56:魔王の言葉に傷付きし魔女
自棄に気だるい様な気がした。体も妙に、鉛の如く重々しい。
熱でもあるのかと、レグルスは国立図書館長室にて自分の首に手を当てるが、さして体温は高く感じられない。まさか寝不足に悩まされる程、昨夜はそこまで夜更かしをした覚えもない。寧ろ、纏依の気疲れを思って欲求を控えた為、少し有り余ってまだ昼前にも関わらず、もう今晩の纏依との戯れを企んでいる程、気力体力共に問題はなかった筈なのに。ここ数十分間、突然この感覚に襲われている。
レグルスは目前のパソコン画面から目を逸らし、キーボードから手を離すと、椅子の背凭れに身を委ねて目頭を軽く押さえた。ほんの少し瞑目しただけで、忽ち睡魔が波の様に押し寄せてくる。その魔の手から逃れようと、頭を振って立ち上がると機敏な動きで部屋中の窓を開け放った。そうする事で、少しでも気分転換になると思ったからだ。
そしてまだデスクの上に置きっ放しの紅茶をそのままに、今日は珍しく苦いブラックコーヒーでも飲んで遅鈍的な脳を叩き起こそうと、室内にある簡易給水台まで歩み寄る。しかしついに朦朧となる意識に耐え切れず、途中にある接客用ソファーに倒れ込む様にして、その巨体を沈めた。
意識の向こうで、ノックの音が聞こえた気がして何とか体を仰向けにしたが、最早声を出す力もなくぼんやりとドアを見詰める。だがそれさえももう、夢現の区別すら付かない。
ふと、自分の頬を何かが撫でる。それは優しく愛しそうな触れ方だった。
遠くで誰かが自分を呼び掛けている気がしたが、それが誰で何を言っているのかも明瞭ではなかった。しかし、レグルスは無意識に思った。
――“纏依”と。
纏依は愕然としていた。
目前に広がる光景が、信じられなかった。いや、信じたくなかった。だが、どんなに見直しても、その光景は確実に彼女の頭に焼き付いた。
「ヤダちょっと。この子とランチの約束してたのなら、もっと早めにそう教えておいてよ。そしたら私も、急いで帰ったのに。お蔭で見られちゃったじゃない」
しかも、そのレグルスも全裸姿だった。
尤も胸部までしか、クラウディアと毛布に覆い隠されて見えなかったがこの光景を見れば、誰しも直結させるイメージはただ一つだ。
「え……? 嘘、だろ? レグ。マジかよ? 何かの、冗談、だろ……?」
纏依は何とかその場の光景を笑って切り抜けようとしたが、その口元は引き攣り表情は強張ってとてもそうは見えないし、声も上擦り震えている。しかしレグルスは、閉ざしていた瞼を重々しくうっすら開けると、絞り出す様にして一言放った。
「……――出て行け……!!」
その視線は纏依に向けられていた。
途端に、雷撃を受けたように頭の中が一気に空白となる纏依。
同時にとめどなく溢れ出す涙は、レグルスの顔をぼやけさせた。纏依は震える足でゆっくりと後退りながら、ただ小刻みな動作で首を左右に振っていた。やがて館長室のドアは纏依の手から離れると、ゆっくりと重い音を立てながら静かに閉まり、今彼女に見せ付けた光景を覆い隠した。
洩れ出る嗚咽。
それを必死に押さえながら纏依は、転がる様にして階段を駆け下りる。
何が何だかさっぱり分からなかった。理解出来ずに処理しきれない脳内は混乱する一方だったが、ただはっきりとしていたのは彼女の心に絶望と悲しみの一色が、覆い尽くしてしまっていた事。
そのまま声にもならない悲鳴を吐き出したが無情にも、その音波は無声のまま空気の壁を割ったに過ぎなかった。それと共に全身から同じく力が抜けてしまった纏依は、残り五、六段の高さから転倒したのだった……。
一方館長室では、相変わらずレグルスが懸命に目を凝らしながら、纏依の姿を消してしまったドアを注視し、閉まったのに気付いて必死に手を伸ばそうと腕を上げる。しかしその腕はクラウディアに捕らえられ、その素肌を剥き出したままの豊満な胸へと埋められてしまった。
「クスクスクス。もう行っちゃったわよ。あの子なら」
「出――て行け……!!」
レグルスは尚も、その言葉を繰り返す。
そう。この言葉はクラウディアに向けられていたのだ。
それでいて視線は、ドアの前で立ち尽くしている纏依を求めていた。誤解である事を伝えようと。しかし皮肉にも、その言葉の矛先が自分に向けられたものだと、纏依は判断してしまったのだ。
「そうよ。その言葉を聞いて、泣きながらね。可哀相な女の子。せめて英語で言えば誤解されずに済んだでしょうにね。“Get lost”と。これを意味する日本語くらいなら、私にでも理解出来るもの。ウフフフフ、アハハハハハ!!」
クラウディアは愉快そうに笑うと、そのままレグルスに覆い被さってキスをした。懸命にその毒婦の口づけから逃れようと、力の限り顔を背けるが彼女の手がレグルスの頭をがっちりと押さえ込んで、それを赦さない。そして口づけを交わす瞬間を、クラウディアは自分達へ向けてセットしておいたカメラのリモコンを押して、シャッターを切った。
「この部屋の空調に仕掛けた吸入麻酔薬が、相当効いてるみたいね。しかも気分を紛らわす為にわざわざご丁寧に、窓まで開放して空気の入れ替えまでしてくれちゃって。お蔭で私まで影響を受けずに済んだわ。クスクスクス」
クラウディアは言いながら、レグルス自身を弄んでいたが、当然全身に麻酔が効いている為彼が反応を示す訳もなく、おまけに意識の混濁により超能力も発揮出来ずにいた。勿論これは、東城 空哉のアイデアだ。彼女は未だに彼等が能力者である事を、知らされないままである。
「プレイこそ出来ないのは残念だけど、手や口であなたを味わう事は出来るわよ。Mrスレイグ。しかもあの生意気なあなたの彼女にも一泡吹かせてやれたし、証拠写真だってある。もうこれであなたは私の物よ。元気になったらたっぷり楽しみましょうね。アハハハハハ!」
「……無論……」
レグルスは意味深にそう呟くと、再び意識を失った。
彼が魔王と罵られてきた所以を、兄ユリアンから歪曲された現実のせいで今となっては、知る由もない哀れな彼女とも言えた――。
纏依は額に感じる疼きで目が覚めた。
そっと手をやると、そこには大きなガーゼが貼り付けられてある。ああ、階段から落ちて頭をぶつけて気を失ったっけと、思い浮かべ軽く失笑する。
ここはどこだろう。
「レグルス――」
そう言って、ふと言葉を呑んだ。
そうだ。彼はあの女と一緒だったんだ。俺がいない間に隠れてあんな事を……!!
再び涙がポロポロと溢れ出す。瞬間、突如何かが目前を遮り纏依の頭部右側が弾んだ。
「相変わらずよく泣くねぇ! 纏依ちゃんは!」
そう言って姿を現したのは、従兄の空哉だった。纏依は驚愕を露にする。まさに今、彼が纏依の右側になる枕元に片手を突いて、彼女が横になっているベッドへ腰を掛ける姿勢で、見下ろしてきたのだ。
「クー兄……いや、東城! どうしてあんたがここに――痛……っ!」
纏依は抗議しようとして、額の傷の痛みにより起こしかけた頭は、呆気なく再び枕に引き戻される。
「おやおや。この僕に対してその威勢と態度とは……。せっかく僕の部屋まで運んで手当てまでしてあげたって言うのに。――その様子だとやはり、あの年増女の兄とか言う金髪チリ毛ジジイから、俺の本性を知らされたようだな。纏依」
空哉は冷淡な口調で言うと、それまで温厚にしていた表情を一気に悪辣なものに変えた。彼の言う金髪は正確に朱金色の事だが、日本人にそんな細かい金髪の違いまでは分からない。例えの表現こそは酷いものだが、“金髪チリ毛ジジイ”がユリアンを指している事はすぐに見当が付いた。
そんな、ついに自分の前で一変した彼の様子を目の当たりにして、纏依はベッドの中で身構える事しか出来なかった……。
金髪チリ毛ジジイ呼ばわりしてスマン。ユリアン!!ww。
しかし屈強な大の男が犯されるシーンは初めて書いた……(普通ないから当たり前だ!w)。