「頼もしいな。話も決まった所で、トレーオを解体して早速サマナへ行こうか。ああいや、その前に。君の名前を教えてくれないか」
男はもう一度両手を背中で結んで伸びをすると、両手を腰につけて胸を張るような体勢をとった。その様子は親の前で恰好をつける子供のようで一見滑稽にも感じられたが、不思議と様になっていた。
「俺はアッシュ。アッシュ・ラグーンだ。よろしくな」
この小さな選択はアッシュの人生を、ひいては世界の運命を大きく変えることになる。その事に気づいた者は、まだ一人もいない。