四章 死の蓋
体が重い。霊力を奪われているんだな?とリティルは感じた。
鬼籍の書庫へ降りると、蓮の池の上に、舞台が用意されていた。
空には、皆既日食が映し出されている。太陽が欠け始めていた。
「よし!やってやるぜ!」
気合いを入れたリティルは、トンッと軽く踏みきると舞台まで一気に飛んだのだった。
ただ、円形に石畳が敷かれただけのその場所に、リティルは降り立った。
中心には、ぽつんと、これ見よがしに墓標が立っていた。あれには、これから戦う歴代風の王の名が浮かび上がる。
リティルは墓標には近づかずに、両手に一対のショートソードを構えた。
浮かび上がったその名は、14代目風の王・イン。
墓標から風が解き放たれ、渦巻き、半透明ながら確かな存在感を持った幻影が姿を現した。
幻影のインは無表情に、長剣の切っ先をリティルに突きつけると、トンッと踏切り、鋭く切り込んできた。
「!」
切り込んでこられると思っていなかったリティルは、辛うじてインの剣を受けたものの、彼の纏っていた風の糸に全身を浅く切られていた。それだけでは終わらず、インの長剣が高速で閃く。完全にインの手中で、リティルは舞台の端である、暗黒色の透明な壁際まで瞬く間に追い詰められていた。
――落ち着け!これくらいのこと、立て直せ
突如、心がノインの叱責する声を、弾けるように思い出していた。
「ああ、当たり前!だろっ!」
トンッとリティルは壁を両足で蹴ると、インを飛び越えて背後を取っていた。途端に襲ってくる風の糸を、リティルは自身の周りに展開した風の針で断ち切っていた。身を翻したインは、切りつけてきたリティルとすれ違うようにして、空へ離脱していた。それを追って、リティルも空へ舞い上がる。リティルの振るう剣はことごとく躱されたが、やっとリティルの知るインの戦い方に持ち込めた。
これで一安心だけど、さてとこれからどうするか……と攻撃の手を緩めないまま、リティルは困っていた。このまま攻撃を続けても、永遠に踊らされるだけだ。
冷静にインと戯れていたリティルの心に、再びノインの今度は風の騎士の言葉が蘇った。
――インは強敵だ。オレでさえ、おまえと組まねば勝つのは難しい。だが、数秒彼を捕まえる事ができれば、おまえ1人でも勝機はある
その方法は、リティルらしいやり方だった。故に、騎士は策は授けてくれたが、1度もそれを使わせてはくれなかった。当時、それを使ったところで、インに攻撃を当てることができるというだけで、倒すことができないと、わかっていたからということもあった。しかし、今なら行けるかもしれない。いや、行くしかなかった。
出力を最大まで上げた風の針。それで急所を射貫くことができれば、リティルにも勝機はあった。
力の精霊・ノインが初めてくれた助言。リティルは、仕事の合間を縫って、深淵の闘技場でゴーニュと風の針の改良をしていた。それに気がついた、再生の精霊・ケルディアスや次男のレイシが、面白そうだと強度試験に付き合ってくれたりした。
インの反撃を躱したリティルは、息を詰めると体の周りに展開した風の針を巧みに操り、インの突きを誘った。乗ってくれるかは賭けだった。
――あまりこういう手は使わせたくはない
ため息交じりの力の精霊・ノインの声が蘇る。
しかたねーだろ?相手はあのインだぜ?と、気が進まないと言いながらも、闘技場で練習に付き合ってくれたノインの幻に、リティルは何度目かの言葉を投げた。
インは乗ってきた。
「くっ!速えーな……!」
心臓を狙って繰り出された突きを、リティルは脇で挟み止めるつもりだったが、さすがはインだ。音速の突きで、リティルは辛うじて致命傷は避けたものの、心臓のすぐ脇を貫かれていた。両手の剣を捨てたリティルはインの手を掴み、一瞬動きを止めたインの心臓に向かって、視線だけで風の針を飛ばしていた。
インの体を守っていた風の障壁に、僅かな穴が穿たれるのを、リティルは見た。
………………浅かったか?剣を握るインの手に、力がこもるのを感じた。これで倒せなければ、失敗だ。インを相手にしたまま、血染めの薔薇を使うしかない。
インの姿が、揺らめいて、そして霧散した。
「か……った……」
――最後まで気を抜くな!
と、ノインの声がしたが、未だ刺さったままの剣がもたらす痛みと、極限まで緊張していたその糸が切れて、リティルはそのまま舞台に落下してしまった。
舞台上で倒れて動かなくなったリティルにかまわず、墓標は次の風の王の名を、記していた。
2代目風の王・インフィーユ。
墓標から容赦なく風が立ち上り、鎧を身につけた幻影が姿を現した。
「リティル殿!ファウジ、儀式の中断を!もう、無理でありまする!」
舞台の外から戦いを見守っていたシャビは、インフィーユの幻影が倒れて動かないリティルに迫るのを見て、相棒のファウジに懇願した。倒れたリティルの体から流れ出た血が、溜まりとなって床に広がり始めていた。
それを目の当たりにしてもファウジは、険しい瞳ながら動かなかった。
「待て。待つのじゃ。リティルは立つ。ここで我らが信じずしてどうするのじゃ!己が決めた、主君じゃろう!」
ファウジは、リティルに言われていた。「オレが倒れても、儀式中断するなよ?絶対、起き上がってみせるからな!」胸を張って笑うリティルを、信じたい。
ファウジの組んだ腕を掴む両手に力がこもり、その腕を傷つけているのをシャビは見た。
無常の風の目の前で、リティルのそばにたどり着いたインフィーユが、長剣を両手で握り直し、リティルの体に突き立てようと振り上げた。
皆既日食は刻一刻と進んでいた。
花園に、ドーム状に張った結界の内側から空を見ていたラスは、固有魔法・蓄音機で中継していたインジュの歌が、唐突に途切れたのを感じた。
「インジュ?」
どうしたのかと、心で話しかけようとしたその隣で、共に上を見上げていたフロインがグラリと動いた。
「フロイン?フロイン!」
地に伏したフロインは、咳き込んで血を吐いていた。慌ててラスがその顔を覗き込むと、彼女は動揺していた。
「――リティルが……」
彼女の本体は、リティルの中にある至宝・原初の風2分の1だ。そこからクローンを作り出して心臓にしているが、リティルとは原初の風を通して繋がっている。
「シェラ、何かわからないか?」
顔を上げたラスに、シェラは苦しそうに首を横に振った。
「……死の安眠中は、外部から中のあの人に働きかけることができないの。リティルに何があっても、わたしにはわからないわ」
シェラの見上げた瞳の中で、月と太陽が完全に重なり、世界は夜の闇とは違う闇に包まれた。その穴のようになった太陽から、こちら側へ這い出ようとするかのように、骨となった手が、縁を掴むのを、見上げていた皆は見たのだった。
フロインに影響があったように、ピアノホールで歌っていたインジュにも、同様の衝撃が襲っていた。
「ゲホッゴホッ!――あ……リ、ティル――」
霊力を惜しみなく使い、歌っていたインジュは血を吐いて蹌踉めいた。唐突に歌が止み、曲を奏でてくれていた妖精バンドの手が止まった。
「インジュ!」
ピアノの椅子を倒しながら飛んできたインファに、インジュは背中から抱きかかえられていた。朦朧としているインジュは、天窓を震える手で指さした。
インファが見上げると、太陽の光が遮られ、冷たい闇が辺りを支配するのを感じた。
皆既日食だ。
パタッと何かが落ちる音で視線を戻すと、インジュは意識を失っていた。
「死の力が増していますね……父さん……」
血に、風の王の力があるといっても、インファの翼はイヌワシだ。死の安眠には関われない。インファの歌声にも力はあるが、共に歌う者の歌声の効果を底上げするというもので、1人では意味がない。
何も、することができない……。
歯痒さに奥歯を噛み締めたインファのもとへ、扉を開き、リャリスがシュルリと近づいてきた。
「お兄様、何者かが、死の蓋をこじ開けていますわ」
リャリスはスウッと何もない空間を撫でた。そこに、空の様子が映し出された。
空に開いた穴のようになった太陽から、骸骨の手が穴を広げようとしている様が見える。
そこへ、金色に光り輝く1羽のオオタカが飛来した。オオタカは、骸骨の指を引き剥がそうとしているようだった。
「お父様が戦っていますわ。けれども、分が悪いですわね」
「父さんは無事なんですか?」
「たぶん。としか言えませんわね。インジュの状態から察するに、一時的にしろ、お父様の意識が奪われたのですわね。それくらいのことが、起きているのですわ。お兄様、インジュを起こしますわ!」
そんなことができるんですか?という言葉を、インファは飲み込んだ。リャリスに説明させている時間が惜しかったのだ。
リャリスは、4本ある腕のうちの1本の手の平に、キラキラ輝く金色の風を取り出した。それは、対価として今までインジュからもらっていた彼の霊力だった。
リャリスはそれを、インジュの胸に押し当てた。
――――――――――――――――
インジュは、ただただ何もない空間にいた。
えっと、ボク、何してたんでしたっけ?と首を傾げていると、ある気配が生まれた。
同じ城に住んでいるのに、最近本当に顔を合わせることも、声をかけることもできなかったその人が、急に視線の先に現れた。
「リャリス!」
「近づかないでくださいまし」
駆け寄ろうとしたインジュを、鋭い声で制したリャリスは、インジュから視線をそらして顔を見なかった。
あ、まだ避けます?とインジュは寂しいなとお気楽に思ってしまった。
「対価は、ちゃんともらわないとダメですよぉ?」
「私が勝手に押しつけているのですわ。風の城から頂くわけにはいかないのですわ」
「じゃあ、ボク聞きません」
「子供のようなことを、おっしゃらないで。死の力が強すぎますわ。お父様もこのままでは命の危険がありますのよ?」
そうだった。リティルは1人で戦っている。それを助ける為に、ボクは歌っていたんだったと、インジュは思いだした。しかし、何かの衝撃で、ボクは意識を失ってるんだな?とインジュは何かに負けたことを感じていた。
リティルとは、彼の体内にある原初の風で繋がっている。原初の風はリティルを守ろうとして、一時的にインジュへの負荷が高まってそして、意識を奪うに至ってしまった。リティルは、大丈夫なんだろうか?と、インジュは不安を感じた。歌うだけでは彼の力になりきれないのでは?とインジュは僅かに焦りを感じてしまった。
今のボクがリティルを助ける方法、それは――
「リャリス、ボクが豊穣を司れないのは、ボクが男だからです?それとも、風の精霊だからです?」
豊穣――最高の産む力だ。その称号を持っている精霊は、今不在だ。
原初の風の精霊であるインジュは、その称号を冠することができる精霊であるはずだ。しかし、インジュはその称号を持ってはいない。
その力があれば、たぶん、襲ってきた何かに負けなかったとインジュは感じていた。死の力は強大で、これまで、原初の風を持っていなかった風の王達の命を奪ってきた。原初の風は、風の王に守ってもらう代わりに、死から風の王を守る至宝なのだ。だのに、原初の風の精霊という隠された力を司りながら、インジュはリティルを守り切れていないと感じていた。
「インジュ……お答えできませんわ」
「ボクは、風の王・リティルのためなら、何でもできます!」
それを許さない主君の手で、インジュは守られ続けていた。心を持ち、精霊として分かたれることを望んだばかりに、リティルは原初の風を道具として使わなくなってしまった。いや、リティルは初めから、この美しいばかりではない宝石を、愛でるばかりだった。歴代最弱で、形振り構っている場合ではないはずだったのに。
ルディルに捨てられたと悲しんでいた原初の風の心に気がついて、慰めてくれた。そんなリティルを守りたくて、インジュは生まれてきた精霊なのだ。強力すぎて、この力で1度リティルを引き裂いてしまったのに、彼は笑って、手放さないと言ってくれた。優しくて温かくて危うくて、そんなリティルを守りたい。
「それは、本当にあなたの心なのですか?お父様を傷つけることが、あなたの本意なのですか!あなたの言う、そのどちらの方法も、行えば2度と今のあなたには戻れませんのよ?」
「力の精霊になったノインも、リティルのそばにいるじゃないですか。ボクも、何になってもリティルのそばに帰りますよぉ」
問題ありません。と、インジュは明るく柔らかく笑った。
今まで散々彷徨ってきたインジュだが、もう揺らぐことはない。
死なない、リティルのそばを離れない。それだけを守り、この肉体、この力、この心を使う。さじ加減を見いだしたインジュには、造作もないことだった。
「ノインは、命さえも賭ける勢いで抗っていますわよ?あの方も、存外貪欲ですのね。力の精霊でありながら、風の王の力を欲するなんて」
「リティルの頼れるお兄ちゃんですからねぇ。リャリス、冗談はそれくらいにして、ボクに知識ください」
「……対価が、いりますわよ?」
「はい。あげますよぉ?リャリス、ボクに欲望を教えてくれません?ボクが賭ける対価は、これから、リャリス以外の女性に、そういう意味でかけるすべての時間です」
「あなたという人は……どこまで自分を犠牲になさるの?あなたのお相手は、私ではありませんわ!」
「だったら、十分対価になりますよぉ?」
「非道い人ですわね」
「リャリスがわかるのは、知識だけです。ボクの心まではわかりませんよぉ。リャリス、何も魂を分け合おうって言ってるわけじゃないです。ボクが欲望を知れば、原初の風は産む力を発揮できます。動かない太陽を、動かせます!」
「……呆れた人ですわね。何を欲するにしても、そんな対価は必要ありませんわ。あなたは、値段の付けられない至高の宝石ですのよ。これだけで、十分ですわ」
シュルリとインジュに近づいたリャリスは、そっとインジュの唇を奪っていた。
「インジュ、歌ってくださいまし。あなたはあなたが思う以上に、強い精霊ですわよ?」
ごきげんようと言って、リャリスの幻は去った。
インジュの胸に手を押し当てていたリャリスが、顔を上げた。
「お兄様、ドゥガリーヤの水を持っていますわよね?それを私に渡してくださいませ」
リャリスのさしだした手に、インファは金色に輝く水の入った試験管を、躊躇いなく何も言わずに渡した。
「何もお聞きにならないのね」
「時間が惜しいですからね」
無駄のないインファの様子に、リャリスはフッと視線目を伏せて「そうですわね」と呟いた。
「お許しください。お兄様!」
インファは咄嗟に動きそうになった体を、何とか動かさなかった。
あなたは、どこまで知っていますの?そんなインファの様子に、リャリスは思わずにはいられなかった。リャリスの手に握られていた筒状の刃が、インファの心臓に突き刺さっていた。筒を通して、血が、滴り落ちる。それを、リャリスは手にしていた杯に受けると、刃を抜いた。
「――っ……行きなさい……!」
蹌踉めいたインファの姿に、オロオロとすべきことを見失いそうになったリャリスに、インファは叫んでいた。弾かれたように、リャリスはインファの血の入った杯とドゥガリーヤの水を持って、シュルリと部屋を飛び出していったのだった。
廊下を滑るように走り、ある部屋をリャリスは目指した。
インファを傷つけてしまったことが、恐ろしく心に響いていた。体が震えて、泣きそうになるのをリャリスは堪えて前を向いた。犠牲が、これだけですむのなら、安いモノだ!そう自分に言い聞かせた。
たどり着いたのは、修練の間だった。
リャリスは、乱暴にダンッと2枚の手の平を扉に叩きつけた。ピシッと音がして、かけられた魔法は一瞬で粉々になっていた。
「ノイン!」
金色の金網の向こうにノインが座っていた。彼は、リャリスの姿を認めると、立ち上がる。リャリスが引っ掻くように網に手をかけると、強固に見えた網はプツンッと音を立てて、蜘蛛の糸のような儚さで断ち切れた。
「ノイン、ここに、お兄様の血とドゥガリーヤの水がありますわ」
「それを飲めと?」
ノインは動じた様子もなく、わかっていることをもう一度確認するかのように短く問うた。
「あら、わかっていますのね。あなたが濡羽色の力の使い手だとしても、どんな副作用があるかわかりませんわ。それでも、やってくださいまし!」
ノインは、差し出された2つを、受け取った。
「この、終わらない皆既日食を、終わらせる間だけ保てばいい」
ノインは杯に入った、インファの血の中にドゥガリーヤの水を注ぎ込んだ。
その様子を、リャリスはジッと見つめていた。
「と言ったら、リティルに口をきいてもらえなくなるな」
ノインはそう涼やかに微笑むと、杯を躊躇いなく呷っていた。
リャリスは、顔を覆っていた。
これは、インファが金色のドゥガリーヤの水を持っているのを見た時、脳裏に閃いた悪魔の囁きだった。
これは賭けだ。ノインの瞳と髪が未だ金色であるという点のみに賭ける、賭け。
強制的に、ノインの中に風の力を宿らせ、風の王の風を血に持つインファの血を与える。成功すれば、オオタカの翼は金色を取り戻す。しかし、失敗すれば?
顔を覆うリャリスの耳に、歌詞の違う『風の奏でる歌』を歌う、女性の声が聞こえた。
インに勝った。
それで気が緩んでしまった。舞台に墜落したリティルは、殺気にハッと意識を取り戻し、咄嗟に風の針を全方位に放っていた。
……ああ、オレ、殺される所だったな。と顔を上げたリティルは薄れ逝くインフィーユを見送った。
立ち上がったリティルは、刺さった剣を一気に引き抜くと、ちょうどいいなと言わんばかりに、床に剣を突き立てた。
「――オレの血を喰らえ!そして咲き誇これ!」
リティルから流れ出た血が、生き物のように動いて、大輪のバラの花を描いていった。
空を仰ぐと、あり得ない事態になっていた。
「何だあれ?」
誰に問うたつもりもなかった。が、リティルのつぶやきは拾われていた。
「死の蓋をこじ開けようと言うのさ」
金色に立ち上る光の向こうに、インラジュールが舞い降りて、槍を構えていた。
「へ?おまえ、何してるんだよ?」
「無常に謀らせたのだ。わたしの懸念、どうやら当たってしまったな」
何が?と問おうとすると、舞台の中心にある墓標から、暗黒色の靄の様なモノが立ち上った。
「悪趣味にもほどがある。わたしの子供達だ」
皆、暗黒色に瞳を染めて、次々に骨から肉を纏い、この世に這い出してきていた。人と獣とが融合したような姿の、混血精霊達だった。
「インティーガ、わたしの魔法を悪用するとは……同じ風の王として哀しい限りだ」
インティーガ?本当に13代目風の王が?とリティルは信じられなかった。しかし、今はインティーガのことよりもインラジュールのことだ。
「インジュ!おまえ1人じゃ――」
「フフフフ、心配するな。おまえはあの穴、塞ぐことだけ考えろ」
リティルは空を見上げた。黒い太陽をこじ開けようとしている骨の手。あれを何とかすればいいのか?と血染めの薔薇に力を込めた。
イメージは上手くいったようで、1羽のオオタカが骨の手に襲いかかり始めた。
「さあ、来い!父が遊んでやろう!遙か昔のようにな!」
声に視線を戻すと、金色の光の向こうで、5人の異形の者とインラジュールが戦闘を始めていた。ここを動けないリティルには、彼を助けられなかった。いや、守られているのはリティルのほうだ。魔方陣を展開しているリティルを守るため、彼はファウジの死者召喚で来てくれたのだ。金色のオオタカの翼を持つ者にしか、この舞台に上がれないから。
リティルにはまだ、事態が飲み込めないが、どうやら、インティーガが、この儀式に何かを仕込み、儀式と皆既日食が重なるその時発動するようになっていたようだ。インラジュールはそう確信しているようだが、リティルにはよくわからなかった。
どうする?力が足りない。血染めの薔薇の力と、あのこじ開けようとする手の力は互角だ。霊力と血を急激に失っていっているリティルでは、分が悪かった。
もういっそ、命を賭けるしか……と思って、それが許されないくらい、ガチガチに安全装置が組み込まれているのが、リティルには感じられた。ゾナの本気に、敵うはずもない。
どうすれば?リティルが焦りを感じたころ、1羽の鳥が墓標の方からリティルを飛び越えて行った。
そして、知っている歌声が聞こえてきた。
それは、遠い遠い昔、グロウタースで聞いた歌だった。
――心に 風を 魂に 歌を 祈ろう 祈ろう 続いていける
――歌おう 歌おう 風の奏でる歌
――続いていけるよ 君が望むなら
――たとえ 世界が 否定しても 続いていけるよ
――心に 風を 魂に 歌を すべて 振るわせて 歌おう
――終わらせないで 諦めないで 打ち鳴らして
――続いていこう 歌声で 世界を 満たし続ける
――たった一つ 揺るがない わたしの願い――……
風の精霊の力ある歌。『風の奏でる歌』のメロディーに乗せた『風の奏でる歌』とは異なる歌詞の歌。
荒涼と終わりを迎える大陸を、感情の動かない瞳で見つめていた、その人。
哀しみも、怒りも、喜びも、すべてを諦めていた彼女が見せてくれた希望。
その人の名は?
「リャンシャン!無常!彼女に手を出すな!その娘は味方だ!」
『風の奏でる歌』と歌詞の異なる歌に、歌う彼女に攻撃を始めたファウジを、動けないリティルは声で止めた。
姿を見ることができなかったが、彼女だ。リティルは確信していた。そして、この歌声は死の蓋の側に立つ者にとって都合が悪いらしい。インラジュールを襲っていた亡霊がリャンシャンを標的の1つに定めたのを感じた。
「無常!」
「任せてくださいよぉ!」
お気楽なその声に、リティルは耳を疑った。
「インジュ?」
「ふふふふ。どっちの?」
子供達と切り結びながら、インラジュールが笑った。
「インジュエルだよ。あいつ、どうしてここに?」
ここを動けないリティルは、確かめにいけなかった。
だが、彼が来たのなら丸投げでいい!と、リティルはインジュとリャンシャンが歌う1度は途切れてしまった『風の奏でる歌』の中、意識をオオタカに集中したのだった。
皆既日食を見守る皆の前で、煌めく金色を纏ったオウギワシが参戦し、その大きなかぎ爪が、いとも容易く骸骨の指を握り潰した。
聴いたことのない歌詞で歌われる、デュエットの『風の奏でる歌』に、ピアノの音色が重なっていた。
ピアノホールにいたはずのインジュがここにいる理由、それは、昏倒から目覚めたとき、リャンシャンの歌声を聞いたからだ。これは行くしかない!と声を頼りに、ここへたどり着いたのだった。
鉄の扉を開き飛び込むと、中は、皆既日食の仄明るい光の中にあった。
そして、中は戦場だった。
「リャンシャン!」
ファウジに剣を向けられているその人は、腕を五色の翼に変えて逃げ惑うその姿は!インジュは鋭く割って入っていた。インジュの、反属性返しを纏った手の平に触れられた剣が、粉々に砕かれていた。インジュの乱入に驚くファウジの背中から、リティルの声が聞こえた。
「無常!彼女に手を出すな!その娘は味方だ!」
「すみません、ファウジ、そういうことなんですよぉ。置いてけぼりですけど、どうして、リャンシャンがここにいるんです?」
インジュはリャンシャンに向き直ると首を傾げた。
「道が、開いた。わたしは、そこを通って、ここへ。これは、いけないこと。止めなくちゃ」
たどたどしく、抑揚なく彼女は言った。
「それで歌ってくれたんです?ずいぶん積極的になりましたねぇ」
「思うまま、動いていい。インジュ――様、教えてくれた」
「あはは」
インジュはリャンシャンを抱きしめていた。リャンシャンは僅かに青色の瞳を見開いたが、そっとその背に変化を解いた手で触れていた。
「本当に、積極的になりましたねぇ。生きてたとき、抱きしめ返してくれたことなんて、なかったじゃないですかぁ?」
嬉しそうなインジュに戸惑いながら、リャンシャンははたとここへ来た理由を思い出した。
「インジュ――様、歌、歌う」
「はっ!そうでした」
インジュは我に返ると、地上へ舞い降りた。そこへ、リティルの無常の風を呼ぶ声がした。リャンシャンを守れとそういうことだろうなと、インジュは察した。
「任せてくださいよぉ!」
そう叫ぶとインジュは、リャンシャンを舞台の方へ向かせ、自分は彼女の背後に立った。そして、彼女の両手の平を、両手で掬い上げるように握った。
「歌ってください、リャンシャン。ボクが、合わせてあげますよぉ?」
インジュを見上げていたリャンシャンは頷くと、歌い始めた。その声に、インジュが重ねる。2人の歌声が、幸せを願うような歌声が、この暗く陰気な部屋に場違いに明るく解き放たれていた。インジュの霊力の乗る歌声に、亡霊達は自分達の世界へ為す術なく叩き帰されていった。その歌声に重なるピアノの音色。インジュは、お父さんだ。と思った。インジュが倒れていた間、何があったのか、かなり疲弊していた。これではもう歌えないなと思っていたのだが、ピアノを弾いてくれるなんて、無茶しますねぇと思ったがありがたい。
ボクは、未だにリャンシャンが好きなんだろうか?
インジュは、リャンシャンと声を合わせながら、そんなことを考えていた。
それを悟っていいんだろうか?彼女は、道が開いたから来たと言った。ということは、と思うこともなく、彼女を看取っているインジュは、彼女が死者であることを知っていた。
思わず、リャンシャンの手を握る手に力を込めてしまったインジュを、彼女が見上げてきた。空の色のような青い瞳と、目が合った。無表情な瞳。蹂躙されすぎて、何もかも諦めてしまった彼女は、感情すら乏しかった。
けれどもその歌声は、こんなにも祈りという感情に溢れていた。
彼女が逝ってしまうまでの短い間、信じられないくらい穏やかに、時が流れていたことが思い出された。
すべてに乏しかった彼女との時間は、手探りで遠慮ばかりで伝わらなくてもどかしくて、けれどもインジュはそんな時間に癒やされていた。
殺せない戒めのために、1人では魔物狩りに出られないインジュは、当時は本当に風の城のお荷物で、劣等感しかなかった。そんなインジュの歌を必要としてくれた、彼女達ソラビト族は、インジュに癒やしと、ここにいていいんだという安心感をくれた。
――ボクは、あなたを、好きでしたよ?
伝わらなかった想いが、哀しかった。癒やしをくれた彼等、リャンシャンに心を贈ることができないまま、インジュはただ、彼女の優しさに守られた。
――あなたの心に、わたしはいない
その言葉の意味を、聞いてもいいのだろうか。このあり得ない邂逅に、答えを得てもいいのだろうか。
インジュは、胸が締め付けられるようで、後ろから小さな彼女を抱きしめていた。
こんな、ぬくもりがあるのに、死者だなんて信じられない。
もう一度、彼女を抱きしめられるなんて――幸せ。幸せ?そう思って、ああ、ボクは彼女を好きなんだとインジュは思った。
この瞬間だけしかなくても、彼女に、今度こそ好きだったと伝えたい。伝わってほしかった。今、リティルの為に歌うために来てくれたリャンシャンに、知ってほしかった。
大きな力を感じて、2人は同時に空を見上げていた。
頭上を、雄々しく金色のオオタカの翼を広げ、金色の長い髪をなびかせて、真っ直ぐに舞台へ突っ込んでいった風の精霊がいた。
――え?ノイン?
と、信じられない気持ちで空を仰いでいると、歌っていたリャンシャンがフッと息を吐いて、歌うことをやめてしまった。
「リャンシャン?」
どこか脱力して、体重を預けてきた彼女に戸惑って、インジュはリャンシャンを抱きしめたままその場に腰を下ろした。
「疲れた」
「あ、そうですね。リャンシャン、死んでますしねぇ。もう大丈夫だと思います?」
インジュを振り向いたリャンシャンは、コクリと頷いた。
「あの人が、いる、大丈夫」
「あの人のこと、知ってるんです?」
リャンシャンは頷いて、そして、僅かに笑った。
彼女が再び逝ってしまうまで、あとどれほどの時間があるのだろうか。
聞いてもいいのだろうか。あの言葉の意味を。
――あなたの心に、ボクはいましたか?
「あのぉ、リャンシャン」
「インジュ――様、わたしのこと、愛してくれてた?」
「え?」
後ろから抱きすくめている為に、振り向いて目の前にあるリャンシャンの瞳が、ジッとインジュを見つめていた。
「はい。好きでしたよ?好きでした!ボク、言いませんでした?」
リャンシャンはフルフルと首を横に振った。
「わたしを、抱かない、インジュ――様は、わたしを、愛してない、思ってた」
「ボクは……できないです……でも……それでも、好きでしたよ?」
俯いたインジュの腕の中で、身動きして、リャンシャンは向かい合った。
「わたし、わかった。インジュ――様、わたしを、愛してくれてた。それを、伝えたかった。インジュ――様の心に、わたしは、いた」
「リャンシャン……」
「わたしも、インジュ――様を、愛してた。わからなくて、苦しくて、命、返してしまった。インジュ――様を好き、わからなくて、そばにいるの、痛くなってしまった」
こんな告白――インジュはリャンシャンを抱きしめていた。
「ボクの気持ち、伝わってたんですね?ボクも、リャンシャンの気持ち、受け取れてなかったです。苦しめて、すみません……!愛してました!ボクは、リャンシャンを、ちゃんと愛してましたよ!」
リャンシャンの手が、インジュの背中に回らされていた。
ボク達は、愛し愛されていたんだ!インジュは、その事実に、涙していた。
「わたしも、愛してた。インジュ――様、幸せ、ありがとう」
「様はいらないです」
顔を上げたインジュの頬を伝う涙を、リャンシャンはペロッと舐めた。「しょっぱい」と真顔で言う彼女に苦笑して脱力して、インジュは瞳を閉じるとリャンシャンの額に額を合わせた。
触れてこないインジュに、リャンシャンは瞳を閉じると、そっと唇に唇を合わせていた。
驚いてインジュは、咄嗟に引き離していた。引き離されたリャンシャンは、キョトンとしていた。
「積極的になっちゃいましたねぇ」
「インジュ――様に、思うがまま、行動していいって、言われた」
「で、でもですねぇ!……もう、お別れですよね?」
空を見上げたインジュに、リャンシャンは頷いた。皆既日食が終わる。死の蓋が閉じられ、世界は必要以上の死の脅威から守られたのだ。
「インジュ――様、愛してくれて、ありがとう」
「ボクこそ、受け取ってくれて、ボクを愛してくれて、ありがとうございます」
2人は自然と瞳を閉じると、互いを抱きしめ、最後の口づけを交わした。
インラジュールは、あらかた死者を死へ叩き帰していた。
”リャンシャン”とリティルが呼んだ娘。彼女がソラビト族であることは、歌声でインラジュールは気がついていた。その彼女と共に歌うインジュの歌声が、死の力を弱めていた。命を繋いで行こうという愛の歌に、蘇らされた死者達の力は削がれていた。
「!」
死者と切り結んでいたインラジュールの隙をつき、死者の1人が血染めの薔薇の魔方陣に侵入した。あの、歌声から力を得た、葬送の光の中無事でいられる死者はいない。だが彼は、リティルに向かい大剣を振り上げていた。
「インティーガ?しまった!」
リティルは魔方陣の維持で動けない。インラジュールは切り結んでいた死者を槍で貫き、魔方陣の中へ飛ぼうとした。だがこの距離、間に合わない!
リティルはもう限界が近いようで、瞳は辛うじて開いているが、もう半分以上意識がないように見えた。インティーガの攻撃を、防ぎようがない!
リティルに振り下ろされた大剣。インラジュールは行く手を亡霊に再び阻まれていた。
「リティル!」
届かないとわかっている声を張り上げたインラジュールは、インティーガと同時に、迫ってくる大きな力に気がついた。インティーガの剣はそれに気取られて、失速していた。
リティルの背後から飛来した金色の輝きは、すれ違いざまにインティーガの大剣を弾いていた。蹌踉めいた彼は、踏みとどまったが、再び襲ってきた者の剣に引き下がるしかなかった。
リティルの前に立ちはだかったのは、金色の長い髪をなびかせた、彫像のように美しい風の王だった。
「――……」
ガクリとリティルは、インの剣に縋って膝をついていた。さすがに血と霊力を失いすぎた。
リティルの分身であるオオタカは、オウギワシの助力を得て、半分まで死の蓋を閉じていた。あと少しだったが、意識が朦朧とし始めていた。
誰かが、そばに来たようだがリティルは、気を配る余裕もなかった。
「リティル、あと少し、持ちこたえろ」
誰かの大きな手が、俯いた頭に置かれた。名残惜しそうに離された手に、リティルはつられるように顔を上げていた。
去って行く後ろ姿に、リティルは名を呼びかけていた。
「――イン……」
驚いたように立ち止まった彼が、ややあって振り返った。仮面のないその顔、長い金色の髪を緩く束ねたその姿は、14代目風の王・インだった。しかし、リティルは、今度はハッキリと名を呼んだ。
「ノイン!」
戸惑うように僅かに見開いた瞳が、意を決したような鋭さを取り戻すと、バッと振り切るように彼は前を向き、魔方陣から走り出てしまった。
未だ亡霊と刃を交えていたインラジュールは、隣に無言で並んで来た風の王に、フフフと微笑んだ。
「おまえというやつは、下手したら死ぬぞ?」
おまえ、ノインだな?とインラジュールは暗に言っていた。彼に隠しても仕方がないなと、インに扮したノインはフイとインラジュールから視線を外し、襲いかかってくるモノを見据えながら言った。
「死ぬ気はない」
「フフフフ。まあ、リティルを置いて逝けはしないな。では!インティーガ!そろそろ話しをしよう。死の蓋を開き、おまえは何を成す?」
ドンッと風を放ち、亡霊を大半死へ叩き帰したインラジュールは、インティーガに槍の切っ先を突きつけた。
騎士という名にふさわしい、がっしりとした体躯の逞しい風の王は、大剣の切っ先を下げ、2人の風の王を見やった。
「何も。だが、復讐は果たされる」
ハハハハハと乾いた笑いを空へ放った彼が、何を言いたいのか、インラジュールもノインもわからなかった。
「わかるように言え。時間稼ぎなら、答えなどいらない。今すぐおまえを死へ叩き落とす」
ノインは切っ先を突きつけた。
「死とは何か。本当に憎むべきモノは何か、わかるか?」
「貴様と議論する気はない」
「今にわかる。種は蒔いた」
インティーガは踵を返した。死へと。
インティーガが消えてしまうと、後は何事もなかったかのようにあっけなく、皆既日食は終わりを告げた。
皆既日食の終わりを見届けて、インラジュールは、ノインを僅かに見上げた。
「こんな手を使うとは、命知らずめ」
マジマジとノインを見つめ、改めてインラジュールは苦笑交じりにため息をついた。
金色に変わった長い髪と、金色の翼、インと偽るためだったのだろう、ノインは仮面を付けてはいなかった。
「方法を知っていたのか?」
「元蛇のイチジクだ。わたしも理スレスレだ。これ以上は、絆ができてしまったからな、面倒を見られんな。インティーガの最後の言葉、気になるが、おまえ、リティルから離れる予定は?」
「ない」
「言い切るか。頼もしい奴め。そろそろおまえも時間だ。本当に、離れないな?」
しつこいな。と思ったが、インラジュールがリティルを案じていることだけは、伝わってきた。
「オレから離れるつもりはない。後のことは任せろ。これでもイシュラースの三賢者の1人だ」
おまえには及ばないがと付け加えて、ノインは涼やかに微笑んだ。
「フフフフ。遺したインに、感謝せねばな。よかろう、味見したいほど可愛い風の王をおまえに託す。わたしもゆっくり眠るとしよう」
インラジュールはそう言って甘やかに笑うと、自身を風に返し消えてしまった。
彼の風が消えるのを、見送っていると、背中にドンッと衝撃があった。驚いて振り向くと、リティルが背中にぶつかってきていた。
「――え、おまえ!何したんだよ!」
血と霊力を極限まで失っていたのではなかったのか?と、睨んできたリティルに、ノインは思ってしまった。まだ、こんなに怒る元気があるリティルは、彼が死なない!と公言する通り不死身なのではないだろうかと、ノインは変なことを思ってしまった。
「案ずるな。すぐに抜ける」
怒られることがわかっていたから、仮面を外し、服まで着替えてインと偽ったのに、なぜバレてしまったのだろうかと、ノインは不思議に思っていた。
「抜ける?抜けるってなんだよ!」
「リティル、オレが変わってしまっても、オレの弟でいてくれるか?」
「はあ?何今更言ってるんだよ?」
ノインは、背中のリティルから視線を外すと「こういうことだ」と呟いた。
え?とリティルが緊張するのがわかった。リティルの手が離れる。
ノインの金色だった髪と翼が、濡羽色に変わっていった。リティルに向き直ったノインの瞳も、濡羽色に変わっていった。
「翼を、失わずに済んだな」
ノインは何の気なしに、自分の翼を肩越しに振り向いていた。
「毎回変身はできないが、死の安眠、これで関われる。……どうした?」
固まっているリティルに、ノインは首を傾げた。濡れたように艶やかな長い黒髪がサラリと動いた。
「何ともねーか?何ともあったら、今すぐ言えよ?隠すなよ?隠したら絶縁するからな!」
睨んできたリティルの瞳が決壊するのを見て、ノインはあからさまに動揺して、しばらくオロオロしていたが、リティルの頭を片手で抱き寄せた。
「隠さない。約束する。だからリティル、案ずるな。ハア、おまえは、人の心配より己の心配をしろ」
よほど心配させてしまったらしい。普段縋ってこないはずのリティルが、ノインの服をギュッと掴んできた。そしてノインは、反則だろ!と思ってしまった。普段風の王だと認められる強さのあるリティルの、どこにも行くなよ?といわんばかりな態度に、ノインは口角が緩んでしまうのをなんとか堪えた。
インラジュールの言った、味見という言葉の意味はわからないが、可愛い風の王という言葉はある程度理解できた。できてしまった。
「兄貴……オレ、やり遂げたのか?」
ノインが金色から濡羽色に変わっていく様に、騎士・ノインの命の期限が近づいて、翼が暗黒色に変わったときの光景がフラッシュバックしてしまった。あの時、リティルはノインを1度失った。ノインは戻ってきてくれたが、そんな奇跡はそう何度も起こらない。
死んでしまったら、死なせてしまったら、そこで終わりだ。
風の精霊は、自分で命を絶てない理に縛られているが、力の精霊となったノインにはそれがない。風の騎士がギリギリを狙っていたその境界線を、心1つで越えてしまえる。
ノインがインの姿で現れた時は、朦朧としていた意識が、一気に覚醒するくらいの衝撃を受けた。
バレないとでも思っていたのだろうか。仮面などなくても、インとノインを、リティルは間違えたことなどないのだ。
急激な変化を目の当たりにして、また、ノインがいなくなると思った。今度はもう手が届かないと思って、怖かった。涙を流したくらいでは繋ぎ止められないことはわかっていたが、風の王が情けないことに、泣く以外に何もできなかった。いや、いつだってそうだ。
死に逝く命にしてやれることは、送るための涙を流してやることくらいだ。
抱き寄せてくれたノインの、変わらない大きな手の感触と体温に、リティルはやっと安堵していた。ここにノインはいてくれると、それを確かめたくてリティルはノインを掴んでいた。
「ああ、脅威は去った。おまえは、世界を守った」
「そっか。それ聞いて、安心した……」
「おまえは!急に寝るな!」
ノインはガクンッと力の抜けたリティルを、慌てて抱き留めた。確かめると、ただ眠っているだけだった。ノインはホッと安堵のため息をつくと、眠ってしまったリティルを抱き上げたのだった。
結界が消え、駆けつけてきた無常の風に「リティルは無事だ」と告げ、ノインはあからさまに安堵する2人に涼やかに微笑んだ。
「はあ……ノイン殿、一瞬存在を捨てたのかと思い、肝が冷えたわい」
ファウジは、ノインをノインだと確かめた上で、大きなため息を再びついた。
「申し訳ありませぬ。小生、あなた様の決断に、歓喜してしまいもうした」
項垂れる、主君しか見えていないシャビに、ノインは苦笑した。
「過保護なおまえ達がいる。リティルは任せておけばいいと思ったのだがな。おかげで、力の精霊として完全に目覚めることができた。だが、インファの安否が気にかかる」
「お父さんなら、無事ですよぉ?かなり疲れてたんで、歌えなくなっちゃいましたけど、聞こえてましたよね?あのピアノはお父さんです。ノイン、なんか格好良くなりましたねぇ」
どこかホワンと幸せそうな雰囲気を纏って、インジュが会話に乱入してきた。
「インジュ、先ほどの娘は?」
「元恋人のリャンシャンです。こんなこと思っちゃいけないんでしょうけど、逢えて、幸せでしたぁ!」
満面の笑みで幸せオーラをまき散らすインジュに、皆は思わず目を細めたが、ノインは注意深く観察していた。
――死とは何か。本当に憎むべきモノは何か、わかるか?
インティーガの言葉が蘇る。
今、死んでしまった恋人に逢えて、再び分かたれてしまったが幸せそうに笑うインジュが、蒔かれた種?ノインは、インティーガの言葉を反芻していた。