31:夢魔の父親奮闘記
「あやめ」
一人校門に向かって歩いていた彼女を、背後から呼び止めたのはユリアンだった。
優しい微笑を浮かべながら、ラフな茶色のスーツ姿で悠然と歩み寄ってくる彼の、下ろされている朱金色をした、波が細かい強力なロングウェーブヘアは天然のものらしく、冬の季節風に吹かれて左へと靡いている。
だが右分けにされてある同じく長い前髪は、後ろ髪よりゆるやかなウェーブになっていた。
「一人かい?」
「はい。纏依先輩はスレイグ教授と帰宅するから、いつも帰りは私一人なんですよ。時々、他の友達も一緒の時もあるけど、今日はその子彼氏と一緒だから」
「そうか。私も同じだ。せっかくこうして私が大学へ遊びに来たついでだし、良ければ家まで送ろう」
「え? ホントに!? キャハ! ヤッター! わ~い! 送って送って♪」
ユリアンの親切な言葉に、途端あやめはパッと顔を輝かせて、嬉しそうにピョンピョン飛び跳ねた。
そんな何の疑いも不安も持たず、純粋にユリアンに甘えるあやめを、本当に子供の様に彼も扱いながら彼女を連れ立って、自分の車へと歩き出す。
「クスクス……。相変わらず君は元気で明るいね。君と一緒だと退屈しないからいい。私の、君と同い年の息子はともかく、二十二歳の娘に至っては、すっかりビジネスウーマンに落ち着いてしまってね。向こうでは大学と同時に、職業訓練を兼ねて仕事も両立させるのは普通だからね。もうそっちに勤しんで父親である私の手から、すっかり離れてしまっている」
そう静かな口調で語るユリアンは、後半少し寂然さを漂わせた。
そんな湿っぽさを一気に吹き飛ばすのが、このあやめの明るさだった。
決して空気が読めない意味でのKYではない。敢えて空気を読まない様にするKYとして、暗くなった場を盛り上げようと努力する子なのだ。
「ヤダなぁ! だから私がこうしているんでしょう! ウェルズさん、言ってくれたじゃないですか。日本での娘になってくれって! だから私はウェルズさんの事を、第二の父親として懐いてるんですよ。しかもダンディーだしスマートで格好いいから一緒に歩いても、全然恥ずかしくないし。この際第一の父に格上げしてもいいくらい! 私の実父はダメです。もうくたびれ親父で、臭いしムサイしメタボだし、テレビの前でゴロ寝だし。自慢出来るところ一つもないんだもん。どうせ父親デートするんなら、断然ウェルズさんですよ!」
そう言いながらスキップして前に進み出ると、ヒョイとユリアンに満面の笑みで覗き込んでから、再びピョコンと彼の隣に戻って、一緒に並んで歩き出す。
あやめの外見は纏依より数センチ低い154cmでバランス良い肉付き。
ルーズな極ユルパーマをかけた黒髪をミディアムロングに伸ばして、眉毛の高さに切り揃えられた前髪のスタイルが余計、更に純心さ漂うキュートな女の子らしさを表している。
ついでに言うなら、ユリアンが180cmでスマートながらも引き締まった肉体。
レグルスは189cmの大柄でガッシリとした体付きをしている。
これで全身真っ黒で無愛想なのだから、その威圧感がどれ程強大であるかが、更に想像しやすくなった事と思う。
ちなみに纏依は160cmのスレンダータイプだ。
「クスクス。私の方はそう言って貰えると嬉しいが、実父の方は今のを聞いたら悲しむぞ」
「日本の父娘の関係って、九十五%はそんなもんですよ」
苦笑するユリアンにあやめは平然と言ってのけて、彼の深赤茶のボディーカラーをしたマツダ アテンザの車までやって来ると、二人はそのまま乗り込んだ。
バックミラーには、以前あやめがユリアンの観光案内に付き合った時、彼女が多目に買いすぎたストラップの一つを、軽い気持ちであげたものが飾ってあった。
「あ! ちゃんと飾ってくれてるんですね! 嬉しぃー!! ああ! そうだ! ねぇねぇウェルズさん。ウェルズさんてぇ、私の第二のお父さんになってくれるんでしょ?」
「ああ。君さえ良ければいつでも私の娘として、付き合っていこうと思っているが?」
ユリアンはアテンザを発進させると、駐車場の出口まで進んで道路の車が途切れるのを確認しながら、答える。
「じゃあじゃあー! ウェルズさんの日本での住居も車も、私と“親子として”のファミリー使用にしちゃっても、別に構いませんかぁ?」
「? ああ。別に構わないけど、どうしてだね?」
ユリアンは自動車道を走り出しながら、不思議そうに横目で隣のあやめを見遣る。
するとあやめは満足そうな笑顔で、口に人差し指を当ててから彼に顔を向けて言った。
「エヘへー! それは今からの、お楽しみで~す☆」
「クスクス……。それは期待が高まるね」
そんな無邪気な彼女に、ユリアンも優しく微笑み返した。
こうしてあやめのマンションに彼女を送り届けたユリアンは、無邪気に手を振って見送るあやめをバックミラーで笑顔で見届けると、フゥと大きく一息吐いた。
彼の車内は、あやめがマンションに到着するなり部屋から運び込んできた、ぬいぐるみだのクッションだのシートカバーだので、すっかりガールズ系に染まっていた。
これではまるで、一歩間違えれば恋人同士の彼女が取る行動だが、その辺はまるで気付かない天然さがあやめには既存していた。
あまり車内を装飾しない風趣がある、シンプルなイギリス人のユリアンにとっては、充分困惑に値する状況だった。
「……賑やかになったものだな……」
目に映る車内を彩る装飾品の数々に、思わず口元を引き攣らせながら呟くユリアンだった……。
と、思って帰宅したユリアンは。
「……」
突然の出来事に、言葉が出なかった。
それから四時間後の夜九時。
やたらと忙しなくインターホンが迷惑気味に鳴り響くので、あからさまに不快を露にしながらガチャリとドアを開けると、そこにはあやめが立っていた。
いつもの眩しいまでに明るい彼女の表情が、初めて見せる怒りの色に染まっている。
え? 何だ? 俺何かしたっけか!? いや待て。文句言うだけなら何もわざわざここまで来なくても、携帯電話で済む事だ。思い出せ! 俺はこの子に何をやらかしたってんだ!?
内心身に覚えのない罪悪感に、懸命に頭を働かせながらソロリと声を洩らす。
「……ぇっと……」
「ウェルズさん!!」
「はい!」
あやめの威力に、ユリアンは思わず姿勢を正してしまう。
何せこのユリアン、今でこそ紳士に振舞ってはいるが、予知実行を面白がって使い遊んで今やその代償で、体力を消耗すると吐血してしまうまでに体内細胞を冒してしまうような、イタズラ青年時代を過ごしてきている。
その為、怒られる習慣が身に付いてしまっているところもあった。
彼が子供に慕われてきたのも、そんなどこか子供っぽい点があるのもあった。
嘗て平和だった頃の家庭では、よく子供と揃って妻に叱られたりもしたものだった。
そんな彼を睨み上げると、あやめは言い放った。
「今夜は一緒に飲みましょう!!」
「……え?」
咄嗟の事に固まるユリアンを他所に、あやめは図々しくもズカズカと室内に入って行った。
「え、あの、あやめ? 一体突然どうしたんだ。ここまでは……」
我に返り、慌てて振り返るユリアンが改めて目にしたのは、チューハイだの缶カクテルだのビールだのが、たくさん入ったビニール袋二つも両手に下げている、あやめの姿だった。
勿論チーズだのドライソーセージだのの、おつまみも一緒らしくテーブルを見付けるや否や、その上に袋を引っ繰り返して派手な音と共に、中身をぶちまけてから彼に向き直り答えた。
「歩いて来ました!! どうせ二駅離れているだけですし、頭冷やす為に散歩しようと出てきたら、ここまで来ちゃいました!! 無意識に画廊に足が向いたんだろうけど、もう閉まって中には入れないし、この辺にいるのはユリアンさんだけだし、ヤケ酒の相手になって貰おうと下のコンビニで、買ってきたんです!! 相手してくれますよねぇ!?」
怒り任せにそう意気込む彼女の様子は、最早脅迫に近かった。
そう。このマンスリーマンションの下には、コインランドリーと隣接してコンビニがあった。
あやめが纏依の画廊でバイトする時も、このご近所さんであるコンビニを利用している。
そんな彼女の気迫に気圧され、と言うより室内にブチ撒かれた商品を見ると、もうそれに応じない訳にもいかないだろうと、溜息を吐きつつゆっくりとドアを閉める。
そして改めて怒り沸騰の彼女へゆっくりと歩み寄ると、足元に転がる缶を拾い上げてそれを両手の内で、弄びながらユリアンは静かに訊ねる。
「……一体何があったんだ。そんなに不機嫌な態度は、君には似合わないぞ」
するとそれまでふくれっ面だったあやめが、ふと表情に影を落とした。
「お母さんから電話があったんです」
「ふむ」
「それで、友達である先輩のお店で、バイト始めた事を話したんです。そしたら唐突に今すぐやめろって! ただ黙って勉強だけに集中しろって、言ってきたんです! うちの母、凄く熱心な教育ママってヤツで、私子供の頃からずっと、お母さんが引いたレールの上を走ってきたんです。それが高校生になってから嫌になってきて、大学に入る時親離れを狙って一人暮らしを始めたんです。わざと遠い大学志望して。なのに未だにお母さんの意見を押し付けてきて、もう私成人して大人になったんだから、自分のしたいように生きていきたいのに!! それで纏依先輩のこと、会った事も知りもしないくせして、悪く言ってきてそんな人とは縁を切れって、それが一番許せなくて凄く頭に来て!! でもこんな事、先輩にはとても言えなくて。変な心配や迷惑をかけたくないから。だから、悔しくて、私……。父は全然フォローも何もせず自分の事ばかりだし、私もうこんな両親が嫌なんです……!!」
ここまで一気に語るとあやめは、唇をキュッと噛み締めて俯いた。
それまで手の動きを止めて、黙って聞いていたユリアンは手にしていた缶をゆっくりと、座敷用テーブルの上に置きながら言った。
「そうか。理解の無い両親に怒って、ここまで来たのか。君は優しいんだな。同じく友の為にも、怒れるなんて」
「当然です!! 友達ですよ!? 理解者じゃないですか!! それを悪く言われたりするなんて、絶対に許せない!! 私、纏依先輩との友情の為なら、家族との縁も切れます!!」
あやめはそうして思わず、側にいるユリアンに詰め寄り凄んだ。
そんな彼女に顔を向けると彼は、少しだけ厳しい口調で叱責する。
「そんな事は、思っていても言ってはいけない。ご両親だって家族として、娘として君を大事に思うから、厳しく扱ってしまうのだから。……悪気はないんだ」
ユリアンも嘗ては身に覚えがあった。
妹の未来を守る為に親友で後輩だった、当時は弟の様に可愛がっていたレグルスを裏切り、一生残る心の傷を与えてしまった……。
ただあやめと決定的に違うのは、身を張って親友を守ろうという強い友情。
どうしてあの時、もっと違った対応が出来なかったのだろう。
どうしてあの時、素直にレグルスに頭を下げて頼めなかったのだろう。
どうしてあの時、あのまま傷付けたままの彼を見捨ててしまったのだろう。
簡単な事だ。
自分に疚しかったからだ。
不利な頼み事で頭を下げるのに、抵抗があったからだ。
借りを作り、こっちが下になる気分になるのが嫌だったから……。
そんな最低な自分を、何だかんだで受け入れてくれたレグルス。
あいつのそういった思い遣りは、あの頃と全く変わっていなかった。
ただ、それを表現するのが不器用になってしまっただけで。
だからこそ余計に、お前に申し訳なく、思う……。
ユリアンは密かにそう思いながら、周りに散らばった商品を手にとっては、テーブルの上に置いていく。
すると彼に叱責されて黙り込んでいたあやめが、小さく呟いた。
「……でも……」
見ると、潤ませていたあやめの目から、ポロリと涙が零れ出した。
そんな彼女に微笑みかけると、まだ室内に駆け込んだまま一ヵ所に立ち尽くしたままの、あやめの両肩にユリアンは両手を置いて視線の高さを合わせる為に、身を屈める。
「ほら。泣くんじゃない。元気な君に、涙は似合わないよ。今夜は君のストレス発散に付き合うから、好きなだけ私を代わりに八つ当たりしなさい」
そうして優しく笑いかけてから、あやめの頬を伝う涙をユリアンは指で拭い去る。
「ウェルズさん……。う、ううぅう……ハウゥゥ~~。ウェルズさん、優しいぃぃ~~!!」
「よしよし。もう泣くな。せっかくここまで来たのなら、思い切って……」
「思い切って飲むぞぉぉーーー!! よぉーし! 今夜は親子二人で飲もぉーーー!!」
頭を優しく撫でていたユリアンの手が、跳ね返されたかと思うと勢い良く頭を上げたあやめは、拳を天高く突き上げた。
「そう。思い切って飲もうと、言いたかった……」
ユリアンは突然のあやめの感情の変化に仰天しながら、苦笑するとそう静かに呟いた。
感情の起伏の波が激しいな。この子は……。
内心そう密かにユリアンは思うのだった。
分かり易い分、扱い易くもあるのだが。
あやめは酒に強かった。
少なくとも三口のワインで寝込んでしまう纏依よりかは、酒の相手が充分務まるタイプだった。
ただ、酔いが回るとフワフワなトロトロになるらしく、静かに大人しくなったかと思うとトロンとした目で、顔を赤らめてまるで浮雲のようになっている。
……これはパーティーなどで、お持ち帰りされるタイプだな。
ユリアンはポヤ顔で不気味にヘラヘラ微笑み、小声でアレコレ独り言を呟いているあやめを、苦笑しながら見詰めた。
そして十本目にして漸くウトウトしてきたあやめを、ユリアンはそっと抱き上げると、ベッドへ横にしてから離れた。
が、彼の朱み掛かった金髪のロングウェーブを、グンと捉まれ動きを封じられて思わず軽く仰け反る。
「あ、あやめ。その手を、離しなさい」
「ヤダァ~! だってこれぇ、フワフワでヤワヤワでぇ、気持ち良くってぇ、いい匂いしゅるも~ん」
あやめは目を閉じたまま、呂律の回らない舌で言いながら、ユリアンのチルチルに細かいウェーブヘアに腕を絡ませて、その髪の上に顔を乗せ鼻を埋めて、完全に枕の様に抱き込んで頭の下に敷いてしまっている。
「……これでは私が動けない」
「しょんにゃの知らにゃいモ~ン♪ ムニャ……」
口元を引き攣らせて、何とかあやめから自分の髪を解こうにも、しっかり腕に絡みつかれている。
そんな自分の傍らでもがいているユリアンを他所に、あやめは他人事の様に言い捨てると、そのまま深い眠りに落ちていった。
「あやめ! あやめ? ……おい、冗談だろう!?」
ユリアンは焦ったが、後の祭りだった。
今こそ自慢のこの髪型を、呪った事はなかった……。
今夜はソファーで寝ようと考えていたユリアンは、足を伸ばしてソファーに足を引っ掛けて寄せようと踏ん張ったが、年じゃなくてもそんな体勢など辛いに決まっている。
当然の様に足が攣り、ユリアンは気持ち良さそうに寝入るあやめの目の前で、その痛みで今度はもがいていた。
そもそも、仮にソファーを寄せる事が出来たとしても、髪を捉まれている限りは頭が否応無しに、吊り上げられた形になって眠るどころではないだろう。
攣った足の痛みで冷汗を掻きながら、漸く痛みも治まったユリアンは大きく溜息を吐いた。
「……何もないからな。あやめが離さないから仕方なく、だ。決して、断じて、何も、ない」
ユリアンは瞑目して誓うように、はっきりとそう口に出して言うと、恐る恐るあやめの隣に潜り込んで、彼女を気遣いながらベッドに横になった。
そしてぼやいた。
「……明るいな……」
電灯を消せずにいるので、煌々と点けっ放しの明るい室内で、眠らなければならなかった……。
今回はこの二人ベースで書いてみました☆