9:無知なる魔女への魔王からの刻印
心地良い肌触り。馥郁たるアロマの香り。耳に届く小鳥達の囀り。どんなに両手を伸ばしても広い開放感。気持ち良く、沈み行く精神のまどろみの中、暫くこのままでいられたらどんなにいいだろうと思った。
一層の事、もう永遠にこうして眠り続けていられたのなら……。その時である。突然現実に引き戻されたのは。
バサリ!! 容赦なく捲り取られる掛け布団。パチリと目を見開いた纏依は、驚きの余り野良猫の如く飛び上がって……そしてすっかりお約束のようにベッドの上から転落した。
「……相変わらずですな。そなたは。一度は転倒せねば気が済まぬのかね?」
頭上から降り注がれる、抑揚のない低くて渋い声。
「いっつー……もう少し優しい起こし方は出来んのか! そっちこそ相変わらずだな!!」
纏依は低血圧からくる寝起きの悪さも手伝って、怒りを露にしながらクイーンサイズの真っ黒いベッドに這い上がってくる。
「優しくですと……?」
レグルスは怪訝そうに言うと、眉宇を寄せた。
「だいたい今日は月曜日で確か図書館は休みじゃなかったか!? それとも館長には休みは関係ねぇのか? っつーか、今何時だよ!」
そう言いながら自分の携帯電話を腰ポケットから取り出すと、時計を確認して、沈黙。
「……あれ? 何この携帯、壊れてんのか? 嘘マジで? 十一時じゃん。十一時って……朝の十一時だよな? うっわー最悪マジやっちまった……! よりによって他所の家でここまで寝腐るとは情けない……」
纏依はベッドの上でうつ伏せの格好で、顔を隠しながら気まずそうにブチブチ呟く。すると突然ゴロンと仰向けに転がされる。と同時に纏依の脇にドシと手を突いて覆い被さるように、レグルスが彼女の顔を覗き込んできた。
「は? 何? いきなり……」
予告もなしに突如目前に、しかも覆い被さるようにしてきた彼の動作に、動揺する纏依。
「優しく起こせと、そなたが申したものですからな。どのような対応を取ればその状況になれるのか……試してみようかと思いましてな……」
レグルスはそう静かに低くて渋い声で囁きながら、ゆっくりと顔を近付けてきた。
「え、そんな、レグルス、優しくってのはそういう意味じゃなくて、だな」
顔を真っ赤にしながら、必死で自分の言い分を伝えようとする纏依。
「嫌かね。目覚めの口づけは」
「い、嫌とかそんなんじゃないけど、その、なんつーか」
「嫌ではない……。ならば構わないと言う事ですな?」
「だから、その、えっと」
冷静に彼女の瞳を見詰めてくるレグルスからの、大人の男のオーラに纏依は混乱してくる。
「はっきりせぬな」
「そりゃだって、こういうのは慣れてねぇから」
「もう良い。喋るな」
「へ? う、ん……!」
結局待ち兼ねたレグルスに、半ば強引に口唇を塞がれる纏依。ドキドキしている鼓動を、何とか落ち着かせようとしながら、レグルスの口唇を意識する。
優しくただ当てるだけかのようなタッチで、ゆっくりと口唇を軽く表面だけで挟むようなキス。どこか少し、焦らすかのように、合間合間にほんの僅かだけの触れるか触れないかのような距離を作ってくる。
それが纏依は何故か、妙にもどかしく思えた。少しだけ思わず自分から、彼の離れた口唇に追い縋る。それを寸前でまた掠すらせては逃げる、彼の口唇。互いの熱い吐息が絡み合う。
「如何がした……? 纏依……」
少しずつ、纏依の“女”を引き出そうとするレグルス。
「ん……だって……! レグルスの意地悪」
「意地悪……? 何故そう思われる」
「だって……そっちからしてきておいて……こんなの、ズルイよ……ん……」
また軽く口唇を触れさせておいて、離れるレグルス。
「ずるい……? 某がかね……?」
「ちゃんとキスして。お願い……」
そう囁いた纏依は恍惚した目で、レグルスの闇色の双眸を覗き込んでいた。
「そなたの願いとあらば、幾らでも」
レグルスは静かに囁くと、グッと纏依の口唇に自分のそれを今度はしっかりと重ねた。昨夜の図書館の館長室での時よりも、今回のキスは情熱的だった。
思わずレグルスのそのキスに、夢中になって応えていく纏依。どうしよう……今の俺……こんなに大胆になってる……。でも、抵抗できない。嫌じゃない。
体を抱き締めてくるレグルス。纏依も同じように彼を精一杯抱き締め返す。やがて彼は口唇の位置をずらすと、纏依の細い首筋に口唇を当ててきた。
「あ……レグルス……」
首筋に感じる温もりに、ゾクゾクしながら纏依は彼に首筋を曝す。するとヂュッと首筋の一部が熱くなる。
「ん! あ……!」
思わず声が漏れる。やがてゆっくりとレグルスは首筋から口唇を離すと、もう一度纏依の顔をこちらに向かせて、再び口づけを交わしながらゆっくりと彼女の上半身を抱き起こした。
口唇を離し、暫くまどろむように見詰めあう二人。漸く先に口を開いたのはレグルスの方だった。
「……目が覚めましたかな?纏依……」
「ん……パッチリ……」
「宜しい。ならば下りてこられよ。もうお昼ですぞ」
レグルスは言うと、再び軽くキスをしてから寝室を後にした。思わずポヘッとする纏依。首筋に手を当てる。改めてドキドキしてくる。
まだ、首筋が熱い。目覚めに味わい受ける異性からの熱い口づけ。こんなに、クセになりそうになるなんて……。
「キスって、いいものだな」
少し顔を赤らめながら、纏依はボソリと呟くとベッドから飛び降り、一階へと駆け出した。
階段を駆け下りてきた纏依の目の前に突然レグルスが現れて、危うくぶつかりそうになったところを、彼が素早く反転して受け止める。
「……もう少し静かに下りてこられぬのかね」
「……すいません……」
スッポリと彼の腕に納まったまま、纏依は申し訳なさそうに呟く。すると、突然グキッと頭を横に倒された纏依。
「い゛っ!?」
「……ふむ。いい具合につきましたな。これは数日、消えませんぞ」
「?」
再びグイと頭を元の位置に戻される。
「な、何だよ。何か付いてんのか!?」
纏依が少し怯えながらレグルスの胸にしがみ付き、彼に訊ねる。
「洗面所ならばこの階段の向こうだ。ご自分の目で確認されよ。そこに何があるかをな」
纏依は聞くや否や、ドタバタと洗面所へ走り出す。
「纏依」
「はい! すみません!」
走った事を指摘されるとばかり、ピタリと気を付けの姿勢で立ち止まる纏依。
「……そなた、そうして髪を下ろしていると、更に見目麗しい」
「……え」
そういえば自分が髪を纏めずにそのままで下りて来た事に気付いて、自分の胸元に掛かる髪に手にやって見詰める。
レグルスはそのまま静かにリビングへと姿を消した。改めて洗面所の鏡で首筋を確認すると、そこの一部が紅く内出血をを起こしていた。
「……どこかにぶつけたか? 昨日」
不思議そうにその部分を撫でながら、次に自分の髪を下ろした姿を改めて確認する。……じゃあもう暫く、このままでいてもいい……のかな……なんて。少し自分の女としての容姿を意識してみる。
そしてリビングのソファーに座っているレグルスの元へ行くと、纏依はあっけらかんと言った。
「何か赤くなってた。昨日どこかにぶつけたか、もしくは虫に食われたみてぇだ。ヤダなぁ。こんな所、目立って丸見えだよ。虫め」
「……虫……」
レグルスがボソリと低い声で呟いた。そうして彼の横にドサンと身を投げる纏依。
……だったな。この娘にはこういった異性との戯れには疎かったのであったな……。レグルスは思いながら嘆息吐くと、纏依の首に腕を掛けてグイと引き寄せて、嫌味さながらに耳元で言った。
「それは今しがたベッドの上で、某がそなたにつけたキスマークというものだ。世間の者はそれを見ただけで何なのか、すぐにピンときますぞ。そうして数日間、そのマークが消えるまで公衆に見曝すが良い。そなたに“男”がいる事を、周囲に知ら示す如くにな」
途端に真っ赤になる纏依。
「これで一つ、勉強になりましたな」
レグルスは体を離すと、サラリと意地悪そうに言ってのけるのだった。