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一章 ノインとノイン

 精霊の住まう世界・イシュラースは、昼の国・セクルースと夜の国・ルキルースという2つの国から成っている。

セクルースには、時間の流れがあるが、ルキルースは常夜だ。

ルキルースは夢の国とも言われ、悪夢の王、幻夢帝・ルキが統治している。

ルキは、風の王・リティルと仲がよく、風の城の中庭にあるバードバスには、彼の住まう断崖の城の玉座の間への直通の扉があるほどだった。

 白夜の照らす、藍色に沈んだ玉座の間に、リャリスとノインは空間の歪み――扉を越えてやってきた。

「ごきげんよう、ルキ様」

「やあ蛇女、こんばんは」

黒猫の耳と尾を生やした少年が、数段上の玉座からピョンッと飛び降りてきた。背は、リティルとほぼ同じで、リティルとは違い、少年だなと誰もが認識する容姿をしていた。

「毎度毎度、嫌な呼び方ですわね」

そう言いながら、リャリスは少しも嫌な顔をしていなかった。

「ククク、ごめんごめん。おまえ、見慣れると格好いいよね」

「あら、褒めてらっしゃいますの?」

いつも通りの挨拶を終えたリャリスは、浮かない顔のノインの背をバンッと叩いた。

「珍しいね、ノインと一緒に来たんだ?リャリス」

「ええ、そうですのよ。レジーナに、ノインを呼び出してもらうのですわ」

「レジーナにノインを?……風の騎士?なんで?」

ルキは、ノインはここにいるのに?と首を傾げた。

「フロインが、いけない春を振りまいて回っていますのよ。彼はフロインの魅了の力を抑えていらしたそうですわね?」

「ああ、それを聞きに?ノインが、ノインに聞きに行くの?ククク……面白そうだから、ボクも行く」

楽しそうなルキを見下ろして、ノインは聞いてみた。

「ルキ、オレと風の騎士は同じなのだろうか?」

「ええ?同じかそうじゃないかって言われると、風の騎士はもの凄い落ち着きで、君はちょっと落ち着きないかな?でも、同一人物に見えるけどね?リティルとケンカでもしたのかな?ノイン」

「いや、リティルも同一に見えているらしい」

「なら、同一なんじゃない?リティルの事、信じられないのかな?」

「そんなことはないが……」

「会ってみればいいよ。風の騎士にさ。リティルも許可してるなら、問題ないからね」

ルキはノインの背中に回ると、彼の目の前の空間を指さした。すると、ぐにゃりと空間が歪んで、ここではないどこかへ扉が繋がった。ルキは気の進まない様子のノインの背を押して、扉を潜ったのだった。


 扉を潜った先は、淡く輝く桜が咲き乱れる、幻想的な場所だった。

万年桜の園。記憶の精霊・レジナリネイの住まう部屋だ。小高い丘の上に、一際目を引く、桜の古木がある。一行はそこを目指した。

 桜の古木の中腹辺りに、身長よりも長い黒髪の少女が浮かびながら眠っていた。黒地に、桜の花びらの散る振り袖を着た、乙女だ。

「レジーナ、起きてくださいまし」

リャリスが声をかけると、レジーナはフッと瞳を開いた。そして微睡んだ瞳を、巡らせた。

「幻夢帝・ルキ、智の精霊・リャリス、力の精霊・ノイン」

確かめるように名を呼んだレジーナは、微睡んだ瞳のままフワリと舞い降りてきた。

「レジーナ、記憶の万年筆で風の騎士・ノインを呼び出してよ」

「ノイン?」

レジーナは小首を傾げて、ノインを見た。その瞳は、ここにいるのに?と言っていたが、彼女は小さく頷くとそっとペンを握るように右手を差し出した。その、大人になりきっていない指の間に、黒曜石でできた万年筆が現れた。

レジーナはツラツラと、空に何事か書き連ねていく。精霊の文字が徐々に蓄積され、人の形を帯び始めた。

「風の騎士・ノイン」

レジーナの呼びかけに、文字でしかなかった人影が一気に実体を帯び、金色の風が集まった。

『オレに用とは、何事だ?』

金色の風が解れるとそこには、金色のオオタカの翼を生やしたノインが立っていた。

「ノイン、えっと、久しぶり?」

「ルキ、それは冗談か?」

オレはそこにいるだろう?と風の騎士は、真顔で切り返してきた。

「なんて言ったらいいのさ!」

声を荒げるルキに、風の騎士は仮面の奥の瞳を、楽しそうに細めた。

「フッハハハハ、すまない。オレがオレを呼び出した。ということで間違いないか?」

「あら、おわかりになりますの?さすがですわね、ノイン」

リャリスは、フフッとこれ見よがしに微笑んだ。これくらいの余裕、早く持ってくださいまし。とリャリスは心の中で呟きながらノインをチラリと見た。

「なんだ?疑問があるのだろう?言え」

風の騎士は、涼やかで余裕のある表情を崩さずに、簡潔にノインに尋ねてきた。対するノインの表情は硬かった。

「……フロインの魅了の力が増している。貴殿は、どうやって抑えていた?」

フロインの魅了?と風の騎士は思いもよらなかったのか、しげしげとノインを見つめていた。

「オレの持っていた知識は、すべておまえの中にある。なくしてしまったのは、思い出のみ。おまえがわからないことは、オレにもわからない」

「そんなはずはない!貴殿とオレは、確かに違う」

「何が違うと?リティルとケンカでもしたのか?」

風の騎士は、リャリスに視線を合わせた。

「笑い転げていましたわ」

「笑い転げて?……ああ、オレがオレに会うところを想像でもしたか?」

「あら、おわかりになりますのね」

「さすがに、どう接していいのか戸惑っている。だが、そうか。フロインの魅了の力が増しているのか」

ふむと、風の騎士は形のよい顎に指で触れた。

「心当たりあるのかな?」

ルキが風の騎士を見上げると、彼は小さく頷いた。

「あると言えばある。風の騎士と婚姻関係にあった彼女は、精霊獣だった。現在は、精霊に転成している。その違いではないのか?霊力の変質が原因ならば、頼るべきはオレではない。インファだ」

「お兄様?そうですわね、お兄様は霊力構造にお詳しいですわ。けれども、今までノータッチですのよ?」

「相棒は、女嫌いだ。魅了の力を、知らず知らずに拒否しているのかもしれない。彼も万能ではない」

雷帝・インファ。

風の王夫妻の第1王子で、王の副官だ。眉目秀麗で知識欲の塊。風の精霊でありながら、他の力にも精通していて精霊大師範という異名で呼ばれている。

思慮深い風の騎士とはいいコンビで、2人でガッチリリティルを支えていた。現在力の精霊に転成したノインとも、親友と呼べる絆を変わらず結んでいる。

「インファか、確かに彼なら原因を突き止められるかもしれない」

ノインは、風の騎士が何かをしていたのだとその考えに囚われていた。しかし彼は、冷静に論理的に別の考えを示してみせた。

風の騎士とオレは違う。ノインは確信するようにそう思ってしまった。

「貴殿が失われなければ……」

「妙なことを言う。おまえはオレだ。何を悲観している?」

「インファを頼ることを、考え至らなかった」

「オレが思い至ったのは、おまえ達がここへ来たからだ。オレの知識の及ばないところに答えがあるとするならば、インファに聞くのが手っ取り早い。彼を頼ったからといって、解決するとはかぎらない。オレには、本当に心当たりがないのだからな。リャリス、オレに何かあったのか?」

「何もないと思いますわよ?お父様は毎日楽しそうですし。最近では、あなたのことを自然と兄と呼んでいますのよ?」

「とっても安定していますわ」と、リャリスは健全な微笑みを浮かべた。

「フッハハハハ!そうか。呼ばれてみたかった」

「どういうことだ?」

焦るようなしかし、何とか感情を殺す事に成功した低い声で、ノインは問うた。風の騎士は、まったく動じた様子なくすんなりと答えた。

「オレとリティルは、グロウタースでいうところの兄弟ではない。精霊達が勝手にそう言い始めただけだ。リティルは否定も肯定もできないと、当時困惑していた」

「リティルは、オレを受け入れるために、偽ったのか?」

険悪になるノインの雰囲気に、ルキは微笑みを浮かべたままの風の騎士を見上げた。

これ、大丈夫?と顔には出さないが、心配になったのだ。

「いや、おまえにそう言えと言ったのはオレだ。オレとリティルは魂で繋がっている。騎士と主君だったころはそれでよかったのだが、オレは騎士ではなくなってしまった。この絆に名をつけるならば、兄弟。それが妥当だった。そう提案したとき、リティルはまんざらでもなかった」

おまえも、納得していただろう?と風の騎士はどこまでも涼やかだった。確かに、リティルに「おまえはオレの兄貴だ」と言われたとき、すんなり受け入れられた。だが、兄のままでいていいのか?とノインは悩んでいた。それを、誰にも打ち明けられないでいた。

「だが、事実では……」

「不服ならリティルと話せ。オレは、言葉にしなかった為に失敗をし、それを改めた。それでもおまえはオレではないというのならば、風の騎士の記憶、引き継げ」

「大丈夫なのかな?君、引き継ぎに失敗して記憶消されたんだよ?」

その場に居合わせたルキは「見ているのが辛かったよ」と、顔をしかめた。

「今のオレならば問題ない。しかし、風の騎士と力の精霊、ない物は記憶だけだ。その記憶も、思いという形で残した。オレは皆のことを、覚えていただろう?」

風の騎士は、涼やかに優しく微笑みながらルキを見下ろした。

「うん。覚えてくれてたよ。ボクは友人だってさ。考え方も性格も君だし、違う所っていえば、戦い方だけかなぁ?今の君丈夫だから、気兼ねなく盾にできて楽だよ」

黒猫に化身して、ルキはピョンッと風の騎士に飛びついた。騎士は慣れた様子でルキを受け止めた。

「ノイン、おまえにオレは必要ではない。オレはおまえだ。記憶の件は、リティルと話し合え。我が弟は、見たいなら見ろというだろうが、な」

もういいか?と風の騎士は涼やかに薄らと笑みを浮かべて揺るぎなかった。ルキはじゃあね!と騎士の腕から降りると、猫の姿のまま手を振った。

 ノインは、風の騎士を見送ったが、心は晴れてはいなかった。

リティルに、兄弟だと偽らせてしまったことが、心苦しかったのだ。だが、ノインは気がついていなかった。風の騎士が、とても自然にリティルの事を我が弟と言ったことに。 


 風の城に戻ると、リティルは応接間で黙々とデスクワークしていた。

風の騎士だった頃は、それを手伝えたのだろうが、力の精霊となってしまった今は、風の機密に触れるわけにはいかず、手を出せなかった。

「おかえり。で?どうだったんだよ?」

顔を上げたリティルは、明るく笑って迎えてくれた。

「オレの知識にないことはわからないと言われた。霊力の変質なら、インファの領域だと」

「インファ?ああ、そっか、そっちを考えてなかったな。オレもノインが何かしてたんだと思い込んでたぜ」

インファ、いつ帰って来るかなー?とリティルは高い高いシャンデリアを見上げて、思案しているようだった。

「リティル」

「ん?」

ノインに名を呼ばれ、リティルはなんだよ?と言いたげに視線をノインに戻した。

「我々は兄弟ではないのか?」

意を決して聞いてみたが、リティルはなんだそんなことか?という態度で、嘘がバレたとか、知られてしまったというような感情は皆無だった。

「ああ。血の繋がりはねーからな。でもな、そう呼ぶしかねー絆があるんだ。おまえは、オレの父さんじゃねーし、かといって他人でもねーんだ。だったらなんなんだ?兄弟でいいんじゃねーのかってな。正直、風の騎士にそう言われた時はビックリしたぜ?でもな、なんかそれが、シックリくるんだよ」

リティルはいつもの、屈託ない笑みでノインに笑いかけた。

「リティル……しかし……」

「兄貴」

そうリティルに呼ばれるたび、なぜか嬉しい。ノインは、記憶を失う前もそう呼ばれていたからだと思っていた。だが、実際には違った事が判明した。リティルにそう呼ばれていていいのだろうかと、ノインは思ってしまった。

ノインには、リティルに言えないでいることがあった。それが、兄弟ではなかったという事実に、ノインの心の中で大きくなっていっていた。

「オレ、呼びたいようにしか呼ばないぜ?それとも、オレに兄貴って呼ばれるの、嫌だったのかよ?だったら、そう言ってくれよ。まだ遠慮してるのかよ?」

「そういうわけではないのだが……」

「何だよ?ハッキリしねーな!呼んでいいのか、呼んじゃいけねーのか、どっちだよ!」

呼んでほしかった。だが、言い知れない後ろめたさがあった。

「ノイン、言えよ。何悩んでるんだよ?オレ、嫌だぜ?やっと帰ってきたおまえが、またいなくなっちまうのはな」

寂しそうに視線をそらしたリティルの様子に、ノインは刹那感情だけで行動していた。

「オレはどこにも行かない!」

トンッとソファーを飛び越えると、ノインは書類が散らばってしまうこともかまわずに、リティルの隣に舞い降りていた。

 こんな行動は即取れるというのに、リティルに、話しができない。そんなノインの態度にも、リティルは、少し驚きながらも笑ってくれていた。

「はは、そうしてくれよ?なあ兄貴、明日オレと一緒に飛ばねーか?ホントは、今からって言いてーところなんだけどな、今日オレ、城を動けねーからな」

「朝からそんなことを言っていたが、四天王がいないからか?」

召使い精霊の金色のハトが、散らばった書類を集めてきてくれていた。リティルは、いつもどおりの明るい顔で、それもあるんだけどなと言った。

風の城は、4人の中核を担う風の精霊で運営されている。風の王・リティル、副官、雷帝・インファ、補佐官、煌帝・インジュ、執事、旋律の精霊・ラス。

今日は朝から、3人ともいず、それどころか他の住人の気配もなかった。

この応接間の暖炉のそばの椅子にほぼ常にいる、時の魔道書・ゾナもいなかった。こんなことは、あまりないことだった。

「グロウタースにな、春一番が吹く日なんだ。それでな、手分けして監視に行ってるんだよ。オレは城担当なんだ」

グロウタースは、衰退と繁栄を繰り返す異世界だ。精霊が守り慈しむ世界で、神樹と呼ばれる大樹によって繋がっている。風の精霊は異世界へ渡ることを許された唯一の精霊で、風以外の精霊を、神樹の作り出すゲートを使って、渡らせるか否かの許可を出す権限も持っていた。

風の城には、ノインも含めて風ではない精霊も暮らしている。どうやら彼等は風の精霊と組んで出掛けていったようだ。

「そんな大事な儀式に気がつかなかった……」

春一番は、北風と南風が入れ替わる、季節を動かす風の一大儀式だ。なかなか制御が難しく、突風となって何かを破壊してしまうこともしばしばあった。最初の制御が上手くいけば、その地域の春一番は安定する。今日は、要とも言える風の吹く日だったのだ。

15代目の統治する城は、住人が多いが、それ以前の王が統治していた時代は、風の王1人が行っていた。とても神経を使う儀式だったことを、ノインは受け継いだ知識から知った。

「ハハ、おまえが即気がついたら、それはそれでビックリだぜ?おまえ、知識はあっても力の精霊だぜ?風のことが最優先で出てくるわけねーじゃねーか。むしろ、オレがちょっと言っただけで、全部理解しちまうおまえはすげーよな」

リティルは書類を片付けさせると、おもむろにソファーを立ち、シラサギの用意してくれているワゴンに向かった。そして、アイスティーを入れて戻ってきた。

「何だよ?風の精霊に戻りてーのかよ?」

リティルは、ノインの隣に戻ってくると、目の前にアイスティーを置いた。

 ノインは小さく礼を言うと、ロンググラスに視線を落としていた。紅茶の中に浮かぶ氷の上に、緑の小さな葉っぱが乗っている。ミントだ。気分を落ち着かせる効果があるハーブだ。リティルは知っていてこの葉を使ってくれたのだろうか。

「それは、望んではいけないことだ」

「今、オレしかいないぜ?」

リティルは、アイスティーを飲みながら遠慮するなよと言ってくれた。

「ノイン、ここにいるのが辛いなら、太陽の城に戻ってもいいんだぜ?おまえがどこにいたって、オレはおまえと繋がってると思ってる。心に嘘ついてまで、オレのそばにいる必要なんてないんだぜ?」

「おまえに必要でなくとも、オレにはおまえが必要だ」

「オレに必要じゃねーって?オレの兄貴は、おまえしかいないんだぜ?そんなこと言うなよ……」

寂しいじゃねーかと、リティルは拗ねたような顔をした。

「すまない!傷つけるつもりはなかった」

相当落ち込んでるな。リティルはノインの反応に、彼の苦悩の深さを感じた。いつものノインなら、笑って「そうか、相思相愛だな」くらい言いそうなモノだ。それくらいのユーモアがあるのだ。まだまだ、自分に自信がないらしく、リャリス相手では言い返さないが、リティルとは日常そんなやり取りができていたのだ。

「はは、オレに気使うなよ。おまえはまだ、目覚めてから1年くらいしか生きてねーんだ。知識はあっても、経験が足りてねーんだよ。何だよ?風の騎士の記憶と比べてるのかよ?あれとじゃ、オレだって敵わねーよ。オレの父さんと2人分の記憶だぜ?誰も太刀打ちできねーよ。父さんは、伝説の風の王だぜ?」

「ついでに史上最悪だ!すげーだろ?」とリティルはなぜか胸を張った。インファも14代目風の王を史上最悪だというが、なぜなのだろうか。精霊達は、リティルの父親で伝説の風の王だと賞賛していたが……と疑問ではあったが、最悪と口にしながらリティルもインファも笑っている。負の感情がないことで、ノインはそれ以上詮索していなかった。

「その記憶があれば、オレは、迷わなくて済むのか?」

「いや、それは違うぜ?風の騎士も迷ってたさ。父さんもな。オレも、インファだって迷ってる。迷ったっていいじゃねーか。兄貴、それが生きてるってことなんだぜ?」

笑うリティルが、風の騎士と重なる。姿形はずいぶん年下でも、リティルは誰かを導けるだけの時を生き、経験を積んでいる。誰もが認める、偉大な風の王なのだと、改めて意識してしまった。

「オレは、おまえの兄では……」

「じゃあ、兄貴って呼ばねーよ。でもな、おまえはオレの兄貴だよ。そのうちわかるぜ?」

そう言って笑うリティルは、どう見てもノインよりも上の存在で、ノインは、なぜリティルが硬くなにそんな事実はないというのに兄と呼ぼうとするのか、わからなかった。

 押し黙ってしまったノインを、リティルはどう導けばいいのかわからなかった。

時が解決するような気がするが、リティルが、忘れられた寂しさに我が儘をいった結果が”兄貴”だった。提案したのは、記憶の万年筆で呼び出された風の騎士だったが、この関係性が生真面目な彼を苦悩させていることは確かだった。

力の精霊・ノインの中に”リティル”がいないんだと訴えたリティルに、風の騎士は涼やかにそんなはずはないと笑った。確かに、彼の中に”リティル”は残っていた。ノインは言えなかっただけだったのだ。

リティルよりも下だと、思いこんでいたから、変わらずあった、大切だという想いを告げられなかっただけだった。

騎士と主君。その関係性なら、容易に説明できた想い。

騎士ではなくなったノインをすんなり納得させるため、風の騎士は「おまえは手のかかる弟だ」と言い出した。父である14代目風の王・インの生まれ変わりである、風の騎士に憧れ、認めてほしかったリティルは「兄になってやる」と言ってくれた彼の言葉にすんなり従っていた。そして、それを力の精霊・ノインに告げてみると、こちらもすんなり納得した。

その時リティルは、ああ、なんだ、どこにいたって、司る力が変わったって、この絆は切れねーよな?とあんなに感じていた寂しさが消えてなくなった。

大きな包容力で、子供な王を下から支えてくれた風の騎士。リティルにとって彼は、安心だった。精霊的強さでいえば、リティルの方が当時から上だった。リティルが慕っているのは、彼が無敗の騎士だからではない。父親とは違う”ノイン”という心を欲しているのだ。そばにいてくれるその安心を、失いたくないのだ。

記憶の消去で経験を失って、心が不安定になってしまったが、彼は兄だ。そう認識してしまったら、それ以外見えなくなった。どんなに迷っていようと、自信なさげにしていようと、幻滅したりしない。彼は気がついていないだけだ。”リティル”を見守ってくれるその眼差しは、変わっていないということを。


 日が傾いてきていた。ノインが納得していないことはわかったが、リティルにはこれ以上かける言葉がなかった。「ここにいてくれよ?1人じゃ寂しいからな」と無理矢理応接間に留め置いて、リティルは仕事を再開し、ノインは図書室から本を持ってきて、隣で読むことを選んでくれた。

自分の感情を殺して、リティルに寄り添ってくれる大人なノイン。

自分のその行動が、すでにオレより成熟しているのだということを、なぜわからないのか、リティルは疑問だ。オレなら「一緒になんていられるかよ!」と怒鳴って、きっと外へ出て行っていると思う。そう思うだけに、思慮深い彼の悩みの正体がわからなかった。

 リティルは、ふと顔を上げた。

玄関ホールに続く扉が開かれる所だった。

「ただいま戻りました」

帰ってきたのは、同性でも2度見してしまいそうなほど、整った顔立ちの青年だった。男性寄りの中性的な容姿で、金色の長い髪を、肩甲骨の辺りから緩く三つ編みに結っている。彼の背にあるのは、金色のイヌワシの翼だった。

「おかえり、雷帝家族」

彼は、風の王・リティルの第1王子で副官の、雷帝・インファ。

疲れ顔の彼の後ろから、ピンク色の長い髪の、儚げながら意志の強そうな瞳の美人がひょいと顔を覗かせた。インファの妻である宝石の精霊・蛍石のセリアだった。セリアはリティルの姿を認めると、姉のような顔で微笑んだ。

「リティル、聞いてくださいよぉ!お父さん、ボク達のことうるさいって、ノインとくればよかったなんて言うんですよぉ?」

両親を飛び越えていち早くソファーまで飛んできたのは、インファとセリアの息子である、煌帝・インジュだった。

キラキラ輝く金色の髪を、三つ編みハーフアップに結った、女性寄りの中性的な容姿の青年だ。3人の容姿年齢は近く、インファとインジュは兄弟のようにしか見えなかった。

「事実です。きちんと説明を聞いていましたか?あの地は春一番が突風になりやすいんです。その兆候を見逃せば、大災害になってしまうんですよ?」

セリアと共にソファーに到着したインファは、インジュに小言を言った。

「聞いてましたよぉ。でも、あんなガラス細工みたいな場所、グロウタースにもあるんですねぇ」

インジュは、まるでルキルースの1室みたいだったと言った。

「ああ、宝石の島・透明な七色か。あそこは、何度か崩壊してるんだよ。春一番で」

「見た目通り繊細なのね。あそこに住んでるのは人間なの?」

宝石の精霊であるセリアは、おそらく島に降りてみたかっただろうなと想像できた。興味津々でリティルに問うてきた。知識ならインファの方が格段に上なのだが、どうやら仕事中息子は答えなかったようだ。その様子も、リティルにはありありと想像できた。

「花の精霊と地の精霊みたいな見た目の、半獣人種だな。フェアリーとドワーフだよ」

「フェアリーとドワーフって、よく創作の物語に出てくる種族ですよねぇ?実在したんですかぁ」

インジュも興味津々だった。これは、人選間違えたなとリティルは感じた。

「透明な七色固有の種族なんだよ。あの島は潮の流れの関係で、たまに難破した船が流れ着くんだ。あの島から帰還した奴らが話したりして伝わって、物語になったりしたんだな。ちっちゃい島で固有種で、滅ぼしたくねーんだよなー」

「来年はノイン、あなたと飛びますよ」

インファは本当に気疲れしたようで、キッとノインを睨んだ。睨まれたノインは苦笑しながら「オレでいいのか?」と謙遜した。

「あなたはときに荒っぽいですが、心得ていますからね。初めての土地でも安心なんですよ」

ノインを選ぶ夫に、セリアは抗議の声を上げた。

「非道いわインファ!わたしだってきちんとやれてたでしょう?」

「インジュと2人、宝石箱みたいだと散々騒いでいましたよね?」

「それは本当のことでしょう?綺麗なんだもの、少しくらいいいじゃない」

「失敗すれば、多くの命が失われてしまうんです。真面目にやってください」

静かに怒るインファに、セリアは肩を落として「ごめんなさい」と謝った。

「まあまあインファ!明るくて軽いのは2人のいいところだろ?おまえ、毎年意気込みすぎなんだよ。そう思って、2人を付けたんだけどな……悪かったな3人とも」

悪かったよと、リティルは3人に詫びた。インファはしまったという顔をして「いいえ」とバツが悪そうだった。気まずい雰囲気をぶち壊すように、満面の笑みでインジュがかぶせてきた。

「いいえ。ボク心臓に毛が生えてますから平気です!でも、どうしてノインを外したんです?毎年、お父さんと透明な七色担当でしたよねぇ?」

毎年春一番の時は、リティルは1人で城を担当してたのにと、インジュは首を傾げた。

 リティルはインファとチラリと視線を交わした。

「父さんが少し心配だったんです。ノインには何もわからずとも、一緒にいてほしかったんです」

「リティル、体調悪いんです?」

大丈夫ですかぁ?とインジュは、ズイとリティルの隣に座り込むと顔を見つめてきた。

「今年はな、10年に1度の儀式があるんだよ」

リティルは、雷帝親子の心配をもろに受けて、苦笑した。

「……死の安眠……」

呟いたのは、ノインだった。

「さすがだな。そうだよ。今年は死の安眠の年なんだ」

「何?その怖い名前」

大丈夫?とセリアまでもがリティルを案じた。こんなに心配されるとこそばゆいなと、リティルはますます困って笑った。

「別に怖くねーよ。失敗しても次の年に持ち越されるだけで、死ぬわけじゃねーしな。オレが王になった時は、全然成功しなくて、やっと成功したのは、ノインが目覚めた年だったんだぜ?」

毎年毎年気が滅入ったぜと、リティルはゲンナリした顔をした。その表情から、疲れる儀式であることだけはわかった。

「オレは1度も関わっていません。いつも、ノインが一緒だったんです」

「はは、オレ1人で大丈夫だぜ?風の騎士が手伝ってくれてたのは、オレが最上級に返り咲くまでの間だ。そのあとは、優雅に後ろで傍観だったぜ?」

「風の騎士、厳しいからなー」と、リティルは頭の後ろで腕を組んで笑った。

「父さん、なぜノインはよくてオレはダメなんですか?」

インファからそう問われるのは、何百回目だろうか。そのたびに、リティルは言葉を濁してきた。インファに説明しても、あの場所には――

「あの場所には、風の王しか入ることが許されない」

答えたのは、ノインだった。

「ノイン、風の王じゃないじゃない」

すかさず、セリアが反論した。今も昔も、ノインが風の王だったことなんてない!と。

「オオタカの翼が通行証なんだよ」

金色のオオタカの翼は、風の王の証だ。ノインが持っているのは、風の騎士が、特殊な生まれ変わりだったからだ。そんな『ノイン』に、今まで大いに甘えてきたなと、リティルは改めて思った。

「じゃあ、ノインが一緒に行けばいいじゃないですかぁ。知ってるんですよねぇ?」

「オレはもう、風の精霊ではない」

インジュの言葉から逃げるようにノインはそう言うと、中庭へ出て行ってしまった。

「……何かあったんです?」

 ノインの後ろ姿を見送りながら、インジュが首を傾げた。

「兄貴は絶賛苦悩中だ」

兄貴と聞いて、インジュは表情を曇らせた。

「リティル、お兄ちゃんって呼びすぎなんじゃないんです?ノイン、記憶がなくて、いろいろまだ戸惑ってますよぉ?この間も、ボクうっかり極大蛇型の攻略法聞いちゃって、気まずくなっちゃいました」

風の城の通常業務・魔物狩り。それには、ノインも関わってくれている。だが、狩りを一緒にやってくれるだけだ。それも、リティルとインファ以外とは飛んでくれない。

「インジュらしいわねー」

「前は一緒に飛んでたのに、わたしも寂しいわ」と、セリアは頬杖をついた。風の騎士は、セリアと組んで飛ぶことが案外多かったのだった。

「仕方ありません。魔物の攻略に1番詳しいのはノインでしたから。けれども、彼は攻略法をまとめておいてくれましたよ?」

「ああ、あの攻略本すげーよな。オレ達全員分の戦い方が書いてあったぜ?1番楽な組み合わせとかな」

「ノインの戦闘指南の能力は、オレより遙かに上です。オレは霊力や魔法の構築の方が得意なんですよ。なので、皆さんにあった戦い方の提案は無理です」

「ノイン、まだ大剣に拘ってるのかよ?豪快で好きだけどな、隙が大きすぎて見ててひやひやするぜ」

リティルは小さくため息を付いた。すかさずインジュが「いつも怪我しまくりのリティルに心配されてるって、なんだか笑えますぅ」と言った。

「そうですね、騎士が傷を負うことはありませんでしたからね。武器を変えてみますか?と提案したんですが、なぜかあの点だけは頑なですね。なぜでしょうか?」

インファにも理由を明かしていないのかと、リティルは気になった。

「黄昏の大剣か……。オレにも触らせてくれねーんだよな」

炎とは違う、赤い気のようなモノを纏う大剣だ。あの剣を、リティルはずっと昔にも見た事がある。ノインの前任だった力の精霊・有限の星が使っていたからだ。彼もリティルには、剣に触るな近づくなと警告していた。理由はわからなかったが、有限の星はリティルを見守ってくれている精霊だっただけに、リティルはそれ以上問わなかった。

「それはそうなんじゃないんです?あの剣、風の王を殺す剣ですよぉ?」

それはリティルも知っている。だが、あの剣が風の王を拒絶していないことは確かだった。

魔剣の類いであるあの精霊の至宝は、簡単に命を奪うが、どこか風の王には優しいような気がしていた。世界の刃である風の王が世界に仇なした時、渡り合う為にある力だというのに、変だなとリティルは思っている。

「風の騎士は、力の精霊の力が必要で、あの至宝が必要じゃねーって言ってたぜ?なあ、ノインが悩むのは、オレのせいなのか?」

リティルの問いに、セリアは目を丸くした。

「え?そんなことないわよ!だってノイン、リティル様のこと、風の騎士だった頃と変わらない顔で見てるじゃない」

しょうがないヤツだと言いたげな、見守るような優しい顔。リティルが、ノインを兄と呼び始めたくらいから、あの表情が帰ってきた。セリアは、やっとノインが戻ってきてくれたんだとホッとしていた。

「ああ、そうなんだよな。けど、あいつ……風の騎士に会いたくねーのか?って聞いてきたんだよ」

インジュが首を傾げた。彼の言いたいことは、わかる。おそらく、そう言われた全員がインジュと同じ反応をすると思うからだ。

「?ノインがいるのにです?リティル、思い出話ししすぎたんじゃないんです?リティルが騎士ノインに会ってすることって、それくらいしかないですよねぇ?知識は全部あるみたいですし、戦闘指南のことです?」

「謎だろ?ああ、あのな、フロインの魅了の力を抑える方法、リャリスがな、抑えてた本人に聞いてみたらいいんじゃねーかって言ったんだよ。それで、レジーナのところに行くことになってな」

記憶の万年筆だよとリティルがいうと、ああとみんな納得した。

「ノインがノインに会いに行ったの?……ウフフフ……やだ、騎士ノイン、さすがに困ったんじゃない?」

見に行きたかった!とセリアは笑った。

「オレ、行ってねーよ。今日動けねーからな。けど、行けたとしてもパスだ。ぜってー笑う。それで騎士に怒られる」

「会いに行ってから様子がおかしいんですか?」

インファは、険しい顔で確認してきた。インファも何か、思うところがあるのだろうか。

「いや、その前から変だったぜ?帰ってきたらもっと変だったけどな。どうやら、騎士ノイン、オレとノインが兄弟じゃねーってバラしちまったみたいなんだ」

「ええー?じゃあリティル、もうお兄ちゃんって呼べないんです?」

「嫌だったのか?って聞いてみたんだけどな、あいつ、答えてくれねーんだよなー。オレ、呼びてーんだけどなー」

「あら、どうして?リティル様、騎士様には結構反発してたと思うけど」

リティルがノインを「兄貴」と呼び始め、ノインが自然と答える様を見て、一家の皆はしばらく落ち着かなかった。風の騎士には強がるリティルが、素直に甘えているようで、見慣れなかったのだ。

「はは。なんかな、素直になれねーんだよ。でもな、兄貴って呼ぶと向き合えるんだって気がついたんだ。あいつも受け入れてくれてるって思ってたんだ。呼べなくなったら、寂しいな」

「リティル、ノインに甘えてますねぇ」

微笑ましいとインジュに笑われて、リティルはバツが悪そうに顔をしかめたが、改める気など皆無だった。

「意地張ってるとな、後悔するんだよ。ノインは力の精霊で、いつ太陽の城に戻るって言い出すかわからねーしな。もう、絆は切れないんだってわかってても、毎日顔合わせられなくなったら、寂しいだろ?ああ、リャリス、待っててもしかたねーから帰るって帰ったらしいぜ?」

 リャリスから連絡は行っていなかったようで、インジュはえ?と目を丸くした。

「来てたんです?最近すれ違いが多いんですよねぇ」

会いたかったのにと言いたげなインジュに、すかさず母親のセリアが咎めた。

「インジュ、そろそろちゃんとしなさいよ?ここまできて、友達以上恋人未満ってなんなのよ!」

「この距離感、壊したくないんですけどねぇ。ボク、たぶんダメなんです。魂分け合うまでいけませんよぉ」

「リャリスのこと、そういう意味で好きじゃねーのか?」

上手くいってるように見えてたけどなと、リティルは意外そうに問うた。問われたインジュは、困ったように俯いてしまった。

「わかりません。全然わからないんですよぉ。みんないつ気がつくんです?そういうの」

「へ?……うーん……説明できるか?」

縋るような目を向けられて、リティルは怯むとインファに助けを求めた。

「できますかね?」

オレに振らないでくださいよ!と言いたげに、インファはセリアに逃げた。

「ええ?わたし?そ、そうね……わたしの場合、インファがね、風の奏でる歌歌ってるの聞いた時に、ああ、この人のこと好きだわって思ったのよ」

「初耳ですね」

「言わないわよ!こんなこと!インファは?自覚した切っ掛けあったの?」

思わぬ反撃を受けて、インファはたじろいだ。

「はい?……オレには恋に落ちた記憶がありませんよ?」

「再会したあとよ!最初、険悪だったじゃない」

「……最初から気になっていたんです。ですが、そんなことに現を抜かしている場合ではなかったので、遠ざけておきたかったんです」

「何よそれ!わたしのこと、告白もしてないのに振ったじゃない!」

脈無しだと思ってたわよ!とセリアは怒りだした。そんなセリアを、切なそうに見つめて、インファはポツリと言った。

「……好きでした」

「え?」

「あなたに心がないと伝えたとき、すでにセリアのことが好きだったんです。…………何百年前の話を蒸し返すんですか?疲れたので寝ます!おやすみなさい、父さん!」

セリアと見つめ合ってしまったインファはハッと我に返り、甘い雰囲気を引き剥がすようにそう言うと、城の奥へ続く扉目掛けてすっ飛んで行ってしまった。

「待って!インファ!」

そのあとを、セリアは走って追いかけて行ったのだった。

「な?あの二人最初からラブラブなんだよ」

「今は知ってますけど、馴れ初め知ってないとわかんないですよねぇ。お父さんそういうの、全然見せないし。リティルはシェラとどうだったんです?」

リティルが「戻ってくるのかよ?」と苦笑すると「戻ってきました!」とインジュはズイッと期待を込めた瞳で見つめてきた。

花の姫・シェラ。

15代目風の王・リティルの妻だ。彼女とリティルの馴れ初めは少々特殊だ。

2人は繁栄と衰退の異界・グロウタースでお互いグロウタースの民として出会った。

リティルは風の王となることが運命付けられていた。そしてシェラも、風の王の妻となることが運命付けられた一族の姫だった。

運命に引き寄せられた2人だったのだが、リティルはシェラに選択を委ねた。

シェラはリティルを選び、神樹の花の精霊――花の姫という精霊に転成して今現在も隣にいてくれている。

「オレはたぶん、一目惚れだな」

今でも覚えている。シェラと初めて会ったとき、その紅茶色の瞳と目があったその瞬間「見つけた」と思った。

「ああ、シェラ可愛いですもんねぇ。でもリティル、どうして告白されたとき振っちゃったんです?」

積極的だったのは、意外にもシェラの方だった。受け取るわけにはいかなかったリティルは、逃げ回った。

「そりゃダメだろ?オレはあのとき、風の王ですらなかったんだぜ?何も確かなものがなくて、そんな状態で、未来なんて夢見られねーよ。おまえ、リャリスのこと気にしてたよな?あれは何だったんだよ?」

リャリスとは、敵として出会った。彼女とは、リティルも剣を合わせているのだが、インジュは出会った時から様子がおかしかった。

普段、リティルの敵は無条件でボクの敵!なインジュが、リャリスと戦う事を乗り気ではなかったのだ。

「あれは……なんだか、死んじゃうような気がしたんです。だから気になったんですよねぇ。今は……わからないんですよぉ」

リャリスは、出会った頃から智の精霊ではない。件の戦いの後、至宝・蛇のイチジクを継承して、智の精霊となったのだ。リティルの養女となったのもこのときだ。

実は、力の精霊・ノインと、同じ時に誕生した新米精霊なのだった。

「近すぎるのかもなぁ。オレな、おまえ達見てると、風の騎士とフロインを思い出すんだよ。フロインはノインにベッタリだったけど、ノインは素っ気なかっただろ?なのにいきなり、ノインのヤツみんなの前で婚姻結んじまうし、あいつ、いつからフロインのこと好きだったんだろうな?」

謎だと、リティルは腕を組んで首を傾げた。

「リティル」

「ん?」

「騎士に聞いてきてもいいですかぁ?」

「はは、騎士ノイン今日は厄日だな。いいぜ?ついでに、中庭のノインに声かけてやってくれよ」

「わかりました。ノインには、もう寝ちゃえって言っときます」

そう言って、インジュは中庭へ出て行った。

しばらくすると、インジュから通信が入った。内容はこうだ。

ノインが一緒に行きたいっていうから、一緒にルキルースへ行く。というものだった。


 幻夢帝・ルキは、今度はインジュとノインが、騎士ノインに会いたいと言ってきて、何事と思っていた。

許可したが、騎士ノインの記憶にそんなに何かがあるのだろうか?と気になって、再びついて行くことにしたのだった。しかし今回は、姿を現さないことにした。なんだかそのほうが、面白いことになりそうな気がしたのだ。

 再び、レジーナはキョトンとした顔をしながらも、騎士ノインを呼び出してくれた。

『インジュ?今度はおまえか』

騎士は、さすがに困惑していた。

「あはは、すみませんねぇ。ズバリ聞くんで、ズバッと答えてください」

なんだ?と騎士ノインは余裕の表情だった。

「あのですねぇ、いつ、フロインのこと好きだって自覚したんですかぁ?」

はあ?と騎士ノインが大いに面食らったのがわかった。

「いつ……いつだ?そもそも、オレに愛情があったのかさえ疑わしいが……」

騎士は大いに悩み出した。

「何言ってるんですかぁ!記憶壊しても消しても、フロインのこともぎ取りに行ったじゃないですかぁ!」

いや、記憶を壊しても消してもフロインを欲したのはオレではないと、騎士は思ったが、インジュは許してくれそうにない。

さあさあ、いつですか?とインジュはワクワクしながら、遠慮なく騎士を追い詰めていた。

「わからない。ただ、そばにいてほしいと思っただけだ。彼女がオレにへばりついていたのは、リティルの命だった。フロインはそれを忠実にこなしていただけだ」

「フロイン、そのずっと前からアプローチしてたじゃないですかぁ。婚姻の証贈ちゃったりなんかして。ノイン、リティルに相談して壊したじゃないですかぁ。どうして結婚しようって、心変わりしたんです?」

そうなのだ。騎士は、フロインのプロポーズを1度は蹴っている。その後、プロポーズしたのは騎士からだった。あれには皆驚いたことを、インジュも覚えている。

なぜなら騎士に、そんな素振りはなかったからだ。

「それはそうだが……」

騎士はタジタジだった。大いに困ったが、インジュは退いてくれそうになかった。しばしの沈黙のあと、彼はやっと口を開いた。

「……1つ思い出したことがある。リティルが大陸を救うため、大地の礎を使い、5年間風の城に帰ることができなくなったことがあっただろう?」

「ああ、青き翼の獅子大陸です?リティル、フロイン連れて眠っちゃいましたねぇ」

滅び行くグロウタースの大陸を救うため、リティルは『大地の礎』という魔法を使って傷ついた大地を癒やした。

一時、大陸と同化するため、魔法を使った精霊とは会えなくなる。フロインは、風の王が不在となる期間を短くするために、共に魔法の犠牲となったのだ。

「あの時、フロインがおまえに目覚めを報告してきたとき、早く逢いに行かなければと思った」

フロインとインジュは、至宝・原初の風に由来する精霊で、存在的には姉弟だ。同じ至宝で繋がる2人は、念話が通じるのだ。

ちなみに、インジュは、原初の風4分の1の継承者で、原初の風の精霊。

フロインは、リティルの持つ原初の風半分から具現化した、リティルの守護精霊だ。

「そういえば、仕事中のお父さんを有無を言わさず呼び戻したりとか、ノインじゃない慌てっぷりでしたねぇ」

「あの時だ」

「え?」

「あの時、オレはフロインを愛していると自覚した」

「……婚姻結んで何年目でしたっけ?」

インジュの視線が痛いが、事実なのだからしかたがない。

「かなり経っていたな。彼女と長期にわたり離れたのは、あれが初めてだった。故に気がついたのだろう」

「薄情です!」

「今更だ。フロインにも、これ以上オレの心は動かないがいいか?と聞いている。彼女はそれでもいいと言って、オレに魂をくれた。おまえも聞いていただろう?彼女はそれに関して、不満を言ったことは1度もない。むしろ、オレの身を案じ、婚姻を解消したがっていた」

「ええ?初耳ですぅ!フロイン、ノインにベタ惚れでしたよねぇ?今もですけど」

「拒み続けたのはオレだ。無自覚に、彼女を手放しがたく思っていたのだろう」

「無自覚……最強です。でもわかりました。参考になりました。ありがとうございます」

「もう、いいか?」

「迷惑ついでに、もう1つ聞いていいです?」

「なんだ?」

騎士は、これ以上何を言わせたいのかと、引きつっていた。

「フロインを抱きたいって、思わなかったんです?」

「インジュ……!」

あ、ノインが絶句してる珍しいと、インジュは思ったが、畳みかけた。

「だって、力の精霊に転成してすぐ、婚前交渉ですよぉ?よっぽど我慢してたのかなって思うじゃないですかぁ!」

騎士は、婚前交渉したのはこのオレではない!と思ったが、そうは言わなかった。

「……………………嫌がるフロインに無理強いはできないだろう!」

「え?拒まれてたんです?」

それは意外と、インジュは驚いていた。

「……彼女は、精霊獣であることを引け目に感じていた。手は出せない」

風の騎士との婚姻時代のフロインは、人型に具現化はできるが、今のような確かな肉体はなく、存在的には精霊ではなく精霊獣だった。精霊として存在が確定したのは、ノインと婚姻が切れた時だった。

 ハアと、騎士はため息を付くと、インジュを見た。

「インジュ、この質問の数々はなんだ?」

「あのですねぇ、リャリスのこと困ってるんです。それで、みんなに聞いて回ってるんですよぉ。っていっても、ノインで4人目ですけど」

「……リティルか?」

「ボクとノインと似てるって言われました」

「急ぐ必要があるのか?今のおまえ達の状況は、オレにはわからない。だが、急いてもいいことはないのではないか?オレは記憶にすぎない。今のことは、生身のオレに聞け」

騎士は、再び大きなため息を付いた。

「わかりました。ありがとうございました、ノイン。ボク、これで帰りますけど、ノインどうします?」

騎士に深々とお礼のお辞儀をし、インジュはずっと無言のノインに視線を合わせた。

「オレもオレに聞きたいことがある」

「そうですか。ルキ!ケンカになったらお願いしますねー!」

インジュは、どこかにいるだろうルキに声をかけると、じゃあと言って帰っていったのだった。

 騎士は、疲れた顔でノインを見た。

「手合わせ願いたい」

「……大剣でか?やめておけ、オレには勝てない」

「リティルが、死の安眠に挑む」

「!……そうか、もう10年か。共に行くのか?」

「行けるかどうか、ご教授願いたい」

「……戦わずともわかるが、オレは納得できはしないな。いいだろう。お相手しよう」

そう言って、騎士は長剣を抜いた。


 桜の根元から移動し、間合いを取ると、騎士は切っ先をノインに突きつけた。

「オレは無敗だ」

「知っている。風の糸、攻略してみせる!」

炎のような闘気を纏った大剣を抜き、ノインは地を蹴った。風の糸のことは、インファが教えてくれた。見えにくい細い細い風を、自身の周りに糸状に張り巡らせて神経の代わりにする。それに触れてくるモノに対処するという、待ち戦法だ。

ノインは、間合いの外から炎の闘気を連続で放った。

幾筋か放った後、ノインはその筋に身を隠して騎士に接近した。

騎士が闘気を避けた瞬間に合わせ、ノインは切り込んでいた。刹那、騎士がノインを見た。

「――甘いな」

「っ!」

騎士は剣を振らなかった。切っ先を下げ、片手を腰に涼しい顔をしていた。だのにノインは全身を切られていた。ガクリと、騎士の足下に膝をつかされていた。俯いた拍子に、仮面が割れて落ちる。攻撃が、見えなかった。

ノインの上に、影が落ちた。

「風の糸は神経の働きだけではない。攻撃、防御、補助、どんな動きにも対応できるのが、風の糸だ。ノイン、今回の死の安眠、リティル1人では越えられない」

ノインは瞳を見開くと、騎士を見上げた。ノインの傷は、スウッと消えてなくなった。超回復能力だった。

「14代目風の王。彼が死ななければ、死の安眠はリティルにとって、さほど恐ろしい儀式ではなかったのだが、彼はリティルにあとを託し、死んでしまった」

「風の糸を編み出したのは、14代目風の王だと聞いた。これまで、彼と対したことがないのか?」

騎士は首を横に振った。

「いいや。オレが常にいた。リティルは、オレが目覚めるまであの儀式、越えたことがなかった。あの頃は、上級精霊でしかなく、風の王史上最弱の王だった。今は最上級となり、オレもほぼ傍観しているだけだったが、14代目が相手となると、そうはいかない」

「貴殿が、守っていたのか?」

「そうだ。リティルは風の糸を攻略できない。性格的に」

衝撃的な言葉だった。性格的にと言い切られては、どうしようもない。騎士はため息交じりに「これでも教授した」と腕を組んだ。

「貴殿は風の糸に、風の糸で対していたのか?」

「何事にも弱点はある。オレは器用ではない。故に、風の力しか扱えない」

許せ。と騎士は言った。力の精霊が扱う力は風の力ではないために、騎士の持っていた風魔法は一切伝えることができなかったのだった。

「ああ、だが、長剣の剣技だけは残してくれたな。風の糸の弱点を突くにはどうしたらいい?」

「風の糸1本1本に干渉し、退ける」

「それは、風の糸を会得した者でなければ不可能ではないのか?」

「もしくは、反属性を返して消し去る」

「それは、インジュにしかできない。なるほど、無敗であるわけだな。了解した。風の糸を会得する以外になさそうだ」

ノインは立ち上がった。

「幸い、フロインの霊力がある。使用時間に制限があるが、やってやれないことはないだろう」

「フロインの霊力がある今ならば、伝えられるかもしれない。レジーナ、この記憶、渡せるか?」

桜の後ろからフワリと現れたレジーナは、騎士の手に触れて、ノインにそっと手を差し出した。騎士からノインへ、レジーナを経由して記憶が流れる。

「…………これはかなり高度な魔法だな。フロインの霊力だけでは足りない。……オレの今の力に置き換えるしかない。となると、構築式が――付き合ってくれるか?」

「無論。あの儀式、失敗すれば来年だ。永遠に14代目と戦い続けなければならないとなると、不憫だからな」

幻影とはいえ、14代目はリティルの父親だと、騎士は苦笑した。

「そのうち越えられるのではないか?」

「戦闘センスは認めるが、我が弟は繊細さに欠ける。攻撃が通るようになったとしても、打ち勝つのは難しい」

「大した自信だな」

「記憶、戻すか?史上最悪という、伝説を打ち立てた風の王は恐ろしく強い」

「それに打ち勝ってきたのではないのか?」

「リティルと連携した。オレ1人では彼に勝つのは無理だ」

同じ存在であるのに?とノインの脳裏に浮かんだが、口にはしなかった。リティルが、14代目風の王・インとノインを混同すると怒るからだ。

「……リティルと飛ぶと、シンクロしてしまうが?」

「オレは合図するだけだ。共に仕掛ければかぶる。未だにそうなのか?」

「ああ。今は鏡戦法で、リティルがオレと左右逆に動くことで何とか共に飛べている」

「器用だな」

「そうだな。オレに虚像役は無理だ」

ノインは長剣を抜いた。

「始めよう」

騎士は頷くと、ノインと同じ長剣を抜いたのだった。


 おかしい。ノインがルキルースから帰ってこない。

昨夜、帰ってきたインジュが、騎士に話があると言って、ノインはルキルースに残ったと報告を受けた。しばらく待っていたが、帰って来る気配がなく、リティルは床についた。

そして、今日は翌朝だ。ノインが帰ってきた気配はなかった。

見に行ってもいいのだろうか?リティルは、何かを悩んでいるノインに姿を見せていいのか迷ってしまった。しかし、ノインが心配だった。

「おはよう、リティル」

応接間のソファーで悶々としていると、グラマラスな女神が城の奥へ続く扉から入ってきて、リティルのもとへ飛んできた。

守護女神・フロイン。

キラキラ輝く金色の波打つ髪に、枯れない野の花を飾り、ラナンキュラスの花冠を頂いた、背の高い柔らかく優しげな面立ちの女性だ。1度は婚姻が途切れてしまったが、風の騎士時代からのノインの妻だ。背には、インジュと同じ、金色のオウギワシの翼があった。

「フロイン!ノインから何か聞いてるか?」

フロインが小首を傾げると、彼女の右耳で、バラの花からト音記号のぶら下がったピアスが揺れた。

「しばらく帰ることができないと連絡があったわ。騎士と何かしているようね」

「ノインがノインと?何するって言うんだ?」

「気になるなら、見に行けばいいのよ?あと、魅了の件はインファを頼れと言われたわ」

何を遠慮しているの?と首を傾げられ、リティルは思わず怯んでしまった。

「あ、ああ、おまえの魅了、霊力の変質じゃねーかって、騎士が言ってたらしいんだ」

「考えてみればありそうね。インファは嫌がるかもしれないけれど、頼んでみるわ」

フロインがそう言って笑った頃、城の奥へ続く扉が開き、噂のインファが姿を現した。

「おはようございます。……何ですか?フロイン」

フロインにジッと見つめられて、インファはどうしたのかと首を捻った。

「インファ、わたしの霊力を探れるかしら?魅了の力を抑える手がかりがあるかもしれないわ」

「はい?……あなたの魅了の力の暴走は、霊力の変質が原因……あり得ますね。わかりました。セリアを起こして、早速診てみましょう」

オレの部屋へ来てくださいと、インファはフロインを連れて、もと来た道を戻っていった。 1人取り残されたリティルは、中庭を見やった。中庭には、ルキルースに繋がる扉が固定されたバードバスがある。

ノインのことが気になる。気になるが、行っていいのだろうか?

リティルはおもむろに立ち上がった。

「……オレまで遠慮しちまったら、ノインはオレに近づけねーよな?」

ノインは控えめだ。リティルが踏み込まなければ、彼からこちらには踏み込めないだろうと思えた。

 リティルは、左手首にはめたビーズのブレスレットに目を落とした。この球の1つに、ルキルースへのとびらがある。度々ルキルースを訪れるリティルに、ルキが幻夢帝の扉を貸してくれたのだ。これによってリティルは、玉座の間を経由することなく行きたい部屋へ行けるのだった。

リティルは扉を開き、レジーナの部屋である万年桜の園へ足を踏み入れた。

 ヒンヤリした夜の空気がリティルを包む。

リティルは翼を広げて、一気に丘を飛び越えた。

「ノイン!」

丘の上に、倒れているノインを見つけて、リティルは急降下した。

「リティル、おまえが来るほど時が経ってしまったか?」

ノインの様子を確かめようとしたリティルの上に、影が落ちた。見上げると、騎士が立っていた。

「ノインどうしたんだ?傷だらけじゃねーか!」

「案ずるな、手合わせを繰り返しただけだ」

そう言うと騎士は、リティルのそばに腰を下ろした。

「同じノインなのに、こんなに差があるのかよ?」

ノインが泥のように眠っている姿など、初めて見た。霊力も体力も、こんなに奪われて……リティルはノインが苦悩していた片鱗を見た気がした。

「オレが不器用なせいだ。風の力を使う戦法のすべてが失われてしまった」

「風の力……それ、オレがノインに風を渡せば、継承できるのか?」

「それはついさっき継承した。フロインの風が体内にあるからな」

「なのに、この傷って、いったい何やってるんだよ?」

「……死の安眠」

「ん?それがどうしたんだよ?」

「今回の相手は、周期的にインだ」

「!父さんか……。……風の糸だな?」

「ああ。オレは問題なく継承したが、風が足りずに維持が難しい。それを現在の力に置き換えようとしている」

「オレ、我慢できねーからな。風の糸が、神経から攻撃に変わる瞬間の隙間で攻撃!ができねーんだよな」

できたとしても、一瞬の隙間だ。そこに合わせられなければ、次の瞬間糸に全身を切られて勝敗は決してしまう。騎士相手に何度も試したが、リティルには合わせられなかった。

「我慢を覚えろ。兄を助けると思って」

「……苦労してるのかよ?」

「見ればわかるだろう?だが、オレが自信を取り戻すいい機会かもしれない」

「自信ねーのか?ノインが?」

「弟のおまえの方が優れていると、思いこんでいるようだな」

「おまえが?ますます信じられねーな。オレのこと、どこをどう見たら、おまえよりすげーんだよ?」

リティルは、痛そうに視線を、疲れて眠っているノインに落とした。ノインの素顔を、リティルはあまり見たことがない。14代目風の王・インと同じ容姿であることを、髪を短く切り、仮面をかぶることで隠してくれていた。

失った父を、ノインの顔を見る度に思い出さなくてもいいようにと、彼は、自分の顔を捨てたのだ。

「兄貴、知らないだけだぜ?オレは1人じゃ何にもできねーんだ。ホントは、死の安眠、1人で行くの、怖いんだぜ?負けまくったってこともあるけどな、ずっとおまえが一緒にいてくれたんだからな」

「本当に、兄と認識しているのだな」

「おまえが言い出したんだろ!でも、心強いんだ。まだ絆が続いてるんだって思えてな。なあ、ノイン、オレ、すげー怖いんだ」

顔を上げたリティルの瞳が、不安げに揺れていた。騎士は、眉根を潜めた。

「どうした?」

「おまえ、風の城からいなくならねーよな?」

「兆候があるのか?」

「わからねーよ。どこにいたって、繋がってるから平気だって言ったんだ。でも、ホントは嫌なんだ。おまえにいてほしいんだ。重荷……なんだろうな……オレ……」

「おまえを重荷に思った事は1度もない。昔も今も」

ノインは、落ち込むリティルの背中に、その大きな手で触れた。そうしてやると、リティルは気がついていないだろうが、少しホッとした顔をする。それは今も変わらず、リティルの瞳にあった恐怖が溶けるように消えていった。

「オレのことで、悩んでるぜ?」

「そうか。見守れ」

「できそうにねーよ。おまえだぜ?」

「ずいぶん、可愛いことを言うようになったな」

どうした?強がれと、騎士に言われていることはわかったが、リティルは強がれなかった。

ノインへの縋り方を覚えてしまったら、もう、彼に強がれなくなってしまったのだ。ノインに『兄』でいてほしいのは、リティルだった。

「騎士だった頃は、おまえ、行きたくてもどこにも行けなかったじゃねーか。でも、今は、どこにだって行けるんだぜ?意地なんか張ってたら、簡単に失えるんだよ!信じられねーだろ?」

強がるリティルを、騎士はインの代わりに見守ってきた。甘えてくるリティルを騎士には想像できないが、隠さず手を差し伸べられる今を、少しだけ羨ましく思った。

リティルときたら、立てないほど傷ついているというのに、不用意に手を差し伸べようモノなら、獣じみた瞳で振り払ってくるのだから。

「ああ。考えられない。リティル、手合わせするか?」

リティルと会話するなら、剣を交えるのがいい。完膚なきまで叩きのめせば、素直になるからだ。まあ、今回はリティルが素直すぎるくらい素直だ。その必要はなかった。

「やる!おまえがいなかった間、オレだってただ寂しがってただけじゃないんだぜ?」

ピョンッと身軽に立ち上がって、勝ち気な笑みを浮かべるリティルにフッと微笑んで、騎士も立ち上がった。

そして2人、翼を広げると空中で対峙した。


 騎士が切っ先を突きつけた。

あれが、風の糸発動の合図だ。彼と対峙する者は、知らない間に彼に場を支配されるのだ。そして、その後は一方的な戦闘が始まる。それに、気がつけないまま、多くの者は彼に屈する。

「オレから行くか?」

騎士は、余裕に涼やかに微笑んだ。

「はは、おまえは待ってろよ!オレから行くぜ!」

優雅に待ち戦法だろ?とリティルは両手に2本のショートソードを抜くと、スウッと精神統一するかのように、交差させた両腕を、ゆっくりと円を描くように開いた。

騎士は、リティルの周りに何かが展開された事に気がついた。だが、見えない。風の糸がリティルに触れられずに、丸い球体を包むような恰好で弾かれた。

切り込んできたリティルを覆い、見えない球体も歪な形にはなったが動いた。

盾?リティルが?と騎士は、防御を一向に覚えなかったリティルが?と疑問に思った。

真っ正面から切り込んできたリティルの剣を、騎士はスルリと躱す。

騎士の脇をすり抜けながら、リティルの瞳は騎士の動きを瞳だけで追っていた。そこに壁でもあるかのようにトンッと、リティルは騎士のすぐそばで空気を蹴ると翻弄するように騎士を飛び越え、再び空気を蹴って斜め上から斬りかかった。騎士は至近距離にもかかわらず僅かな動きだけで攻撃を避けた。そして、その背に向かって長剣を振り下ろす。

クルッと空中で身を捻り、襲ってきた刃を両手の剣を胸の前で交差させて受けたリティルは、ニヤッと笑った。

ゾクッと身の危険を感じたが、さすがに間合いを詰めすぎていた騎士は、防御が間に合わずに、何かに襲われていた。

「――気を抜くな」

騎士の翼が僅かに散るのを見たリティルの瞳が、嬉しそうに笑った。その隙を見逃さず、騎士の剣が閃いた。その一撃で、勝敗は決していた。

「戦闘中に喜ぶヤツがあるか!」

騎士は、叱責しながらリティルの首に宛がった刃を退いた。

「はは、そりゃ、初めて攻撃が通ったんだぜ?嬉しいだろ?」

やった!と、両手でガッツポーズをするリティルは、本当に嬉しそうだった。

「ついに、してやられたな。だが、すでに対策を思い付いた」

同じ手は喰わないと言いながら、騎士は悔しそうに苦笑いを浮かべていた。

「げっ!マジかよ?」

「攻撃が浅すぎる。あの一撃で、片翼を奪うくらいしなければ、イン相手に次はない」

騎士は、貫かれた片翼を開いて見せた。羽根に阻まれて、翼にまで攻撃は届いてはいなかった。それどころか、彼の体は風の障壁に守られ無傷だった。

「だよな……攻撃特化のオレならって、親方と作ったんだけどな、まだまだ穴だらけなんだよ」

「ゴーニュと?ああ、彼ならば戦闘指南できそうだな」

騎士の脳裏に、風の城の地下にある、深淵と呼ばれる鍛冶場を支配する、ずんぐりした髭面の大男の姿が思い出されていた。その場所は、風の王が産み出される場所だが、15代目は死にそうにないと、鍛冶屋・ゴーニュは闘技場を作り出し、彼の鍛えた、風の精霊の闘志である殺戮の衝動を呼び出して、いつでも手合わせできるようにしてくれた。

彼は、殺戮の衝動以外も作り出せ、誰にも破られたことのない風の糸を攻略しようと、14代目風の王・インを作り出してリティルと研究していたのだった。

「オレ、実は父さんから風の糸教わってるんだ」

「そうだったのか?それにしては、使っている姿を見たことがない」

「……使えねーんだよ。風の糸を神経に使ってるときは、殆ど動いちゃいけねーだろ?オレ、待てねーんだ。父さんには、応用しろって言われたんだけどな。ずっと使いぱなしって難しいんだよ。広範囲じゃねーと意味ねーし、けどオレ、視野狭いし、頭の処理が追いつかねーんだ」

「なるほど。おまえの使った魔法は、風の糸の応用なのだな?」

頷いたリティルは意識を集中すると、見えるように金色を纏って魔法を展開した。

「風の針っていうんだ。糸を短くして、狭い範囲に敷き詰めてみたんだよ。イガグリとかヤマアラシみてーなイメージだな」

ふむ。と、騎士は細かな針が形作る球体に触れた。チクチクと手の平に刺激があった。先ほど襲ってきたのは、この針かと察し。攻撃したいリティルらしいなと思った。

「この針は自在に飛ばせるのか?」

「ああ、直線だけどな」

「一瞬出力を高めて、殺傷能力を上げることができれば、もう少しマシな使い方ができそうだ」

「あれでも出力上げてたんだぜ?おまえの剣で大半壊されちまったんだ」

「強度不足か。防御魔法を鍛えろ。もしくは壊されないように避けるか」

「それは、オレも考えたんだけどな……。あーあ、兄貴が見てくれればいいのになー」

リティルは頭の後ろで両手を組むと、不満そうに嘆いた。

「オレは噛んでいないのか?」

騎士は意外そうな顔で問うた。

「ああ、オレには指南などできないって、闘技場に誰かいるときは絶対来ねーんだよ。できるだろ?おまえだって、長剣しか使えねーのに、大鎌だろうが弓だろうがあーだこーだって言ってたんだからな」

拗ねたようにリティルは騎士から視線を外した。リティルの周りにあった針が溶けるように消えていった。

「無敗の騎士だった過去が、オレを卑屈にさせているのか」

「早く吹っ切ってくれよ!インジュが相談できないって、困ってるんだ」

「インジュは戦い方が特殊だからな。新たな魔物が出てきたか?」

「ああ、またいくつかな。ノイン、やっぱり凄いぜ?鏡戦法で、初めての魔物も全然ものともしねーんだ」

「シンクロ、克服できたようで何よりだ」

「ああ、兄貴と飛ぶと楽だぜ?オレ、逆に動くだけでいいんだからな!」

そう言って胸を張ったリティルが、急に何かに気がついたように、鋭く下を向いた。見れば、いつから見ていたのか、ノインが座ったままこちらを見上げていた。

騎士は、見られたくないものを見られたように、リティルの表情が強ばるのを見たのだった。

 それでもリティルは、息を詰めて意を決したように、ノインに向かって舞い降りていった。騎士はそれを、上空から傍観することにした。

ノインの前に舞い降りたリティルは、何も言わずに見つめてくる彼の視線に、居心地悪そうにしながら、それでも口を開いた。

「ごめん……昨日から帰ってきてねーから、気になったんだ」

素顔を晒したままのノインの視線が、スッとリティルから外された。リティルは、外されてしまった視線にズキッと心臓が高鳴った。

いつから見てたんだ?騎士に攻撃が初めて通って、喜んだのを見られてたのか?とリティルは動揺してしまった。

「ノイン……オレ……」

「リティル、しばらく距離を置かせてほしい」

――え?リティルは驚いて、瞳を見開いた。思考が止まる。

「今のオレは、おまえのそばにいられない」

「――して、どうして!ノイン!」

失う!そんな必死さを滲ませて、両腕を掴んできたリティルを見つめながら、ノインは疲れたように目を伏せた。

「すまない……」

「――嫌だ」

その静かな声に、ノインは顔を上げた。

「嫌だ!」

リティルの怒ったように睨む強い瞳と、目が合った。

「騎士と戦闘訓練してるんだろ?だったら、オレにも噛ませろよ!イン対策なら、オレにこそ必要だぜ?」

ノインは、騎士とリティルの空中戦を、初めから見ていた。風の糸を展開した騎士に、リティルは気兼ねなく手加減無しに仕掛けた。あんな鋭い動きのリティルを、中庭でインファやインジュ相手に遊んでいるときでさえ見たことがない。

本気でぶつかれる相手――風の騎士はそういう相手なのだ。

そして、騎士の羽根をほんの数枚散らせただけで、リティルは小躍りするほど喜んでいた。その直後、騎士と今の戦いについて話し合いを始めた2人に、入れない空気を感じた。

オレと彼とは違う……。たかが思い出、されど思い出。それを取り戻したとしても、変わってしまったオレは、もう、戻れない……そう自覚してしまった。

「リティル、オレの想い汲んでやれ」

リティルの背後に舞い降りてきた騎士が、静かに言った。

「ノイン!けど、オレ!」

「絆は切れない。リティル、大丈夫だ」

騎士の揺るがない微笑みに、リティルは屈するしかなかった。

騎士の揺るがない微笑みに、屈するリティルを、ノインは感情なく見つめていた。


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