51:魔女を惑わし親近者
平日の昼間、纏依は改めて久しい再会を果たした従兄兼義兄を、一人住まい用のマンションの自分の部屋に招いていた。
まだ寒いこの季節、こたつの中で暖を取ってホットコーヒーを彼女にご馳走になりながら、空哉は言い難そうに言葉を紡ぐ。
「一応、離婚しても僕にとってはたった一人の実母だからさ。電話連絡だけでも取る関係に、してるんだ。それで、聞いたよ。母さん、また性懲りもなく纏依ちゃんに会った時、いびったんだって? でも逆に反撃を食らったって聞いて、思わず笑っちゃったけどね。――ごめんな。また嫌な思い、させただろう。父さんに見捨てられても懲りないんだから、もう病気だよ母の性格の悪さは」
「いや、いいんだよ別に! クーお兄ちゃんが謝る事ないしさ!」
空哉の少し沈んだ口調を気にして、纏依は慌てて手を振りながら彼からの謝罪を恐縮がる。そんな彼女の反応にふと微笑みながら、安堵したように言葉を続けた。
「でも、強くなったんだね。なんて、女の子に言ったら失礼かも知れないけど。だけど僕としては、安心してるんだ。今の纏依ちゃん見てさ。頑張って社会の逆風に立ち向かってると思うと、逞しくなったなって。心配だったから。いつも哀しそうで泣いてばかりいて、大人しくて、まるで触れたら儚く壊れてしまいそうだったあの頃の纏依ちゃん、か弱かったから」
「クーお兄ちゃん……」
その彼の優しさに触れて、纏依は改めて昔の優しい彼の面影を脳裏で重ねる。そうして見詰めてくる彼女の瞳を、同じく見詰め返しながら空哉は静かに訊ねる。
「今、纏依ちゃんは幸せなのかな?」
その言葉の直後、纏依の脳裏は即行でレグルスの面影が取って代わる。そしてふと視線を落としてから、穏やかな口調で答える。
「――うん。……幸せだよ」
口にした瞬間、心の中に沸き起こる幸福感で無意識に表情が、柔らかに緩む纏依。記憶から呼び起こされる愛する人物は、現実よりも美化されるケースが多い。――以前にも述べたと思うが――なので、無表情で黒々とした大男である、世間では恐怖の対象でしかないレグルスも今この瞬間纏依の心の中では、周囲の空気をキラめかせながら爽快に振り向いていた。……あくまで無表情を維持したまま。そんな彼女の心の映像までを、当然ながら知る事の出来ない空哉は纏依の表情だけで、続きの言葉を拾う。
「その素振りからすると、彼氏がいるんだね?」
「え? あ! まぁ、こんな紛らわしい服装や言動を取る私を、まともに女として扱ってくれる変わり者が、世の中にはいてさ!」
咄嗟に顔を赤らめると纏依は、気恥ずかしさの余りわざと自分達のポジションを下げた言い方で、話題を濁し誤魔化そうとする。自分では気付いていないのだろう。羞恥心が極まり、すっかり動きが挙動不審になっている。そんな彼女の反応が可笑しくて、軽く噴出すとクスクス笑いながら空哉は、思った事を口にした。
「そうか。だから彼氏と同棲しているせいで、この家にもあまり戻ってないんだね」
途端、纏依の顔は更に紅潮したまま、それまでだらしなく弛んでいた笑顔も、急に引き攣らせた状態で硬直した。
「――え? どうして分かった?」
彼女の疑問を含んだ唐突な言葉に、咄嗟に空哉も動きを止める。そして一瞬の間があったかと思うと、俄かに苦し紛れ気味の声を、彼は絞り出す。
「――フェ、フェイントッ」
「……へ?」
空哉の思いがけない言葉に、キョトンとして目をパチクリさせる纏依。そんな彼女の反応に若干慌てながら、空哉は必死に自分の中で生じる動揺を押さえ込みながら口走る。
「ひ、引っ掛けだよ! まさか本当に同棲していたなんて! 思わず驚いちゃったよ!」
すると束の間、元に戻っていた纏依の顔色が再度、たちまち朱色に染まっていく。
「ズ! ズルイぞクーお兄ちゃん! そ、そんなイジワルするなんて!」
「アハハハ! ごめんごめん!」
空哉も彼女の反応に合わせて、何とか笑って誤魔化しその場を巧く回避した。そして改めて気を取り直すと、彼は纏依を優しく見詰めた。
「……でも、安心したよ。纏依ちゃんが幸せだと、分かって」
そう静かに囁くように言うや否や、突然空哉は斜向かいに座る彼女の手を掴み引き寄せると、ギュッと抱き締めた。空哉を今まで異性として見た事はなかったが、だからと言って幼児期から優しくして貰ってはいても、お互いにとって伯母、又は母である五十嵐の存在を意識して極端過度に触れ合う事を二人は避けてきていたのもあり、突然抱き締められた纏依は動揺せずにはいられなかった。それは心に植え付けられた、畏怖の念とも言えた。
従兄妹であり、義理の兄妹として幼児期から共に育ちながら、その関係はまさに王族と召使いの様な大きな差があったのだ。なので瞬間的に“恐縮的高貴なる存在”という意識が、自動的に働いたのだ。だが、そんな纏依の心境など当然ながら知る由もない空哉は、体を離してニッコリと優しい笑顔を浮かべると纏依の頭を、ワシャワシャと撫でた。そしてこれ以上に無い明るい声で祝す。
「良かったな!」
「ク、クーお兄ちゃん……」
纏依は恐縮さと共に、前日聞かされた伯父の死に対する謝罪による責任感の複雑な心境で、畏縮から来る速まる鼓動を抑える事が出来ずにいた。そして何とか気分を変えようと、必死に頭をフル回転させながら出たのは、至って陳腐な内容だった。苦し紛れでこれが精一杯だったのだ。
「クッ、クーお兄ちゃんには何か、いや、えと、かっ! 彼女! うん、彼女いるだろう? ほら、クーお兄ちゃんは優しいし、ハンサムだからモテそうだし!」
すると突然この従妹の言葉に空哉は、一気に顔を近付けるや少し拗ねた表情をして見せた。
「ザーンネン! 彼女はナシ。好きな女の子もナシ! 今は仕事が恋人ってヤツ! だから今回の取材ネタとしてその間中は、纏依ちゃんを追わせて貰うよ。仕事の“恋人”として♪」
瞬間。カー……ン☆
纏依は頭の中で、何かのネジが弾け飛んだ感じの軽佻な音が聞こえた気がした。すっかり硬直したまま、纏依は心ここにあらずの様子で半ば意識を失っている。何せ自分にとっては、身分差ある貴族的立場に等しく且つ、優しい義兄として敬慕していた相手。しかもレグルス以外の異性相手で、鼻先が触れ合う程に超至近距離まで男の顔が迫ってきたのだ。例えお互いそんな意識をしていなくとも、纏依からすれば幼児期より植え付けられた一種の、憧憬に値する存在。つまりTVや映画の有名スターが同じ行為を取って、興奮のあまり理性が飛び意識を失う放心状態のファンが起こす現象と、同一に言っても過言ではない。目を開き硬直したまま、纏依はそれに陥っていた。
「あ、あれ? 纏依ちゃん? 大丈、夫……? ――……」
そう声を掛けながらさり気無く、纏依の全体を素早く見回す空哉。そしてある判断を下した。
今の纏依は、“心理的ショックにて意識の一時的障害を起こした事に因る、突発的一過性開眼発作状態”に陥っている。
内心そう密かに結論付けると空哉は、まるでそれを利用するかのようにスッと纏依に口づけをした。一秒、二秒……そうして五秒が経過してから、漸く我に返った纏依は今起きている自分の状況に驚愕した。空哉の、茶髪にクリーム色のメッシュが入ったサラサラのショートヘアが、纏依の頬に優しく触れる。
「――ャッ!」
顔の角度を変えながら、ゆっくりと自分の唇にソフトキスを交わし続ける空哉を、咄嗟に突き飛ばし纏依は大慌てで後退る。
「あ、ご、ごめん。一応声を掛けたんだけど、つい引き寄せられちゃって……。その、本当言うと僕がずっと理想にしていた女性像は、纏依ちゃん。君だったから……」
突き飛ばされながらも空哉は、申し訳なさそうな口調で哀切な表情を見せる。そんな従兄の彼の態度にすっかり動転しながら、纏依は呼吸をするのも忘れて必死で声を咽び上げて捲くし立てる。
「クッ、クーお兄ちゃんっ! で、でも俺っ、い、いや、私達は従兄妹同士である訳だしっ! しっ、しかも私には同棲までして将来も約束した相手が――!!」
「分かってる! ごめん! 今のは僕が悪かった。理性が働かなかったんだ。好意を抱き続けていた女の子が、目前で黙って見詰めてると思ったらつい……。ごめんね纏依ちゃん。今のは事故だと思って、忘れて」
空哉は相変わらず、すっかり落胆したような様子を見せてどう対応すべきか戸惑いながら、ひとまず頭を下げようと正座し始める。それを見るや更に纏依は驚愕し、畏怖に近い感情で必死で恐縮する。
「いや、もういい! 隙を見せた私が悪いんだから、どうか謝らないで下さい!!」
纏依の中で根深く張り付いている、伯母の五十嵐から刷り込まれた主と使用人の身分差による畏縮心。忘却したつもりでも、無意識に知情意が覚えていて自動的にこの対応を取らずには、いられなかった。溢れそうになる涙を必死に堪えて、両手で口を覆い隠しながら懸命に彼からの謝罪を阻止しながらも、怯え慄く。そんな彼女の心情まで知る事のない空哉は、心配そうな顔を見せながら確認する。
「ホントに?」
コクコクと無言のまま、必死に首肯する纏依。
「許してくれる?」
少しずつ距離を縮めてくる空哉へ、更に纏依は首肯を懸命と繰り返しながら後退る。
「じゃあ逃げないで!」
少し強めに言われて纏依は、思わずビクリと体を弾ませる。その様子を見て空哉は、ふと嘆息吐きながら話し始めた。
「知ってるよ。母さんが原因で纏依ちゃんが、僕にまで恐れを成しているのは。でも、安心してくれないか。僕は母さんとは違うよ。だって、ずっと好きだったから。従兄妹とか、妹抜きに女の子として、纏依ちゃんは僕の理想の女の子になってたから。ただ、再会するのが遅かったけど。もう君には同棲している相手がいる……。分かっているけど、いざこうして目前にすると……気持ちが昂ぶっちゃって。恋って、そういうものだろう?」
「――こ、い……?」
思いもよらなかった彼からの告白に、愕然とする纏依。
「そうだよ纏依ちゃん。僕は今、はっきり分かった。ただの憧れから、恋に変わった事を。だからこそ相手がいると思うと……妬けてくる」
「ク……ぉ兄ちゃ……」
ふと優しい微笑みを投げ掛けてくる空哉に、纏依は声を震わせるしか出来ずにいた。彼女の反応に軽く苦笑して俯くと空哉は、一呼吸置いて潔く顔を上げ気持ちを切り替える様にして言った。
「ごめん! 仕事の取材のつもりだったけど、この調子じゃ今日はもう無理だね! ひとまずこれで引き上げて、頭を冷やして出直してくるよ。ねぇ、纏依ちゃん。明日も会って、くれるよね……?」
「う、うん……」
流れのままに承諾したものの、最早纏依の理性は低下し半ば放心状態になっていた。だが空哉は構う事無く、そのまま彼女の答えを受諾する。
「良かった。じゃあまた明日電話する。それじゃあね」
空哉は優しく声を掛けると立ち上がり、玄関に向かってドアの開閉音と共にそのまま出て行った。静けさに包まれる室内。閉めている窓越しから、ガラスを通して微かに流れ聞こえる車のエンジン音。その音すらが、今の彼女にはザワザワと押し寄せる波の渦に感じられて纏依の混乱する頭を、すっかり訳が分からなくしていた。そして自分の腕を掻き合わせて抱き締めると、小さく震えて泣いた。
「助けて――レグルス……」
勿論彼女のこの心の声は、遠く離れた国立図書館長室にいるレグルスにも、きちんと届いていた。
――バキリッ!!
彼の片手にあるボールペンが、枯れ枝の様に呆気なく折れた……。
そんな中纏依のマンションの下では、空哉がどういう訳かユリアンに捉まっていた。
「君の目的は何だ」
「……何がですか?」
ユリアンの威圧的な言葉を、悠然とした態度に笑顔で小首を傾げて見せる空哉。二人は向かい合う形で相対している。
「これ以上ミス在里を悲しませないでくれ」
「何のことです?」
キョトンとした顔をしながら空哉は、片足の爪先を交差させる姿勢で立ちながら、ゆっくりとユリアンの周囲を見回している。そんな彼の様子を、賺さずユリアンは指摘した。
「……どうだね? どう視える。ん? 怒りの色と? それから後は? ちなみに怒りの時の色は、赤く視えるんだろう? 他には? 更に何か、他の人間とは違った色が、視えやしないかい? しかもそれなりに強大な、な」
ユリアンの言葉に、空哉は顔を顰める。構わず冷静な口調で言葉を続けるユリアン。
「普段は穏和な性格で通しているものだからね。そういう人間の色は確か、グリーンに視えるんだったかな?」
「――さっきからあんた、一体何を言っているんだ?」
「おや。白を切り通すつもりかね。――ああ、そうか。君の若さからするとまだ未熟だから見破れないのも、無理ないのかも知れないな。我々くらいに人生経験を重ねてくると、自分の力を普段は収縮させて表に漏れ出さないよう、コントロール出来るようになるんだよ。そうそう。能力者の場合その色が、ゴールドに輝いて視えるらしいが、すまなかったね。この通り、今言ったように力を内側に収縮させてるから分からなかっただろう」
穏やかな彼の口から次々と零れ出る信じられない言葉に、空哉はあからさまに驚愕を露にユリアンを凝視する。
「――知っているんだよ私は。君も超能力者である事を」
そう静かながらも威圧的に言うとユリアンは、クッと顎を引いた。瞬間、空哉の目に映ったものは。ユリアンの背後から大きく揺らめき湧き上がる、黄金色のオーラの炎だった。そう。彼は解放して視せたのだ。己が持ち得る能力エネルギーを。そのオーラエネルギーの大きさを確認するや、絶句しながら後退る空哉。そして舌打ちすると、その場から逃げ去ろうとユリアンに背を向けた。その彼の背後に向かってユリアンは、鋭い一言を放つ。
「東城 空哉は今後、在里 纏依に関わらない!」
その言葉を聴き受けるや否や、空哉の体は一瞬ビクリと弾けた。ユリアンからの、予知実行宣告だ。だがこの能力はいつ第三者から破られてもおかしくない、その場凌ぎの技でしかなかった。破られればその呪術の反動が痛みとなって、ユリアン本人へと跳ね返ってくる。しかし今のユリアンが咄嗟に出来る、唯一の纏依を守る行動はこの技しかなかった。
よって、空哉はふと何かが抜け落ちたように忘失的な表情を浮かべると、理解不能な様子で小首を傾げながら何事も無いかの如く、そのまま歩き去ってしまった。
その間、あやめは纏依のいる部屋へと一足先に上がっていた。ユリアンは、昨夜の予知夢で今後の行方を視た。その時に彼の正体も知ったのだ。空哉も自分達と同じ、超能力者である事を……。
今回はユリアンに挑発役を任せてみました♪
…が、レグルスの片手ボールペン折り…後々何が起きるか恐怖さが滲み出てますねw。何せ新たに婚約者へ迎えた纏依の唇を、従兄とは言え空哉に奪われてしまったのを、彼女の心のSOSで知ってしまったのですからww。




