72:真の魔王たる本領発揮
纏依の全身を覆う鎖は頑丈そうではあったが、咄嗟にレグルスはそれを力任せに取り除いてはいけない気がした。
きっとその鎖は、彼女の傷付いた心の防衛本能が具現化されたこの暗黒の球体と、一体化されている一部だろうと思えたからだ。レグルスは静かに、そして恐る恐るその鎖に触れてみる。しかし特別な変化は起きなかったので、鎖ごと小さく蹲っている纏依を抱き締めた。
それでも彼女は目覚める事もなく、微動だにしない。二人の間にある鎖に阻まれて、レグルスはいまいち纏依の感触を得られない。構わずレグルスは彼女を抱き締めたまま、静かに纏依の耳元で囁きかけた。
長らく離れ離れになっていたせいで、とても冷静ではいられない悲痛さのこもった声で。
「纏依……すまなかった。某は不本意だったとは言えそなたを傷付けた。然れど粗方地上の問題は片付いた。ゆえに、頼むから戻って来い纏依」
その言葉は確実に彼女を求めていた。それが伝わったのだろうか。暫しの間の置いてから、突然球体全体がまるで心臓を思わせるように、ドクン……ドクン……とゆっくりと大きく脈打ち始めた。
この暗黒の球体は纏依の心の傷が具現化されたものだ。自分の声かけが彼女へ届いていると悟り、レグルスは尚も声を掛け続けた。
「某にはそなたが必要だ纏依。そなたに出会えて初めて生きていると実感し、人生に充実感を得られた。そなたでないと某を生かせぬ。纏依のいない人生は不要でしかない。心の底から某は纏依を愛している。切に某の元へ戻って来い。纏依の居る場所で、某は生きよう……」
すると今度は、鎖ごと纏依自身全体が大きく脈打った。等しく同様に、球体もそれに習う。レグルスはそれまで彼女に伏せていた顔を上げると、両手だけを当てたまま確認するように少しだけ腕を伸ばし体を離してから、纏依の全体を見回した。
ジャラリ、と音を立てて纏依の全身を包む鎖が緩む。その様子にレグルスは息を呑んで見守る。
やがてその鎖は鋭く甲高い音を立てたかと思うと、鋼鉄をした外見からそれが乾燥した土へと変貌した。レグルスは咄嗟に手を離して状況を窺う。
そのまま脆くなった鎖は、ゆっくりと粉塵を零し出したかと思うと一気に瓦解し始め、それまで包み込んでいた纏依の全身から剥落していった。
その後、纏依の全身は一度大きくブルリと震えると、それまで瞑目していた彼女の双眸がゆっくりと開いた。そして微かに口から洩れる、弱々しくか細い声。
「……レ、グ……?」
その懐かしく聞き覚えのある声に、レグルスは目を見張ると前方に回りこんで彼女の両肩に手を当てる。
「纏依! 如何にも、某はレグルス・スレイグだ。そなたを迎えに馳せ参じた。共に帰還致そう。某には纏依、そなただけだ」
「本当に……?」
纏依は膝を抱えて丸くなったままの姿勢で、虚ろな双眸はどこを見るでもなく声も相変わらずか細い。それでもレグルスは力強く彼女を諭す。
「誓おう。決して違わぬ。共に生きろ。某の場所で。以って纏依、某はそなたの場所で。もう二度と再び某の前から消えてしまうな。未来永劫、某の傍に居て欲しいのだ。永遠に」
するとそれまで虚ろだった纏依の瞳が微かな光を帯びた。洩れ出る言葉もはっきりしてくる。
「絶対だぞ……?」
「誓おう……っ」
繰り返されるレグルスの言葉に、徐々に纏依は丸くなっている姿勢を解き、しっかりと彼女の視線はレグルスの漆黒の双眸を見詰めていた。込み上げてくる涙の泉。紡がれる、纏依の訴え。
「絶対に私と一緒にいて、もう二度と離さないで……!」
「――誓おう……!」
大粒の涙を次々と零しながらも、ついに自分の首へ腕を回してきた纏依を、レグルスは愛おしそうにその広い胸の中に抱き締めた。
ずっと求めていた彼女の温もり。ずっと探していた彼女の存在。やっと見つけた彼女自身、決して離すまいと痛感する。
しかし、肉体ある纏依を強く抱き締めるには、レグルスの精神体では役不足だった。力を加えると、スルリと擦り抜けてしまう。包み込むくらいしか出来ずにいた。
「足りぬ。斯様な姿では、纏依への抱擁が届かぬ。某には肉体が足りぬのだ。そなたの部屋に置いて来た。共に戻ろう。現次元の世界へ」
纏依はそれに嬉しそうに微笑む。
「うん……うん! 戻ろう!」
力強く頷くと纏依は、グイと腕を使って涙を拭いた。そしてしっかりと一言。
「帰ったらちゃんと理由を聞かせろよ。――あの時の」
ユリアンの妹、クラウディアと全裸で一緒にいた件を指摘しているのは、明らかだった。
「無論……」
レグルスは一瞬息を詰まらせてから、吐き出すように呟いた。
彼は自分のオーラで具現化したフード付きのローブを纏依へ頭ごと包み込み、一次元世界の抵抗から守護する。
レグルスが一緒にいる事にすっかり安堵したせいか、それまで二人を包み隠していた纏依の心の闇で出来ている黒い球体が、突如一気に収縮し始めて、やがてふと消滅してしまった。
球体から一次元世界に再度姿を現したレグルスと、そして何よりも肉体ごと存在している纏依の姿を確認するや、それまで遠巻きから様子を窺っていた邪なスピリッツ達の生への執念が、彼等の僅かなる理性を弾き飛ばしてしまった。
多々いるそれらのスピリッツ達は二人に向けて口を開け歯を剥き出して威嚇すると、一人、二人……五人、十人と次々に身を寄せ合い始めた。
それらは個々を完全に吸収し一体化すると、その吸収された邪なるスピリッツの人数分だけ膨れ上がり、ついには曇天が集結したような禍々しい邪悪なる巨大スピリッツ体へと変貌した。
ポッカリと空いた黒い口に同じく黒々とした二つの眼窩。それは恰も髑髏を思わせる風貌だった。
レグルスの腕の中と彼のオーラローブで守られている纏依が目を見張り息を呑む中、その巨大化した複合体スピリッツは不気味な雄叫びを上げながら、纏依とレグルスに襲い掛かってきた。
消滅した黒い球体の真下にいたままだった矢渡が、その異形な姿を前に声を上げる。
「何たる執念じゃ!」
レグルスは腕を一文字に振るい、青白い閃光をスピリッツ集合体に叩き付ける。それを喰らった胴体部分が衝撃で陥没して見えたが、その周辺にいる個々のスピリッツがモゾモゾと蠢くと、そのダメージ部分は見る間に元通りへと戻った。
「よもやただでは帰れまい」
集合体を前にしたままレグルスは呟くと、纏依を片手で自分の背後に押し隠しながら側にいる矢渡へと声をかける。
「ご老人。纏依を元の世界へ戻してやっては頂けまいか。出入口への案内を頼む」
そうして再度一、二発閃光を敵に叩き込む。
「そんな! レグはどうするんだよ!」
レグルスの背後から、纏依は叫ぶ。
「まずはそなたを守り通す事が先決だ。彼奴等の狙いはそなたの肉体。生を渇望する連中にとって、そなたの肉体は憧憬と嫉妬の対象だ。己が肉体から精神体を切断された彼奴等は、憑依という手段で他人の肉体を盗む事でしか、生を得る事は出来ぬらしい。よって某はこの精神集合体の足止めをするゆえ、その間にこの次元から逃れよ。でなくば某の作ったそのオーラローブも長くは持たぬ。この次元で肉体を直に曝してしまえば挽肉にされてしまうぞ」
所々ダメージを受けた巨大スピリッツ体は、尚もまたじわじわとそれを回復させている。
「一緒に帰ろうって言ったじゃないか!」
「頼む纏依。某はそなたを連れ戻しに来たのだ。そなたがいなければ某の人生は意味を成さぬ。三次元で落ち合おう。必ず纏依の場所に某は戻る。さぁ、早く行け!」
「レグ……!」
まだ少し渋っている纏依に、矢渡が優しく声をかけた。
「彼の努力を無駄にしてはいけない。ここは彼に任せて、纏依はワシの後に付いて来るのじゃ」
「……! 必ず帰って来いよレグルス!!」
纏依は精一杯の声で叫ぶと、涙を堪えながら住職の老人と共に一次元の出入口へと駆け出した。そんな彼女に禍々しい鉛色をした、雲のような巨大な手が迫る。その前にレグルスが立ち塞がった。
「アの肉体ヲ寄越せ……! 邪魔をスるナ……!」
スピリッツ複合体は五重、六重にも聞こえる不気味な声で呻きながら、立ち塞がったレグルスの精神体を鷲掴みにした。
本来精神力系とも言える“超感覚的知覚”の能力を扱うレグルスは、その巨大な手に握り締められると同時に、たくさんの負の感情が彼の精神体に流れ込んできた。
「ぅ……っ! ぐぅ……!」
その膨大な負念の感情にさすがの無表情なレグルスでも、苦悶の表情を露にした。
だがそれは、絶好のチャンスとも言えた。本来読心などで他人の精神を扱う超能力者である彼は、以前にも述べたが自分の中へ相手の感情を取り込む事でその苦痛をエネルギーへと変換する、リサイクル利用が可能だからだ。
しかもこれだけの膨大な量になるエネルギーを吸収しただけに、先程攻撃や防御などに使用して低下していたオーラエネルギーは、基準値の量を遥かに超えてレグルスの精神へと注ぎ込まれた。
一方纏依は矢渡のスピリッツと一緒に、足元の暗雲が途切れて陽炎のようになっている空間の前にいた。
「この中に目的地をイメージしながら飛び込むのじゃ。そしたら元の世界へ戻れよう」
「ご住職さん……まさかここで、あなたに再会するとは思ってもいませんでした。あの頃は大変お世話になったのに、またここでもお世話になるなんて、一体どう礼をすればいいのか」
彼女の申し訳なさそうな表情に、矢渡は優しく微笑んだ。
「そんな事など気にせんでいい。今はもうあの若いのが、傍に付いておるのじゃろう? 纏依、彼を信じる事じゃ」
「はい。大変お騒がせして申し訳ないと共に、この度は本当にありがとうございました」
「地上で、今度こそあの若いのと幸せになるんじゃぞ、纏依。それじゃあ、元気でな」
「さようなら……ご住職さん」
纏依は深くお辞儀をすると、その陽炎の空間の中へと飛び込んで行った。
「あの頃は……本当に暗く孤独を背負った、無口で何者をも信用しなかったのが今ではすっかり、明るく素敵な娘に成長したのぅ……あの子との出会いも、良い思い出じゃ。――さようなら、纏依……」
矢渡は纏依が姿を消した陽炎を見詰めながら静かに微笑むと、スゥッと姿を消した。
どうやら地上で彼の延命されていた肉体が、ついに死を迎えたらしい。彼のスピリッツは、肉体を繋ぐ霊魂の解放によりそちらへと吸収されたのだ。
これで矢渡は一次元の世界から解放されて、真の死の世界の住人となった――
それまでスピリッツ集合体に握り締められていたレグルスは、覇気と共にその暗雲の巨大な手を霧散させた。
巨大スピリッツは再度元の形に戻そうとしたが、戻らない手の形に驚きを露に不気味な叫喚を上げる。
「コレハ、一体……!?」
すると、巨大スピリッツの手から解放されたレグルスは、それまで金色のオーラを放っていたはずが徐々に黒々としたオーラに変わっていった。彼は低い声を発する。
「……本来某は情を知らぬ“魔王”と呼ばれ、数々の人間の精神を崩壊させてきた過去を持つ……今こそ三度与えん。うぬ等に絶望を。某を敵に回した事を、後悔するでないぞ」
瞬間、どす黒い炎の渦がレグルスの精神体を包み込んだかと思うと、そこには本来地上に置いてきた筈の肉体を取り戻して、漆黒のオーラに身を包み一次元の働きから身を守るレグルスの姿があった。
彼の強い意志が引力を作り、肉体を召喚したのだ。纏依と同じように。
意識侵入を一つの技に持つレグルスにとっては、巨大スピリッツ集合体を精神崩壊させるのは必殺技とも言える。
神や悪魔、ましてや死神でもないレグルスに霊魂を刈り取り消滅させるのは不可能であっても、精神相手ならレグルスの専売特許だった。
「では覚悟致せ。いざ、参る」
本来漆黒なる双眸は、全力で放出したオーラの基準値を超えた上昇による影響で、紫色の光彩に変化する。
彼の低く威圧的な言葉の後に、防具として具現化させた肉体を守る漆黒のロングローブがゆらりと持ち上がり、大きくはためき始めた……。