46:淫婦と鬼女の魔女退治
やがてすっかり健康体を取り戻した纏依は、大学が冬休みになって本格的にバイトに入っているあやめがいる自分の画廊で、以前中断されていた絵描きの続きを仕上げる為に個室にこもっていた。
普段お世話になっている画商のおばさんは、芸術を専攻しているあやめの知識に任せて早めの冬休みを取って、いない。なので今この画廊にいるのは奥の個室で仕事中の纏依と、事務所管理兼接客を勤めるあやめの二人だけだった。
仕事中の纏依は、以前乱入してきたレグルスにも吠え掛かったくらいに、邪魔をされるのを嫌った。なのであやめは事務所のソファーにて、暇な時間を少女漫画に読み耽って過ごしていた。ユリアンは母国イングランドでの、ソフトウエア開発事業を継続したまま来日しているのでパソコンさえ手元にあれば、どこにいてでも仕事は可能だ。なので賃借している、この画廊から三軒隣の斜向かいにあるマンスリーの部屋にて、仕事中である。レグルスは図書館長の職務に就いている。
そんな中、この店に来客を知らせるドア開閉ベルが鳴る。
あやめは手にしていた漫画本をソファーの上に伏せると、にこやかな笑顔を湛えながら事務所から出て来て、対応した。
「ようこそいらっしゃいま――あ゛」
あやめは客の姿を認めた途端に、瞬時に笑顔を消滅させて憮然としながら、億劫なる一声を洩らした。
「ふぅん。なかなかオシャレなお店じゃないの。へぇ、こんなタッチの絵を描かれるお嬢さんなのね。ミス在里は」
美しい奏でるように流れるイントネーション。そう。英語の本場である、イングランド英語である。
「いらっしゃいませMrs.ラザーフォード。お買い物なら歓迎します。それ以外ならどうぞお引取りを」
あやめは当たり障りのない口調でその女性客、ユリアンの妹であるクラウディアへと英語で声を掛ける。
「クス。そう邪見なさらないで下さる? 今回は大切なお客様をお連れしましたの。彼女の成長を是非ご覧頂きたくて。彼女、いるんでしょう?」
「……? 在里先生は只今お仕事中で御座います。どうぞ邪魔をなさらぬよう、ご配慮下さいませ」
しかしクラウディアは、あやめの言葉に悠然と冷笑を見せて無視すると、一緒に入ってきた男の通訳者に目配せする。無言で促がされた男は、外に控えているであろう誰かに、日本語で声を掛けた。すると一人の中年日本人女性が入店してきた。
「――ふぅん。ここがあの子のねぇ。ちょっとあなた。あの子はここにいるんでしょう?」
その中年女性はひとしきり店内を見渡すと、あやめへと視線を向けて横柄な態度で開口一番に言いやった。
「……――あなたは!!?」
あやめはその相手を確認するなり、驚愕しながら顔面蒼白にする。そんな彼女の心境など知る由もない女は、怪訝な顔をしながら高慢な口調で答える。
「私はあの娘の伯母になる、五十嵐と言う者です。あの子の育ての親よ。ちょっとあの子を呼び出してもらえるかしら」
一見すると五十代前後といったところか。白髪雑じりを頭部でアップに纏め上げた、中肉中背で鋭く吊り上がった腫れぼったい奥二重の目を、薄情そうにあやめへと向けている。纏依の過去の映像で視た時より老け込んでいるのも手伝って、実物を見ると更にその伯母という女の底悪さが外見から既に滲み出ている。あやめは密かに息を呑むと、事務的口調で対応する。
「申し訳有りません五十嵐様。只今先生は、近日発表の展覧会に向けて製作中で御座います。よって生憎ではありますが、現在追い込み中にて手が離せませんので――」
瞬間、突然弾けた様に癇癪を起こして、ヒステリックな金切り声を荒げる五十嵐。
「いいから黙って呼びなさい!! 御託は要らないのよ!!」
その様子に仰天するとあやめは、ふとクラウディアへ顔を向ける。すると彼女は意地悪そうな笑みを浮かべた。
こんの年増女!! 一体どうやって先輩の血縁関係者を見つけ出したのよ!! しかも誰が御託よこのヒスババア!! よく今まで無事に生きてこれたものだわ。神経の図太さここに極まりね!!
さすがに普段は天然系のあやめでも、最凶中年女二人相手となると毒が溢れてくるようだ。そんな怒りの余り呆然と立ち尽くしている彼女に、クラウディアは構わず辛辣な言葉を頭上から浴びせる。
「ボンヤリしていないで、さっさとお呼びになったら? 感動の再会くらい、させてあげなさいよ」
思わず自分より長身な彼女を睨み上げると、あやめは悔しそうに歯を食いしばる。
この女、先輩とこのババアの仲を知っているのだろうか!?
あやめはそういぶかしみながら事務所に戻ると、まずはこっそりと携帯電話のワン切りでユリアンに緊急呼び出しの合図を鳴らしてから、ノロノロと固定電話の受話器を取って内線呼び出しをする。二、三回のコールの後、纏依の苛立った不機嫌な返事が応える。
「すみませんお忙しい時に。ちょっとその、面倒な客が来ちゃいまして。――ユーリの妹熟女とそれからその、先輩の伯母である五十嵐という中年女性が……はい。間違いありません。丁重にお断りしようとしたら、早速癇癪起こされました。何だったらこのまま追い返しても私、平気ですけど――え? 大丈夫なんですか!? ……分かりました」
纏依の応対を渋々引き受けてから、鬱屈そうにあやめは受話器を戻し重い溜息を付く。少し間を置いてから、奥から力強い足音が近付いてきた。そのリズムに合わせて、ジャラジャラというアクセサリー音も一緒だ。そして彼女はみんなの前に姿を現した。威風堂々と、怯む事無く。その様子を見て五十嵐は、明らかに過去知っている纏依との雰囲気の違いに躊躇いを覚える。
「痴女なの?」
怪訝な顔をして五十嵐は、その一言だけを無愛想に洩らす。
「――お久し振りです。再会の一言目からお言葉を返しますが、いい加減私にその下品な呼び方をするのは、やめて頂きたい。五十嵐さん。この私を嫌悪されていた方が、一体どのようなご用件で今回、遠方はるばる訪ねてこられたのでしょう」
纏依は五十嵐の目前に立ち塞がると、自分より小柄な伯母を見下げ至って冷静に対応する。あやめはハラハラしながら、その遣り取りを見届ける。一方クラウディアは他人事の様に、画廊の中央にある椅子に悠然と腰を下ろしその三分の二も剥き出されている足を組んでから、その経緯を蔑視している。
五十嵐は、今まで自分が知っている姪とは明らかな違いに瞠目しながらも、そこは流石に腐った性根で今まで生き延びただけあって、すぐに憫笑しながら下劣な態度を露にした。
「暫く見ない内に、随分男みたいになっちゃって。本当なら褒めてあげたいところだけど、どうもそうはいきそうにないわね。やっぱり所詮はあの両親にしてこの娘ありの、アバズレだったわ」
「まだそのような戯言を言っているのですか。私はあなたにそう言われる様な行為など、一切身に覚えはありませんがね。昔の腹癒せに来られたのであれば、お引取り願いたい。正直私は、あなたを歓迎致しかねますのでお互い縁を切りあった者同士、最早顔を合わせる義理はない筈です」
冷静な口調ながらも纏依は、鬱積した面持ちを向ける。しかし五十嵐は構わず、持ち前の癇癪を起こしながら応酬してきた。
「澄ました顔してすっ呆けて気取るんじゃないよ!! あんたが今回仕出かした事が原因で、こっちにまで迷惑かけられてこうしてわざわざ遠くから、会いたくもないあんたを訪ねて来たんじゃないの!! 聞いてるのよ!! あんたがこちらにいらっしゃる御夫人の、旦那様を誘惑して愛人の座に納まっている事を!!」
そう叫ぶなり五十嵐は、クラウディアへと掌で指し示す。纏依はほとほとそんな伯母の態度に辟易しつつ、溜息交じりで口にする。
「何を言っているのか、全く持って理解出来ませんね」
するとクラウディアは、傍にいる通訳者に小さく耳打ちする。それを見たあやめが顔を顰める。英語が理解出来る彼女から、先に口出しされるのを避けていると推測出来たからだ。男の通訳者は、クラウディアの言葉を代弁する。
「彼女とMr.スレイグは夫婦の仲であるのを、在里さんがその旦那様である彼に手を出したせいで離婚の危機に陥り、大変な迷惑を掛けられて苦痛なる思いに打ちひしがれている、との事です」
「――何だと!?」
それを聞くなり纏依は、驚愕を露にあやめへと顔を向ける。勿論あやめは必死で顔を横に振って否定した。
「馬鹿を言われては困る! 私が彼と、Mr.スレイグと出会った時から彼は一人身で、過去にも婚姻経歴など一切ない独身です! だから私は彼とお付き合いさせて頂いているんだ!!」
「じゃあどうしてこちらのご夫人が、私に連絡してきたわけ!? 関係者だからでしょうが!! やっぱり所詮は淫乱魔女だったって事ね! 魔女の烙印だけでは事足りず、よくもまぁその醜い焼印を曝け出して、いけしゃあしゃあと両親と似た生き方が――」
「五十嵐さん!!!!」
とうとう纏依はそれ以上の暴言に耐え切れず、感情を剥き出しに激昂した。
「な、何よ生意気に。この私に逆らおうって言うの!!? 淫乱アバズレ魔女の分際で――」
「いい加減黙りやがれこのクソババアが!! いつまでもいつまでもうるせえんだよ!! よくも今までてめぇで曝け出している恥も知らずに平然と、そんな下品な言葉を人前で吹聴し続けられたな!! てめぇがどれだけ見苦しく卑劣な人間であるのか、まだ気付かねぇのか!! 今尚学習もせずにぬけぬけと人を、軽々しく短絡的白痴思考で侮辱しやがって!! いいんだぜ。児童虐待及び傷害で訴えたってよぉ!! 訳の分からんデマに振り回されて、てめぇの馬鹿さ加減をひけらかしている羞恥を、自覚しやがれ!! 俺はもう!! 昔の俺じゃねぇ!! ああ、そうだとも!! あんたのお蔭でなぁ!! これ以上また何か言い掛かりを付けようってんなら、いいだろう。――相手になってやらぁ!!!!」
静まり返る店内。他には客がいないものの、この纏依の豹変振りにはクラウディアが寧ろ驚愕した。日本語だったので何を言ったか分からないが、恫喝的であることくらいは想像が付く。
おかしいわ。探偵に依頼して調査した限り、この娘の恐怖の対象はこの伯母であるはずなのに……。
しかしいくら探偵に依頼したところで、今現在の纏依が持つ内なる心情までは、分からないものだ。滅多にこんな暴力的な態度は、怒りを爆発させない限り見せる事がないのだから。例え日頃から言動が男性的であろうとも、凶暴な態度を取っている訳ではない。なのでここまで心が鍛えられている事までは、探偵側も把握出来ずにいたのだ。
五十嵐と縁を切った以上、纏依は今尚伯母を恐れ脅える必要はもうないのだ。寧ろ憎悪の対象として逆に、昔の怨恨を堂々とぶつけられるのである。纏依の立場にしてみれば、願ったり叶ったりと言ったところだ。
「よ、よ、よ、くも、育ての親に対して、そんな態度を! あんたのせいでうちの家庭は掻き乱されたのよ! 被害者はこっちの方よ!!」
「あんたの行動に問題があっての事としか、考えられねぇけどなぁ。五十嵐のバァさんよぉ。――おい! そこの通訳!!」
突然纏依の獰猛さ剥き出しの面魂を向けられて、男の通訳者は剣呑な思いを覚え身を硬くする。だが纏依は構わず彼に威光を放ったまま言い放つ。
「そこのご夫人に、ありもしない嘘を吐くとただじゃおかねぇと伝えろ!!」
ところが通訳者よりも早く、あやめが纏依と同じ威勢でクラウディアに吐き捨てた。クラウディアと五十嵐の両者が屈辱そうな顔をする中、店のドアが開いて朱金のウェーブヘアを長く伸ばした中年の異国男性が入店してきた。
「リアン兄さん!!」
予測していなかった実兄の乱入に、動揺を露にするクラウディア。まさかここからすぐ側に、兄が住んでいる事までも知らなければ、まさかあやめが密かに呼び出した事すら気付きもしなかったからだ。一方、五十嵐の方はユリアンが纏依の相手なのかと思いながら彼を凝視する。
「状況はどうなっている。あやめ」
思いがけない綺麗な日本語で、しかも事務員である娘へ声を掛けたのを見て五十嵐は、困惑した。意味が全く理解出来なくなり、言葉を失ったまま必死にそれぞれを見渡す。
「Mrs.ラザーフォードがスレイグ教授の妻で、纏依先輩のせいで離婚の危機に陥っているとのデマを、こちらにいらっしゃる先輩の伯母に当たる五十嵐さんをわざわざ呼び出して、混乱させているところよ」
「デマ? デマですって? しかもご夫人は確かMrs.スレイグだったんでは? どういうことよ。ラザーフォードって?」
あやめの言葉に顔を顰めると、五十嵐はクラウディアの方を見遣る。通訳の男がそれを彼女に伝える。クラウディアは何も答えずに、不愉快な表情を露にした。
一方、“Mrs.スレイグ”の響きに敏感な反応を示した纏依は、彼女がユリアンの妹であるのも忘れて今にも足蹴せんばかりの物凄い形相で、クラウディアを睥睨しているのをあやめが慌てて宥め引き止めている。
ユリアンが丁寧に五十嵐へ状況説明して、クラウディアの立場やレグルスと纏依の仲を伝える。漸く真実を理解した五十嵐は、内から沸き起こる不平不満に怒りを吐き出さずにはいられなかった。
「なんて馬鹿馬鹿しいの!! こんな外人女のわがままに振り回されて、ここまで合わせたくもない顔を拝みに来させられただなんて!! その上挙句の果てに、こんな不愉快極まりない恥を掻かされたなんて冗談じゃない!!」
「私事で迷惑を掛けた事はお詫びしよう。だからもう二度と俺の前に姿を現すな。これは往復分の交通費だ。こいつを受け取って、さっさと俺から取り上げた我が家へ帰れ!」
纏依は内線であやめから、五十嵐が来たと聞かされた時点でアトリエに置いてあった小型金庫から持ち出した、十万円を乱暴に突きつけ嘗ての伯母に掴ませた。正直往復でも十万円は少し多すぎる金額ではあったが、蔑みの意味を含めたかったからだ。五十嵐は屈辱そうにその十万円を引っ手繰ると、プリプリしながら画廊を後にした。
「はん! とんだ使えない女だったわね。少しくらいは役に立つとは思ったんだけど」
クラウディアは英語で、店を出て行った五十嵐の事をそう吐き捨てる。ユリアンは、まだ彼女に仕えるようにして一緒にいる男の通訳者を、帰るように促がして店から追い出した。こうしてその場には、纏依にあやめ、ユリアンとクラウディアの四人が残された。
漸く騒がしく嫌悪と怨恨を抱く五十嵐が姿を消した事で、纏依は大きな息を吐きながら半ばよろめく様にして、近くの椅子にへたり込む。こんな状況では最早、とても絵の続きも出来そうにない。そう内心思う纏依を気にして、あやめが小さいサイズのペットボトルに入った水を持って来て、纏依に差し出す。
「それにしても随分と早い、お出ましじゃない? リアン兄さんったら。まさに女の危機に颯爽と現れる、勇敢なる騎士様ってところかしら」
クラウディアは皮肉を込めると、ユリアンの背後から嘲笑する。しかし次の瞬間、振り返ったユリアンは憤怒の形相でそんな妹に向けて、ビンタを張っていた。
普段穏和なユリアンですが、とうとう妹の行動に怒りを露にしました。本来は家族思いのある優しい男だけど、妹のやり方はやはり家族以前に人として許せないでしょう。でも現実、実際にあったりするんだろうか? ドラマみたいに(苦笑)。