74:魔女の涙
点滴を受けて、栄養管理の行き届いた病院食のおかげですっかり体力を回復させた纏依は、三日間の入院を経て無事退院した。
纏依がいなくなっている間に、現実ではもう年を越して一月の終わりを迎えようとしていた。
大学の冬休みも当然終えて、通学を開始していたあやめだったが纏依を心配して入院中、毎日お見舞いに来てくれた。
そうこうして退院してからも、彼女は恋人のユリアンと一緒に動いてくれた。
彼の愛車で纏依のマンションは勿論の事、山中にひっそりと佇むレグルスの自宅、そして国立図書館など心当たりのある場所を巡ったが、レグルスはどこにもいなかった。
寧ろ逆に、図書館の副館長に“彼は海外へ出張中”との返事を受けた。おそらく前もってレグルス自身が、副館長にそう伝えておいたのだろう。涙こそは二人の前では流さなかったものの、纏依は明らかに落ち込んでいた。
纏依のマンションの部屋に戻ってから、半ば心ここにあらずで纏依がコタツにある座椅子に腰を下ろす中、あやめが気付いてコタツとヒーターのスイッチを入れる。そしてあやめも右斜交いに腰を下ろすのと同じタイミングで、ユリアンも左斜交いに腰を下ろして徐々に温かくなるコタツの中に足を入れる。
初めは不思議に思ったこの日本文化の代物に、ユリアンはおかげさまですっかり馴染んでいた。今では便利な調度品だと気に入ってもいる。こうしてあやめとの間に纏依を中央に位置する中、ユリアンは言い辛そうに口の前で両手を組むと声を発した。
「……本当なら、レグルス本人から聞くのが一番なんだろうが、残念ながらまだあいつは戻っていない。このまま真相を知らないままレグルスのいない日々を過ごすのは、君の心に毒だ。だからミス在里、簡単にだけ教えておこう」
そうしてユリアンは、実は自分の妹クラウディアの仕掛けた罠に嵌まったレグルスが、纏依に見せてしまった偽りの情事の現場に誤解が生じた事、しかしその後の処置によりクラウディアと東城 空哉は姿を消して、もう二度とみんなの前に現れない事を伝えた。
それを聞いて纏依は、虚ろな目で口端を引き攣らせると作り笑いを見せる。そして微かに声を振り絞るようにして言った。
「そぅか……そうだったのか。見事に俺はあの二人の嫌がらせに踊らされたって訳だな。なんて――俺はバカだったんだろう……俺がレグを苦しめたのか」
「それは違うよ先輩! あの疫病神に苦しめられたのは纏依先輩とスレイグ教授なんだから、先輩が自分を責める事なんかない!」
あやめが半ば叱責を込めながら、纏依を励ます。それに纏依はふと息を吐くと小さく微笑む。
「そう言ってくれると安心するよ。俺、いつも自分ばっか責めてきたからな。もっと前向きになんねぇと、このままじゃレグに心配かけてばかりだ。それにしても――いつになったら帰ってくるかなぁ、レグ……」
纏依は後半、独り言のように呟きながら視線を落とす。
胸中で沸き起こる、もしかすると邪悪なスピリッツ体に負けたんではという不安を、必死に振り払いながら。
「大丈夫だよミス。あいつは必ず帰ってくる。必ずだ」
ユリアンも自分に言い聞かせるかにして、力強い口調で言った。
まさか、自分の死の代償を受けてレグルスの方が死んでしまったのでは、という不安が心の片隅に芽生えながら、ユリアンも必死にそれを脳裏から振り払う。
もう二月になろうとするこの季節だが、まだ凍えるように寒い。三人がコタツを囲む中、暫しの沈黙を室内を暖めるヒーター音が静かに響いている。
その沈黙が辛くなってきた纏依は、懸命に今はまだ泣くまいと口元に組み合わせた両手を当てて耐えながら、相変わらず視線を落としたままだ。
この重苦しい空気を破ろうと、ユリアンが纏依に言った。
「……一次元であった出来事を、詳しく聞かせてくれないかい?」
纏依はそれを話す事で気分が紛れるのならと、首肯しながら小さく微笑んで見せた。
「あそこは一次元的な存在のみが通用する世界でさ。俺はレグルスが迎えに来るまでずっと、自分の殻に閉じこもっていた」
「ああ、あの黒い球体の事だね」
「知ってるのか?」
ユリアンの示した相槌に、纏依は半ば驚いたように訊ねた。
「あやめが当時の一次元世界を夢で見てね、君を探す重大な手がかりになったんだ。君が“自分の殻”と言う黒い球体を守ってくれていたお爺さんがいただろう。彼の夢の中に入って間接的だが、その世界の一部を見せてもらった」
「ああ、ご住職さんの事だな。あの人には本当に最後の最後までお世話になった」
ユリアンの話を聞いて、少しずつ纏依の笑みが自然なものへと変わってゆく。纏依は話を続ける。
「そう。その一次元世界は、精神体のみが存在できる世界なんだけど、ほら、レグって高度の超能力者だろ。だからそのオーラを一次元では自分のイメージした物に変換する事が出来るんだ。あそこにいる時のレグはまるで魔法使いみたいでさ。俺の肉体を狙って襲って来る邪悪な精神体がいて、それに向かってオーラを飛ばして攻撃したりしてさ、不気味な世界だったけどそんなどこかファンタジックなところもあって……ユリっちも、もし行ってたら同じような事が出来たんだろうな。改めて超能力者って凄ぇなって思ったよ。俺達みたいな普通の人間では、オーラが微弱だから攻撃には使えないんだ」
話している内に、すっかり熱がこもって纏依は夢中になっていた。無意識に、身振り手振りで説明していた。そんな彼女の様子と内容に、ユリアンはどこか安心した表情を見せる。
「そうか……レグルスは、闘っていたんだな。じゃあ尚更大丈夫だろう。あいつは私よりも高いオーラの持ち主だ。やはり、必ず帰ってくるだろう」
「そうだよな。そうそう、最後にさ、その邪悪な精神体が合体して、すっげぇデカくなってさ、このマンションで例えると二階から三階くらいはあったかな。あんだけデカい奴をたった一人で相手にしてんだから、ちょっと手間取ってるだけかも知んねぇし」
そんなすっかり話に興奮している纏依に、それまで黙って聞いていたあやめまで鼻息を荒くしてノッてきた。
「そうですよ先輩! 相手が精神体なら、スレイグ教授の能力範囲内じゃないですか! 普段からも精神を相手にしている教授なら、そんな連中の扱いもお茶の子さいさいですよ!」
「お茶の子さいさいって……」
纏依はあやめの言葉に、束の間愉快そうに笑った。先程と比べて、すっかりその場の雰囲気が和んでいる。
「そうだよミス。そうやって笑ってレグルスの帰りを待っていなさい。私はあいつが戻って来るのを信じている」
ユリアンの優しい笑顔に、纏依も等しく笑顔を返した。
「そうだよな。レグだって俺がいなくなっても信じてくれたんだろ? 俺は必ずどこかにいるって。だから、俺も信じる」
すると賺さずあやめも明るい声で激励してきた。
「笑えない時はいつでも言って下さいね先輩。この心強~いあやめちゃんが、いつでも側に飛んで行きますから!」
「ふ……たくましいよ。お前」
そうして微笑みかける纏依に、奇妙なときめきを覚えたあやめは久し振りの感触に喜びを露にする。
「キャー♥ 纏依先輩、そんなに泣いて喜ばないでください~!」
「全然泣いてねぇ!」
ガバッと自分に抱きついてくるあやめを受け止めながら、喚かずにはいられない纏依だった。
時は流れた。
一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、二ヶ月になろうとしているがレグルスは一向に戻って来る気配がなかった。
挫けそうになる心を必死に励ましながら、纏依は画家としての仕事に没頭していった。暇を見つけては、レグルスと出会う前から恒例だった国立図書館通いも続けていた。
そうした日頃は常にあやめが側にいてくれて、時々はユリアンも一緒に励ましてくれた。
それでも一人になれば、纏依は思わず涙を流さずにはいられなかった。
「遅いよ……必ず俺の場所に帰って来るって言ったじゃないか……早く帰って来い、レグルス……」
ベッドの上で、枕を涙で濡らす。その時。
何かが聞こえた気がした。ずっと遠くから。頭を上げて顔を顰めながら耳を研ぎ澄ませる纏依。
しかしそれは、現実で耳にすると言うよりは頭の中に聞こえてくるようだ。そう、それはまるで身に覚えのあるあの感覚――テレパシー。
そして、少しずつはっきりとしてくる、聞き覚えのある愛しく低い声――。
“……こにいる……某はここだ、纏依……”
「レグルス!!」
纏依はベッドから飛び降りた。
東の夜空には、春の大三角形と共に獅子座が瞬いていた。“獅子の心臓”を一際明るく輝かせながら……。