27:未知なる遭遇
その日の朝、ユリアンの目覚めは穏やかな平安に満ちていた。
ユリアンは静かに上半身を起こすと、ゆっくりと両手で顔を拭う。そして大きく一つ、息を吐いた。
久し振りに手にした、爽やかな朝だった。一体どれくらい振りだろうか。
「感謝する……感謝する。レグルス……」
ユリアンは軽く握った拳を額に当て、瞑目すると静かに呟いた。
今までは長らくずっと、こうして朝を迎える事は無かった。
いつも魘されて、全身を濡らす程の汗と動悸息切れの中、雷に打たれたかのように飛び起きる日々。
辛い目覚めの朝の中、太陽だけが何事もないように一日の始まりを告げていた。
夜が来るのが嫌だった。特に眠る事が。眠れば夢を見る。
子供の頃から、正直どちらかというと苦手としていた、予知夢の力。
知りたくない事や、見たくない事実まで見知らされる。
しかしそんな人生にも次第に慣れ、受け入れて生きられるようになった。
大人になってからは、この能力を楽観的に扱えるようにまで親しみ、時には犯罪捜査の協力までして一部警察の、裏の相談役も担った程だ。
超能力に消極的なレグルスとは違い、ユリアンは上手く状況を見極めながら使いこなし、積極的に利用するタイプだった。それで財産も稼いでいた。
だが今回は違った。
今になって見る夢だけは。
それは生涯に於いてただ一度だけ見る事が可能な、自分自身の予知夢。それも、死を告げる夢。決して変える事の出来ない未来。
精神心理作用型能力者は、ほとんどの場合自分の為に、その能力を使用出来ないものだ。それはレグルスは勿論、ユリアンも同じだった。
当然ながらレグルスは、己自信に読心能力は使用不能だ。
ユリアンも、自分についての今後を予知したり変化したりは出来ない。
だが自分の死を予知する事だけは可能だった。
なぜなら“生”と“死”は、別々に分離されている世界だからだ。よって、死の前の年になると、その次元空間が開くために強制的に見せられる仕組みになっていた。
いつ、どこでまでは知る事は出来ないが、どうやって死ぬかは分かる。
その事をユリアンは当然ながら、その時になって初めて知った。
死に方は変えられないが、どういう心境で死んでいくかが問題だった。
自分の死を夢見るようになってから今まで、夢の中の自分は激しい後悔と未練に苛まれて、死への恐怖を抱えながら悶え死んでいた。
しかし、今朝は違った。
とても穏やかなものだった。
安らかに、己の死を静かに受け入れてその生涯を終える、自分の姿……。
死に方なんか問題ではなかった。
どんな気持ちで死んで行くかが、問題だった。
だから怖かった。ここ暫く眠る事が。
しかしもう恐れる事は無い。こうして目覚められたのは、何よりもレグルスが心を少しでも開いてくれた、何よりもの証拠だからだ。
後はこれから今まで避けてきた、彼との絆を取り戻す事で自分の心が漸く満たされてから、死の瞬間を迎えるのみ――――――。
ユリアンはベッドから起き出すと、輝かしい窓の外に向かって大きく伸びをした。
「纏依先輩〜! もう今日は勉強やめて、息抜きにカラオケ行きましょーよ〜!」
わざわざ国立図書館まで、後輩且つ友人の星野あやめが文化芸術フォーラムに向けてのレポート作りを手伝えと言うので、こうしてやって来たのに直前になってこれである。
もうここは図書館を前にした敷地内だ。当然、纏依はこの彼女の言葉に先輩らしく、ビシッと叱り付け反論した。そう。反論を……。
「バカモノ! あやめがレポート手伝えと言うから、わざわざここまで来たのに今更カラオケだと!? ふざけるな! ライブハウスならともかく、カラオケにメタルパンクやハードロックのタイトルが、置いてあるものか!!」
至って努めて真面目にそう言う纏依に、さすがの言い出した本人であるあやめは唖然となる。
「ラ、ライブハウス、ですか!? 突っ込む所がそっち!? パンクメタル系、シャウトしまくる気ですか。先輩……」
「歌と言ったらシャウトと相場が決まっている。マリリン・マンソンだとか、アット・ヴァンスとかをだな、こう、腹の底から気合いを入れ体内の全ストレスを業火に変えて、己のソウルを……」
そう熱く語り出す纏依の眼つきは、世の中に対する不平不満への怒りを宿してギラついている。どうやら纏依にとっての歌とは、我が人生で味わった憎悪を発散させる為の、一種の手段でもあるらしかった。
纏依の中の歌は、イコール怒りの咆哮でもあるらしい。最早、歌とは言えない……。
「どんだけロック魂バリバリなんですか……。先輩の何が一体そうさせたのかはこの際知りませんから、普通にポップで行きましょうよぉ〜。しかもライブハウスなんて、バンド組まなきゃ歌えませんって……」
こうして纏依とあやめが図書館の前で、勉強かカラオケかで揉めていた(違う気もするが)、その時。
「失礼。どこかで……お会いした事はなかったかな? レディー達」
突然声を掛けられて、二人はそっちを振り向き纏依は、ギョッとした。
そこには朱金のウェーブロングヘアを後ろ一つに纏めて、ベージュ系のスーツをラフに着こなしている、異国の初老紳士が立っていた。
ユ、ユリアン!? 何でまた今こんな所に……!!
内心焦る纏依をよそに、あやめだけがキョトンとしながら一言英語で、ペラリと話し掛ける。
「ああ。大丈夫。日本語で構わない。せっかく日本にいるのだから、この国の言葉を使用せねば国民に失礼だ。英語が国際語だとして偉そうに、どこへ行っても英語を使用する高慢な連中も多いらしいが、私はその辺の礼儀は重んじたいと思っているのでね。いやしかし失礼した。どうやら人違いだった……ようだ、な?」
ユリアンはここまで言いながらも、寧ろ纏依よりあやめの方をマジマジと見詰めていた。そして思い出したように目を見開くと、ボソリと呟いた。
「君はまさか……。こんなに早い内に会おうとは……」
「私を知ってるんですか?」
不思議そうにユリアンに答えるあやめ。
「いや、これが会うのは初めてなんだが……」
こいつ!? 纏依は顔を顰めた。恐らく予知能力の中であやめの存在が混入したのか! 纏依は素早く察知する。
纏依はレグルスから防御バリアによって、その存在を隠されていたが、纏依の友人となったあやめも否応無しに繋がりが出来ている。
なので万が一ユリアンの予知夢にて、レグルスを探ろうにもその能力は彼の閉心力及び、防御によって最も近い位置にいる関係者へと、その標的がずれる事になる。
それが原因で、ユリアンの夢にあやめが介入してしまったのだろう。
「新手のナンパなら他へ行ってもらえないか」
そんな彼を、纏依が睥睨しながらあやめを自分の方へと抱き寄せて、守りに入る。
「ああ、失礼」
ユリアンは言いつつ、次はそんな纏依を不思議そうに眺め始めた。
どうやら彼女の言動や声質から、性別に迷いを覚えての事だったのだが、纏依の方はそうとは思いもしない。
もしかして自分の存在も知られているのかと警戒して、纏依はあやめの肩を抱いて慌てて顔を背け、図書館内に逃げ込もうとして……硬直した。
その出入口には、黒々とした容貌の大男が不愉快気に両腕を組んで、仁王立ちでこちらを睥睨していたからだ。
「あ、スレイグ教授」
「いや違うんだこれは偶然で……」
同時に言葉を発したあやめと纏依は、はたと互いに顔を見合わせる。
「え?」
再び同時に声を揃える二人。
「纏依先輩、スレイグ教授と親しいんですか?」
「いやいやいや! これには訳が……!!」
キョトリとする後輩に対して、つい咄嗟に誤魔化そうと慌てる纏依だったのだが。
「我々の間に訳などなかろう。ユリアンをここに、某が呼び出したのだ。最早偶然とは言え、鉢合わせになるとはな。そなた、自宅にてそのご友人殿と一緒に過ごすはずではなかったのかね。纏依」
悠然と歩み寄って来たレグルスは、俄かに怒りを含んだ低い声の静かな口調でさりげなく、纏依を叱責する。
「え!? 纏依!? 呼び捨て!?」
目敏く驚愕するあやめの予想通りの反応に焦りつつ、纏依はレグルスの言葉に答える。
「え゛!? あ、うん。そうだったんだけど、その、あ、あやめが……いや、この、星野がな、芸術文化のフォーラムレポートをどうのとかって、言い出したもんだからここに来たんだけど、俺もまさかここにユリアンがいるとは……」
慌てふためく纏依に、今度はユリアンが声を掛けてくる。
「君は私の事を、知っているのか?」
「え゛え!? あー、いや、だから、何て言やいいんだ、もう! そもそもそれならそうと、俺の携帯に連絡しなかったレグルスも悪いだろう!? なのに何で自分勝手に不機嫌になってんだよ!!」
ついに纏依はピークに達した苛立ちを、レグルスにぶつける。
「嘘! このスレイグ教授の名前を呼び捨てですか!? 先輩!」
「な゛ーーーーーっっ!!」
ギョッとして青褪めた顔で訊ねるあやめに、纏依はつい口を滑らせたと頭を抱える。
「……何を一人で混乱している。顔を合わせてしまったからには、この際やむを得まい。こちらの娘は某の扶養者だ。よってこの娘には一切、某の許可無く関わるのは断じて遠慮願おう」
至って冷静な態度でレグルスは、纏依をグイと自分の方に引き寄せると肩を抱いて、そうユリアンを威圧した。
「扶養……」
そう呟いて唖然と、レグルスの腕に抱かれている纏依を見詰めているあやめの様子に、纏依は最早困憊しながら片手で顔を覆う。
そんな纏依をよそに、ユリアンはあやめへと視線を移す。
「こちらのお嬢さんは?」
「さて。某の講義に出席経験のある学生のようだが、寧ろこの娘の友人だ。何故その様な事を聞く」
「いや、夢に現れたのでね」
「貴様の夢に?」
「ああ」
そんな異国の初老二人の遣り取りに、あやめだけが理解出来ずに怪訝そうな顔をしている。
「ふん。まぁいい。とにかく館長室で詳しく話をするとしよう。そういう訳ゆえ、今しばらく自粛しておいてもらえますかな? 纏依」
レグルスは腕の中の纏依を解放すると、そう静かな口調で無表情ながらも彼女の頬に片手を当てて、言った。
「あ、ああ……。分かったよ……」
もう開き直った纏依は、レグルスの漆黒の双眸を見詰め返して頷いた。
「宜しい。ではひとまず失礼する。付いて来いユリアン」
レグルスは優しく親指で纏依の頬を撫でると、彼女から離れて素早く踵を返しながら仮にも自分より、四歳も年上の先輩でもある古き友人……いや、まだ知人扱いとしてだけの彼を口先だけで促がす。
「ああ。では失礼。お嬢さん方」
ユリアンは穏和な表情で、優しく纏依とあやめに声を掛けた。
そんなユリアンに向かって、レグルスは振り返ると憎悪の色を含んだ目でギロリと睥睨した。
「そんなに凄むな。よっぽどお前にとってあの子は大事な存在なのだな。その様子だと」
両手を上げて見せるユリアンに、レグルスは顔色一つ変えるどころか更に威勢を放った。
「口を慎め。貴様はただ黙って某だけを相手に、付いて来れば良い」
「……了解」
ユリアンはそんな後輩に嘆息吐きながら後に続くと、そのままレグルスと共に図書館内に姿を消した。
ポカンとしていたのは、あやめの方だった。
そうして暫くして、漸く口を開く。
「マジですか」
「……」
無言で答える纏依。視線は明後日の方向を向いている。
「そう言うこと?」
「……」
相変わらず無言のまま、首を掻く纏依。
「でなきゃ、名前を呼び捨てで呼び合う仲には……扶養者って、家族と言ってもとても血縁関係には見えないし? それ以外の意味でなら、確かに扶養者にはなりますよねぇ? 男女的な意味での、それですよねぇ?」
半ばからかい半分で、纏依の顔を覗き込んでくるあやめ。
「……だったら問題でもあるのか。ちなみにまだ夫婦じゃねぇぞ。いくら扶養でも」
すっかり諦めて纏依は、煩わしそうに呟く。と、言い終わらない内にあやめの絶叫が響く。
「ええぇぇえぇぇえぇーーー!! うっそーーー!! 信じらんなあぁーーいぃ!! まさかまさかなカップルじゃないですかぁ!! ひゃああぁぁあぁぁーーー!! やっぱり変わり者同士だーー!! って、いったぁ!!」
賺さずそんなあやめの頭に容赦なく、纏依から拳を叩き込まれてあやめは頭を抱え込む。
「公然でそんな大声を出して騒ぐな!! このバカモノ!! 恥を知れ!!」
「確かに外人って一見格好良くて彼氏にしたら、羨ましいと思える理想の一つでもあるけど……よりによってあの恐怖の代表的な存在とも言える、スレイグ教授だなんて論外って言うか、どこが良かったんですか? 一体。ってーか、どっちからですか? 異色です。さすがです。先輩らしいかも。向かうところ敵なしってカンジです」
「うるさい!」
向かうところ敵だらけの人間同士が、くっ付いたのだが。
纏依は赤面しながらあやめを残して、足早にその場を立ち去る。
そんな彼女をあやめは、はしゃぎながら追い駆けるのだった。