4:地獄を呼ぶ国立図書館
一週間後の水曜日。
すっかり痛めた足首も完治した纏依は、今まで感じた事のないどこか無意識な期待感に胸躍らせながら、珍しく上機嫌で図書館に入館した。
そして、本を返却しながら普段滅多に人に見せる事のない笑顔で、真っ先に彼女が行った事はと言うと。
「あのさ〜、ここの不気味な黒尽くめの館長さんなんだけど、アレここのイメージを低下させてるんだと思うんだよね。もう少し来館客を気遣うように伝えておいてくれる? それとさ〜、外人なのに何で日本の国立図書館の館長をしてる訳? どんだけ凄くて偉いのかは知んないけどさ〜、あれクビにした方がいいよ。そう伝えておいてくれる? って言うか、マジ迷惑だって事も伝えておいてくれる? これ、ちゃんとしたクレーム、だから。ク・レ・エ・ム! じゃ、今すぐ宜しく!!」
にこやかに悪意満々の笑顔でベラベラとカウンターの職員に並べ立てると、その脇にあるパソコンスペースへと纏依は足を向けた。
職員はというと、顔面蒼白になってたじろいでいた。あの容貌恐ろしい館長相手に、クレームを言ってきた人間が現れた! カウンター内は騒然となり、慌て戸惑い、固唾を呑む。そしてついには数人から背中を小突かれた、一人の若い男の職員が手を震わせながら内線に手を掛ける。
そんな事も露知らず、纏依はパソコンで館内の本の検索を行い始めていた。
「あ、か、館長でいらっしゃいますか。あのですね、その、カクカクシカジカでして、何と言いますか、つまり、ボニョボニョ、ゴニョゴニョな訳でして……はい……す、すみません!!」
別にその職員は何も悪くはないのに、声を震わせ汗ビッショリになりながら、頭を必死でペコペコ下げていた。
やがて副館長も奥から姿を現して何事かと、もうこの世の終わりとばかりに騒然さは更に輪を増して悪化していた。そんな時。
この静かな館内にバターン!! という、派手にドアを叩き開ける音が響き渡る。それに合わせて職員及び来館客達まで一緒になって、ビクーン!! と飛び上がる。
ただ一人だけ、纏依が顔を顰めて 「うるせぇな! 静かにしろよ!」 と文句を吐いた。バッと一斉に職員達が脇のパソコンの前に座る彼女へと、目を剥きながら顔を向ける。
そしてそれはやって来た。……ヵッヵツカツカツカツカ!! 職員達にとってまさに恐怖の地獄からの足音が迫ってくるのである。
黒々と濡れたような肩までの長さの髪を心なしか若干乱して、真っ黒なサテンコートの光沢を放ちながら、土色の肌をした無表情の巨大な図体が迫り来る。
職員達は手と手を取り合い、固く目を閉じた。纏依はカウンターへ背を向けて、パソコン画面をポヘッと見遣っている。手元のマウスをクルクル動かしながら。
ツカツカツカツカ!! ピタリ。……シーン……。静まり返る館内。空気が凍り付いている。そんな中で呑気に欠伸をする人間が一人。カウンターに背を向けたままの彼女は、まだ状況を何も理解していないようだった。
「……某に難癖を付けてきたという来館客は、どこにおいでですかな?」
相変わらず低くて渋い、静かな抑揚のないまるで地獄の底から微かに轟くような声で、全身真っ黒な大男は同じく真っ黒な双眸を冷ややかに向けて、職員に尋ねる。
「あ、あ、あちらに……」
一人の職員が震える手で、纏依の背中を指す。また別の職員は大急ぎでパソコンでピックアップした会員名簿から、まるで犯人を警察に売り渡す如くな勢いで、彼女の必要情報が明記された画面を不機嫌そうな大男に見せる。
「……」
彼はその画面に表示された名を冷ややかに見下す。“在里 纏依”とある。彼が見たのはそこだけだった。続いてこちらに相変わらず背を向けたままの、五メートル先程にいる彼女を、ギロリと睥睨した。
仮にも先週の件で、彼は極力彼女とは疎遠しておきたかったからだ。それなのに彼女はそんな彼の気持ちを知らないせいもあり、まるで嘲笑するかのようにいけしゃあしゃあと彼を呼び出したのだ。
その余りにも恐ろしい彼の形相に、先程内線で事を伝えた若い男の職員は、震え上がって声を上げた。
「ほ、本当に申し訳御座いません!! スレイグ館長!!!」
シン……。静まり返る中、ふと抑揚のない男とも女とも付かない声が響いた。
「……スレイグ……館長……? スレイグ……スレイグか……」
「在里 纏依」
レグルスも負けじと低いながらもはっきりとした声で、彼女の背に向かって言い放つ。途端、クルリと彼女はこちらを向くや否や文句を言う。
「公衆の面前で人の名前をはっきりとフルネームで軽々しく口にするな! ほんっとデリカシーのない館長だな!」
「デリカシー? それをそなたが言うかね。某に要らぬ事を申してきたのはそなただそうですな。随分いい加減で自分よがりな苦情を口に出来たものだ。在里」
そう静かに言いながら、カウンターから“ある物”をそっと手にしながら、ゆっくりと彼女に歩み寄る。彼が背後に隠し持つ“それ”を見た職員達は、更に震え上がる。
「いい加減なもんか。理に叶ってなかったか? スレイグ館長さんよ」
「……フン。これで互いの名が知れましたな」
それを聞いて纏依は少し嫌そうな顔をしてから、再びパソコン画面へと向き直った。
「それで。その苦情とやらを細かくお聞きしましょうかな」
レグルスは自分に背を向けた彼女に、威圧的に言った。その時。クイクイ。
下からコートの裾を引っ張られ、レグルスは眉宇を寄せてその方を見下した。そこには、小さな子供が立っていた。女の子だ。
「ねぇねぇ。おじちゃん。おじちゃんはここのえらい人なの?」
「……然様」
「いつもこんなに真っ黒いお洋服を着ているのぉ?」
「……如何にも」
「こわいから、やめた方がいいよ〜!」
「……」
再び全館が凍りつく中、纏依だけがブフッと吹き出す。
「コラ! ダメよ! 失礼でしょ! すみません! うちの子が……失礼します!!」
母親らしい女性が大急ぎで駆け寄ると、その幼女を抱えて逃げるように館内を後にした。そんな中、顔を下げて忍び笑っている纏依に対して、レグルスは無遠慮に背後に隠し持っていた物でスパアァーーーン!!! と、まるでゴキブリでも叩き殺すようにして彼女の頭を叩いた。
「いったあ!! なーーー!?」
纏依が驚愕を露にして頭に手をやって振り向いた時には、既にレグルスはこちらに背を向け立ち去り始めていた。
そしてカウンターに手にしていた物をポンと置くと、脇目も振らずに大股で立ち止まる事無く、館長室へと戻って行く。
「……ハ、ハリセン!? 何で!? 何でハリセンがここにあんの!? ってか何でハリセンで俺ハタかれたんだ!? 仮にも客だぞコラ! おい! このクソ館長!!」
喚き散らす纏依を無視して、レグルスは階段の方へと姿を消した。まぁ、ハリセンだったので、ド派手な音の割には大した衝撃はないのだが。
シー……ン。再び静まり返る館内。凍りついた顔でみんな一斉に纏依に視線を集中させている。そんな事など全く気にせずに纏依は、少しずつ込み上げてくるボルテージが、沸点に達した。
「スーレーイーグーーーーーゥゥゥッッッ!!!!!」
彼女の咆哮に、職員はビクリとなる。よ、寄りにもよって、あの館長を呼び捨て!?
「この俺の頭をハタきやがっていい度胸じゃねぇか! 今度こそ列記とした苦情だよなぁ!? ああコルァ! 許さんぞ! こういう事はハッキリさせんとなぁ!!」
纏依は椅子を蹴り上げるように立ち上がると、身に付けているシルバーアクセサリーをジャラジャラいわせ、シルバーサテンのロングシャツを翻しながらズカズカとこちらもまた、脇目も振らずに大股で彼の後を追い始めた。
「ちょ! お客様!!」 「おやめになった方が!!」
そんな職員達の嘆きを無視して、纏依は彼が姿を消した階段へと続くドアを叩き開けた。副館長はというと、魂が抜けたように凍り付いていた……。
三階の館長室前に辿り着くと、纏依は無遠慮にそのドアを叩き開けた。
「スレイグ!!」
そう怒鳴って勝ち誇ったような顔をした纏依は、デスクのイスに座っている彼を睥睨した。
彼はこちらに背を向け、窓の外を眺めていたようだったが、何かを感じてゆっくりとこちらへ向いた。彼女から流れ込んでくる、嬉々とした感情。
この娘……言動とは裏腹に、この某に再会した喜びを覚えていると言うのか?
ほとんどの人間からは、彼に対する負の感情しか伝わってはこない。しかし、この娘だけは某に対して無邪気に正の感情を向けてくる……。
「よーくもさっきはこの俺の頭をハタいてくれたな! この謝罪はしーっかりと取ってもらわねぇと」
纏依はゆっくりと、まるで未知なる世界に足を踏み入れるような感覚を覚えながら、室内に足を踏み入れてくる。それに応えるようにレグルスも立ち上がり、無表情のままゆっくりと彼女に歩み寄ると……。
一瞬、纏依は理解不能に陥った。訳が分からなくなり、体が硬直する。何故ならば、気が付くと彼女は彼の腕の中にいたのだから。
レグルスは、無意識の内に自然と纏依を抱き締めていた……。