40:怒れる魔王と魔女の恭順
「Chris!!」
「Oh. Lien older brother. Why such complexion(あら。リアン兄さん。どうしたのそんな血相を変えて)」
あやめと共に国立図書館に駆けつけたユリアンは、図書館前にあるベンチに悠然と座っているクラウディアを見付けると、呆れ果てながらも不愉快そうに大股で彼女へと歩み寄る。そんな兄との久し振りの再会にも関わらず、関心なさそうにクラウディアは平然と対応する。
その妹の態度に不機嫌そうにユリアンは目前に仁王立ちすると、憮然とした表情で腕を組んで彼女を見下した。
「After all were you in this library? About several. Here! ?(やっぱりこの図書館にいたか。一体何をしてるんだここで!?)」
「I wait for Mr. スレイグ to come for closing. Because it was declined when I said that I wanted to see you once again. Really. I am very nihilistic to ignore the woman.Woman’s feelings more strongly catch fire.(閉館時をねらってミスタースレイグが出てくるのを待ち構えてるのよ。もう一度面会を要求したら今度は断られちゃったものだから。全く。女をあしらうなんて大したニヒルさだわ。俄然女魂に火が点いちゃう)」
クラウディアは何の恥じらいも躊躇いも無く、高慢に言ってのけるとその素肌を太腿まで露出した足を、優雅に組み直して目前に立ち塞がる兄を足でさり気に追い払う。
ユリアンの斜め後ろに立っていたあやめは、そんな自分より遥かに年上のクラウディアの様子を冷静に見ていて、サラリと素直な気持ちを声に出す。
「四十二歳の熟女でも、気合い満々なんですね」
まだ二十歳の身空のあやめに言われて、ユリアンは渋々首肯しながら日本語で答える。
「まぁ、そうだな。同じ四十二歳のレグルスがミス在里と、余裕で付き合えるし私もまた然りだ」
ユリアンに至っては四つも年上の四十六歳で、二十六歳もの年の差があるあやめと付き合っているのだから。
「でも、男はともかく女の四十二歳ってきつくないですか? おばさんですよ?」
「……」
あやめの悪意の無い素直な感想に、ユリアンも無言のまま顔を引き攣らせて頷かざるを得なかった。そんな妹の兄である事が妙に恥ずかしくなってくる。
別に年増だとか熟女だとかおばさんだから気持ち悪いと言う訳ではない。彼女達には若い女には無い濃縮された魅力があるものだ。それを老けているだけを理由に馬鹿にするようでは、余りにも安易で短絡的過ぎると言うものである。若さだけでは持ち得ない素晴らしさを熟女の方々は持たれている。
しかしこの事をどれだけ若い女に議論したとて、経験の無い無知な内は何を言っても通用しないだろう。若さこそが武器だと言う浅はかな意識しか持たないのが、若い証拠なのだから。
要は、いい年齢になってまで手当たり次第考えも無くただの淫乱な性欲だけで行動する事に、問題が生じてくるのである。そういう女はどの年齢から見てもやはりきついものがあるだろうし、見苦しくでしかない。老婆になってまでがっついているのは、不気味で気色が悪いものだ。
淑やかに慎ましく、愛する男一人のみに身を委ねる分ではいくつであろうが何ら問題もなく寧ろ、美しい理想の女の形態である。
そんな事を言われている事も露知らず、クラウディアは顔を顰めてあやめを蔑視しながら訊ねた。
「Lien An older brother. Who is this girl?(リアン兄さん。この女の子はどなた?)」
「Oh, this girl……(えっと、この子は……)」
思わず戸惑い動揺するユリアン。少しだけ咳払いをして空気を誤魔化そうとしながら、チラリと背後のあやめに視線をやる。するとユリアンの視線の意味を理解したあやめは、ズイと一歩前へと進み出ると威風堂々と言い放った。
「Nice to meet you. Mrs. クラウディア・ラザーフォード. I heard circumstances from Urien of the older brother. I say Ayame Hosino. I keep company with Urien as a lover.(初めまして。クラウディア・ラザーフォード夫人。お兄さんのユリアンさんから事情は聞いております。私、星野 あやめと言いまして、ユリアンさんとはお付き合いさせて頂いています)」
あやめの流暢な英語を聞いて、クラウディアは目を剥いてユリアンを見上げる。そして口元を引き攣らせると、滑稽そうに声を引き攣らせて言った。
「――Oh. A Lien older brother. I catch this young girl and am prosperous.(――まぁ。リアン兄さんったら。こんな若い子を捉まえてお盛んなこと)」
そんな妹の軽蔑さを含んだような嫌味に、ユリアンはフンと鼻であしらうと変わらず英語使用のまま言い返す。
「いいだろう独身なんだから。少なくともお前がしている事よりかずっとマシだと思うがな」
すると賺さずあやめも負けじと割り込んできた。
「そうですよ。あなたみたいな人がお兄さんを責める権利も義務も、この際無いですよ。だいたい家庭持ちで四十過ぎたもういい年した女性が落ち着き無く、手当たり次第にお盛んである事の方がよっぽど軽蔑に値します。スレイグ教授に手を出さないでもらえませんか? 私はあの方の教え子の内ではありますけど、それ以前に私の大切な親友のとてもかけがえの無い最愛なる男性でもあるんです」
「……まぁこの子ったら。大人の女の良さすらまだ分からない子供が生意気ね。大したものだわリアン兄さん。親友同士でそれぞれの彼女までがまた親友同士だなんて、何だかいい年した男がそこまでして馴れ合ってるなんて、気持ち悪いわね」
何も好きで彼女まで親友同士を選んだわけではない。たまたま偶然にも共感呼応異性が身近にいただけである。こればかりは思考意識に関係なく逆らえないのだから、仕方が無い。半ば強制的に惹かれ合うようになっている。
「だったらこの件から手を引いて、さっさとイングランドに帰れ。クリス」
いつもなら穏やかな表情のユリアンだが、このトラブルメーカーの妹の今回の行動にはさすがに気分を悪くしたらしい。珍しく冷酷無比な表情で彼女を、その碧眼に鋭利な光を宿して見下す。本来なら少しトーンの高めな声も、いつに無く低く冷ややかで怒りを含んでいる。
ユーリでもこんな態度見せるんだと、少しあやめは横でチラ見しながら密かに思う。しかし一方の妹はこんな兄の態度にも慣れているようで、怯むどころか余計に挑発を仕掛ける。
「冗談じゃないわ。こんな侮辱を受けて、おめおめと引き下がれるものですか。見てらっしゃい。お嬢ちゃん。あなたのその大切な親友とやらって彼女を、この大人の魅力でこてんぱんにしてやるわ。大人の女の恐ろしさを、たっぷり味合わせてやるんだから」
クラウディアは兄に向かって否定すると今度は、あやめに向かってゆっくりその豊満な胸の上半身を前のめりにして、顔全体に己の思いの丈をたっぷりと表しながらゆっくりとした口調で、大人気なく脅迫する。
しかしあやめも負けてはいない。そんな異国の尚且つ長身な年上女に果敢にも、悠然と達者な英語を使いこなしながら反抗する。
「そうはいきません! そこに辿り着く前に、私が相手です! いいよね? ユーリ! 私負けないよ!!」
「いや、まぁ、ちょっと何つぅか……」
――とんでもない事になってきた……。
ユリアンは自分の目の前で繰り広げられている妹VS彼女、もしくは小姑VS幼な妻、的な争いが勃発し始めて、互いに火花を散らして睨みあっている二人に思わず、辟易した気持ちで深々と溜息を吐いた。
「とりあえず今日は戻れ。どこのホテルにチェックインしてるんだ。送って行くから車に乗れ」
呆れながらそうクラウディアに投げやりにユリアンは声を掛ける。すると目敏く彼女はキッと兄を憤怒の形相で睥睨すると、口答えして逆らう。
「いくら兄でも人の恋路を邪魔するなんて、邪道だわ!!」
途端、ついにユリアンが声を荒げた。
「何が人の恋路だ! 寧ろその人の恋路を邪魔しようとしてるのはお前だろう!! そしてお前の場合は恋なんて綺麗なもんじゃなく、ただの男遊びだろうが!! いいから来い! このバカ妹!!」
こうしてクラウディアは強制的にユリアンとあやめから車内に拉致られると、そのまま強引に連れ去られてしまった。
まるで嵐が去ったような静けさが戻る中、ユリアンから電話連絡を受けてずっと影で様子を伺っていたレグルスが、深々と重苦しい溜息を一つ吐きながらのそりとゆっくり外へと出て来た。
そして暫く口に手を当てたまま黙考していたレグルスだったが、やがてギロリとその闇色の鋭い双眸で宙を睨むや、途端に弾けるように足早で駐車場へと歩き出し自分の車に乗り込み、勢い良くエンジンを掛けた。
ガンゴンガンゴンガンガン!! ――ドドドドドン!! ガガガガガン!!!
「じゃあがましゃあーーー!! アホか!! 頭イカれてんじゃねぇのか!? 一体どこのどいつ――が……」
猛り狂ったような勢いのドアのノック音に、血管浮き彫りにして怒り沸騰の様子の纏依が罵声と共に、画廊のプライベートルームのドアを勢い良く引き開けてから、黙り込んだ。
自分の顔の高さにある、目前を塞ぐ真っ黒い壁。今やそれだけですぐにそれが何か、理解できる。ゆっくりと顔を上げていくと、そこには物凄く不機嫌そうなレグルスが冷ややかに、纏依を見下している顔があった。土気色の肌をしているだけに、その表情は全身黒一色の容貌が手伝って余計に恐怖感を煽る。
「え? 何? 何でそんなに怒ってんの?」
纏依は顔と声を引き攣らせながら、囁くように尋ねる。しかしレグルスは無言のままズンズンと中に突き進んでくるや、バターン!! と乱暴にドアを後ろ手で閉める。俄かに彼の全貌からどす黒いオーラが立ち上がっているように視えて、さすがの纏依も心なしか殺意を感じた。
事務所にいるにも関わらず、この奥行きのある店内でここまで響き渡るど派手な騒音に、画商のおばさんはのんびりお茶を啜りながら呟く。
「個展前の在里先生の気の荒さは相変わらずねぇ。大丈夫かしら。今来たお客様」
そうしてしがない一日の夕刻を、奥様向けテレビ番組を楽しみながら暇を潰していた。しかし、画商のおばさんのレグルスへの心配を他所に、寧ろ大丈夫ではなかったのはその当の纏依側だった。
「せめて一言、携帯の電源を切るなら切ると、そして場所を移動するなら移動すると、それを伝える連絡が何故そなたは出来んのだ……」
地獄の底から轟くような、静かで威圧的な重低音の声。まるで地獄から手下の悪魔を召喚する、呪文にも聞こえる。
「だだだ、だって、絵に集中したかったし、ごごご、五時の閉館までレグルスも、別に連絡して来ないだろうと思って……ってか、どうして今日に限って早いんだよ? まだ五時前じゃないか……」
纏依は怒りの矛先を向けてくるレグルスに、ジワリジワリと詰め寄られてついに行き場を失い、そこにあったベッドにペタンとへたり込む。動揺して心臓が早鐘を打つ。
しかし実はこの彼女の行為は、レグルスと出合う前からの習慣性になっているもので、今回も無意識の内にいつも通りの行動をしただけだったが、今やもう纏依は一人ではなくこうして身を案じる相手への気遣いを忘れていた。と言うよりも、慣れていなくて気付かなかったのだ。
「此度は思いもよらぬ騒動が、そなたと別れた後に生じましてな……。ユリアンとそなたのご友人でもある彼女、そして某でそなたに何度も連絡をし、マンションも訪ねた。それをそなた……呑気にそのような悠長な心構えで作業をしていたとは……。これではいざとなっても手遅れですな。今回はユリアン達が直前で防いでくれたから、良かったものを……」
そう相変わらず静かな口調ながらも威圧的に言いながら、レグルスは足元のベッドでへたり込む纏依を、今にも蹂躙せんばかりの迫力で見下してくる。
それを聞いて驚きを露にする纏依。何せユリアンとあやめまでが動くほどの騒ぎだったと知れば、混乱せずにはいられない。今回の自分の取った無意識ながらも軽率な行動に、改めて反省を覚えると共に不安げに口を開く。
「な、何かあったのか? だったらどうしてレグお得意のテレパシーや意識侵入で知らせてくれなか……」
「そなたがあまりにも強烈に絵描きへ意識を没頭させていたお蔭で、それが防護壁になって超能力も跳ね返されたのだ! 腹ただしい!」
「キャウ!」
珍しく声を荒げたレグルスに、思わず纏依は驚きの余り声を上げてビクンと体を弾ませる。そんな彼女の手を乱暴に掴むレグルス。それに恐怖を覚えた纏依は、小さく体を縮み込みながら謝罪の弁を述べる。
「ごめんなさい! ごめんなさい! だって今までの習慣でつい! まさか何か騒ぎになってるなんて思わなかったし、だから! お願い! 殴らないで、殴らないで……!!」
纏依から幼い頃に叔母に与えられていた恐怖心のトラウマが蘇り、その心境に染め上げられた彼女は一瞬、子供の頃の精神状態に退化していた。その思念は容赦なくレグルスに流れ込んでくる。そんな纏依をレグルスは、突然力一杯抱き締めてきた。
「う、ふぅ……! レ、グル、ス……! く、苦し――!」
レグルスは手を離すと、纏依は一瞬力なく倒れそうになる上半身を、サッと片手でレグルスが支える。
「殴ったりなど致さぬ。殴るなど……!」
そう声を絞り出すように言うとレグルスは、改めて今度は優しく纏依をその広い胸の中に包み込んだ。
「今の某の心は、そなたが可愛さ余って憎さ百倍なる気持ちだ。逢いたい時にすぐに逢えない気持ちの焦り、そなたには分かるか。某はずっと、こうしてそなたを見つけ出すまでその感情に、支配されていたのだ。――頼むから、もう二度とこのような真似をしないでくれ。心に毒だ……!」
「はい……ごめんなさい……」
レグルスの不安と心配の感情が纏依の中に流れ込んできて、改めて彼に対する申し訳なさに自分の行動を心の中で戒め、反省する。
「愛してる纏依。某はそなただけの男だ。纏依。愛してる――」
「ねぇレグルス。どうしたの? 何があったの? ――んっ」
それを遮るように、彼から口唇を奪われる纏依。
深くて激しい、情熱的なキスの嵐。
纏依は一瞬目が回りそうになって、思わず体に力が入る。意味が分からないだけに、混乱と怯えが入り混じる。
「怯える勿れ、纏依。そなたへの某の愛欲が暴走しそうなだけだ……。すまぬ。今何とか、落ち着かせている。纏依、今宵は寝かせぬぞ。音信普通になった罰だ。朝まで某の腕の中で、懺悔致せ……」
低い声を色っぽく湿らせながら、レグルスは熱く纏依の耳元で囁くと、軽く彼女の耳朶を甘噛みした。
「アッ――! そんな……壊れちゃうよ私……」
纏依はピクンと小さく体を弾ませると、声をトロケさせる。
「一層、共に壊れてしまおうか。永遠に離れられぬよう、絡み合って……」
「うん。レグ……愛してるよ。私も誰よりもレグを愛してる。ずっと一緒にいてくれる?」
すると体を離してレグルスは、纏依の頬に優しく手を当てて彼女の目を真っ直ぐに見詰めた。
「ああ。約束だ」
「約束よ。ホントに――」
改めて愛の言葉を交わすと、今度は労わるような優しい愛情深い口づけをレグルスは纏依に与え、そうしていつまでもキスを繰り返すのだった。
「ふぅ~ん。そう。大学の教授もしてるのね。ミスタースレイグ。――逃がさないわよ」
クラウディアはチェックインしているホテルの部屋に、ユリアンとあやめに放り込まれてからは改めてあやめが口を滑らせた、“教授”の言葉を思い返して不敵に微笑むと窓の外の行き交う車を、冷たく見下して携帯電話を耳に当てた。
「――もしもし、あなた? ――ええ、日本よ。今相手の男と接触を試みてるところ。今回はなかなか相手は手強いわ。しかも親友だけに兄さんからも邪魔されるし。その分成功したら最高の土産話になるわよきっと。その時は是非一緒にベッドの中で祝杯を挙げて盛り上がりましょう、あなた。今回はひょっとしたら、最高のプレイネタになるかもよ。――ええ、愛してるわあなた。クスクス……」
クラウディアは、愉快そうに自分の夫と電話で連絡し情報交換をするのだった。