5:魔王と魔女
大きくて、広くて、温かい。馥郁なアロマの香り。
スッポリと収まって、このまるで無限の宇宙空間を思わせる場所に、きっと今の自分はすっかり隠れきってしまっているのだろう。
トクン。小さく鼓動が鳴る。落ち着いていて、穏やかな鼓動。こんなに安心感を覚えたのは、一体いつ以来だろう。
トクン、トクン。今度は自分のものとは違う心音が聞こえてくる。静かで、心休まる鼓動だ。自分の中の、何かがゆっくりと溶け始めていく感覚を覚える。
ずっと、ずっと、硬くて冷たい、分厚い壁。ずっとこの先へと行って見たかった。憧れだった。だが先には進められないままだった。
この分厚くて硬い、冷たい壁がずっと外界を塞いでいたから。きっとこの先には、とても眩しくて幸せな、優しい光の世界が広がっているに違いないのに……。
纏依はただ黙って、レグルスの胸の中に身を委ねていた。どうしてだろう。まだたった二回しか会っていないのに、この人は私が得られなかったモノを与えてくれる……。
形ではない、忘れていたもの。ずっと欲しかったもの。でも決して手が届かなかったもの。そして、ついには諦めてしまった、何か。
するとレグルスは、更に纏依を抱き締める腕に優しく力を込める。まるでこの小さく壊れてしまいそうな華奢な体を、確かに自分の腕の中にあるのかを確認するように。
そして纏依の栗毛色の髪に頬を寄せると、静かに口唇を当てた。彼女から、秋の香りがした。
お互いの鼓動を確認しあう。一つ心音をお互いに感じる度、その分だけ相手へのバロメーターが増える。しかしその感情が何なのかを二人は知らなかった。
ただ、必要な気がした。お互いに、この相手が。しかもこの人物でなければいけない気がしたのだ。自然に、無意識的に。それは、そう。まるで、互いの心が呼び合うように。
魂が ―――――― 呼応し合うかのように ――――――
「スレイグ……」
無意識に纏依は、彼の胸に縋った。
「ずっと、こうしたいと思っていた気がする……」
レグルスも瞑目して、彼女の髪に鼻を埋める。
しかし、先週レグルスは彼女へ剣呑な思いを抱いていた。なのに何故だ。某が最も苦手とする苦悩損壊者であるというのに……。そう。某と同じ、壊れた人生を生きる者……。
実はレグルス自身も、苦悩損壊者だった。しかもその原因が何よりも己が持つその超能力のせいだった。
どれだけこの能力を恨み憎んだか知れない。しかし持って生まれた物は、決して消す事が出来ない。なのでレグルスは自分のこの超能力が大嫌いだった。
そのせいで多くのものを失い、恐れられ、離れて行った。そして傷付き、傷付け、疲れて、いつしか彼はすっかり心を閉ざし、誰も信用しなくなったのだ。だから一人の時間を好んでいた。
……それが、何故今更こんな返って面倒の元凶となる娘に、心惹かれてしまうのであろうか。しかも某よりもずっと若くて幼い……こんな下品な小娘などに。
下手すれば親子くらいの年齢差があるはずだ。まだ彼女の年齢を知らないが。……もしや、ロ、ロリコンの気が某にはあると……。いやいや、そんな事はない。
アンモニア臭い子供などこちらからお断りだ。しかも嘗てはきちんと相応の女性を……。やめておこう。もうずっと昔に過ぎ去った、惨めな若気の至りだ……。
レグルスが思考を切り替えようとした、その時だった。彼女の心音の変化に気付いたのは。少しずつ、纏依の鼓動が早まってくる。彼は目を見開いた。
来る。彼女の思念が。押し寄せてくる。津波の様に ―――― !! 先週はそれからレグルスは逃れた。しかし、今回は心惹かれる想いから、しっかりと纏依の心情を受け止める覚悟を決めた。
……………… ―――――――― ドクン!!!!!!
「―――― っっ!!!!」
レグルスは顔を僅かに歪める。纏依も、彼の足元に立ち崩れた。
「くう……ああ……はぁうぅっ! ぁぁあ! う……っう……っううぅ……!!」
纏依が苦しそうに呻く。それはトラウマによるフラッシュバックだった。先週の時とは違う、激しい情念。レグルスによって刺激を受け、心のパンドラの箱が開いてしまったのだ。
流れ込んでくる、彼女の苦しみ。伝わってくる、彼女の哀しみ。入り込んでくる、彼女の痛み。鬼の様な形相の中年女性。近付いてくる熱せられたパイプ鏝。浴びせられる罵倒。
両親はそれぞれ浮気により離婚し、母方の親戚に育てられた。ただ世話になっていた親戚の叔父や息子の姿を見ただけで、誘惑したと淫乱扱いされ、暴力を振るわれ、嫌がらせを受け、絶食させられる壮絶な虐め。
それによって受けた、永遠に消えない傷跡。それは男を誘惑しないようにという身勝手な理由で、叔母に付けられた通称“魔女の烙印”。
纏依は子供ながらに決意した。自分が女なのがいけないんだと。女らしくしているのがいけないんだと。男と接しただけで淫乱魔女だと罵られる。だから男に極力近付くのを避けるようになった。そして男らしい言動に務めた。そうすれば女として、そういう魔女扱いを受けずに済むようになるから。
両親が浮気をした事により、その娘である纏依までが同じ目で見られ始める。子供として親を求め、女として親を憎んだ。
やがてその陰湿な虐めは学校にも及んだ。女だからと馬鹿にされたくはない。女として、女以上に誇り高い女として生きてやる!!! ――――
気が付くと、足元で蹲って体を小さく丸めて震え怯える、纏依の姿があった。漸く彼女の思念から現実に戻ってきたレグルスは、半ば呆然としながらゆっくりと足元の彼女を見下ろした。
その間、僅か数秒の出来事なのだ。レグルスは、静かに片足を突く。
「……大丈夫かね」
彼はそっと纏依の肩に手を置く。ビクン!! として猫の様にその場を飛び退く纏依。両目からは涙が溢れていた。
「申し訳ない。そなたを怯えさせてしまったようですな」
纏依は、ハァ、ハァ、と息を切らしながらレグルスの黒い双眸を見詰める。そんな彼女の涙に濡れた瞳を、同じくレグルスも逸らす事無く見詰め返した。
「悪い……ちょっとした……あの、なんつーか、情緒不安定、じゃなくて……えっと、その」
纏依は必死に冷静さを取り戻しながら、今の自分の状況に相応しくも誤魔化し切れる言葉を、捜しているようだった。
「構わぬ。もう何も言わずとも良い」
「ごめん……。悪気はねぇんだ……。怒ったか?」
纏依はふと悲しげな表情を見せた。
「誰しも何らかの事情は持ち合わせているものだ。ただそれが強弱な違いなだけで。そんな細かい事でいちいち機嫌を損ねる程某は子供ではない。何も気に致すな」
そしてスックと立ち上がると、窓辺へと立つレグルス。少しの間とはいえ、彼女の過去を垣間見た。と言うより、“見せられた”の方が正しいだろう。
瞬間的なものとは言え、だいたいの予測は付く。……もしや同情でも覚えたか? 否。そんな事であれば限もなく、過去にも数々の同じような人間に出会ってきたのだから、その度に慰めねばならなくなっている筈だ。
同情だと……? そんな生易しいものではない。
人生とは如何に理不尽であるかをたっぷりと味わされ、思い知らされた筈だ。この某の人生に於いて。
この娘は。この、在里 纏依の場合は、同情とかで済むような安いものではない。何せ性別的な生き方すら許されなかったのだから。
いつまでもこちらに背を向けて黙り込んでいるレグルスの様子に、ついには気まずさを覚える纏依。一時は彼の側に近付いては見たものの、その背に伸ばしかけた手を引っ込めて、ふと顔を背けたその時。
「……某は嘗て、“魔王”と呼ばれ忌み嫌われていた時期がある」
レグルスが静かに低い声で言葉を発した。
「故に、家族、友人、近所は勿論、教会からも魔王と罵られ、悪魔祓いを懸けられた程だ。さすがにその時は、悲しみを通り越して呆れて笑いが出ましたがな」
レグルスは相変わらず窓の外を眺めながら、淡々と語る。
「某は、イングランド出身ではあるのだが、最早母国に某の居場所は何処にもない」
「……どうしてだよ。どうして魔王なんて呼ばれる羽目に……」
「……」
纏依の言葉に、沈黙するレグルス。
確かに余りもの不平による激昂から、超能力を暴発させたというのも原因だったが、寧ろあんな自分へ容赦のなかった国に、未練より憎悪しかないからとも言えた。結果、最終的に本当に魔王の称号を残して日本へとやって来た。
彼がその超能力を余す事無く発揮させると、軽く人間の人生を狂わせる事も可能だからだ。人の心や過去を見聞きする能力の最終形態は、相手の意識に入り込む力だ。そうして内側から相手の精神を崩壊させられる。
「まさかその黒尽くめの服装から由来されたとか?」
「……いや。さすがにそれはない」
「何かよく分かんねぇけど、人恋しくは思わないと先週言ったのは、そのせいなのか……?」
「そう努力をしてきた」
「努力?」
「傷付くのを恐れたからだ。恐らく、そなたが今陥った感情に等しく」
「……」
俯く纏依。
「だが本当は、寂しいのやも知れぬ。傷つけられた分だけ。愚かにも人は涙の数だけ、それに執着する。下らぬ事だと、思い知らされながらも……。そなたに何があったかなど、無理に聞き出しはしない。しかしそなたは自分が思っているよりもずっと……美しい。周りの言葉に、過去に惑わされるな」
自分の言葉に、内心自嘲を覚える。一番惑わされている自分が言うのか、と。
「……だったら、どんなにいいだろうな……」
纏依はそう儚げに呟くと、そっと自分の胸元に手を当てた。そしてそっと彼に背を向けると、苦笑しながら言った。
「すまん! 俺のせいで何か空気重くなってきたな! また来週出直すわ! じゃあな!」
そしてドアへと歩き出した途端、パシッとレグルスが纏依の手を掴んだ。
「某はそなたを不要だとは思わぬ」
「……スレイグ……」
レグルスの無表情の中にも見せる真摯な黒い双眸に、纏依は俄かに表情を哀切気味に歪める。
「そなたはどうであった。先程の某からの抱擁にて、何も思われませんでしたかな?」
すると纏依は彼の引き込まれそうな黒い瞳を、切願そうに見詰めてきた。そして悲愴な面持ちでフルフルと頭を振った。
「思ったさ。温かいって。思ったさ。安心感があるなって。思ったさ。スレイグ、あんたが……あ、なたと……」
その長い睫毛の瞳からは、溢れんばかりの涙が溜まっていた。体が小刻みに震え出す。自分の中の女を出すのに、恐怖感があるからだろう。
「それだけ聞けば、もう充分だ……」
レグルスは静かに低い声で優しく囁くと、もう一度、今度はしっかりと纏依をその腕の中に抱き締めた……。
すみませ〜ん。
お取り込み中大変申し訳ないのですが、
……ハリセン騒動はどこに消えたんでしょうか!?ww。