26:愛嬌無きしは魔王も魔女もお互い様
ひとまずその後、ユリアンから在日中の居場所や連絡先を聞き入れた事で、レグルスは改めて後日再会を約束し、この日はその場から追い払った。
レグルスの無愛想さは相変わらずではあったものの、ユリアンにとってはそれだけでも大きな一歩だったらしく、嬉々として立ち去って行った。
その際密かに改めてユリアンの心を探ってみたが、全く悪意はなく彼がレグルスを訪ねてきた理由に、一切の偽りがない本心である事を知った。
それが尚一層、レグルスの気持ちを複雑にし、思い悩ませた。
その日一日、ユリアンを追い払ってからの彼は、険しい無表情に本来の寡黙さが、無口なほどになっていた。
一応ひとまず嘗ての親友をもう一度受け入れてはみたものの、人生そのものを大きく狂わせた原因の裏切り者でもある。
そう簡単にまだ完全に心を許せる訳がない。今は様子見として、表向きな対応を取っているに過ぎない。
なので警戒してレグルスは、己の閉心力と纏依の心にも防御バリアを張る事で、ユリアンからの予知能力から避難していた。
ちなみに纏依はその事には気付かない。そうする事で、能力者から身を守るための防衛手段になる。その間の相手の能力は、二人には効かなくなるのだ。
「レグルスがその嘗て輝いていた思い出を、一生失う不安という後悔の恐れを感じているのなら、取り戻してみてもいいんじゃないか? 最後の審判を下すのは、それからでも遅くはないだろう」
その夜、ベッドに横になって嘆息吐いているレグルスに、入浴後の手入れを終えて入ってきた纏依に、そう静かに言葉を掛けられた。
そう年下の彼女に言われて、思わず困惑しながら黙り込んで纏依に視線をやる。
纏依はブラウンゴールドに虎模様のアニマル柄のパジャマに、栗毛のロングをおろした格好の、見る限りとても普段ビジュアル男装の麗人には見えない普通の二十代前半女の姿だった。
「苦しいんだろう? だからそれを怒りに向けたくなるんだろう? まだ相手への思いがそこにあるから、苦しみや怒りとなって表れる。本当にどうでもいい存在なら、何も感じないはずだよ。それこそ怒りさえもな。未経験の俺がこんな事、偉そうに語るなんて生意気かも知れない。でも、レグルスに一生そんな思いを抱えて、生きて欲しくないんだ」
そう静かに言いながら纏依は、彼が横になっているベッドの反対側に腰を下ろす。
「……某には出来るであろうか。再度あやつに、手を差し延べる事が」
レグルスは頭の下に両手を組んだ姿勢で、天井を見詰める。
「まぁ、あの人次第にもなるだろうけど、多分出来るんじゃないか? それだけ思い悩んで感情的にもなるくらいなんだから」
纏依は彼へと向きを変えると、顔を覗き込んでフワッと微笑んだ。
「時折幼きそなたには驚かされますな。思いも寄らぬ事を言ってくる……」
「幼い? クス。私は幼いの?」
纏依はうつ伏せになると、レグルスの胸元に擦り寄り、頬杖突いて無邪気に尋ねる。
「某より若いと言う事だ」
レグルスはそんな彼女の背に手を回すと、その長いサラサラの髪を優しく撫でる。
「クスクス……。そんな風に言われると、レグルスがただのおじさんに見えてくる」
「もう初老を迎えた身分であるからな。当然だ」
「充分よ。だからこそ、こんなに大人の男の魅力があるんだから」
纏依は言いながら、レグルスの厚い胸板に手を回して甘える。
「魅力……。あるかね? 己では分からぬ」
レグルスのその言葉に、纏依は頭を上げると彼の顔を改めて見詰める。
「うん。ある。凄く謎めいた……そしてセクシーな魅力。私だけが知っている、愛しいレグの良さがある」
言いながら纏依は、レグルスの漆黒のセミロングの髪を弄る。
「某はそなただけの、男ですからな」
そう答えながらレグルスは、纏依の片手を取って親指の付け根部分に口唇を当てる。
「私もよ……。まだ幼いって言うのなら、貴方がもっと私の事、大人の女にしてくれるんでしょう……?」
纏依はすっかり女の顔になって、レグルスの漆黒の双眸を見詰める。
「なりたいのかね? 大人の女に。この初老の某を宥めすかす程の女の身で、更に今以上の大人に。某にとってはそなたはもう、しっかり大人の女に値するがな」
レグルスは至って真面目に、真摯の眼差しで彼女の瞳を見詰め返す。ところが、それを聞いてムスッとする纏依。
そしてすっかり不機嫌そうな声質で、言い返した。
「よっぽどユリアンの件が応えたんだな。普通にまともな返事なんか、今は要らないよ!」
そしてプイとそっぽ向くと、纏依はレグルスに背を向けて横になった。
「? 何か気に障る事でも申したか? 何故突然機嫌を損ねている」
そんな彼女にキョトンとしながら、上半身を斜めに起こしてこちらに背を向けている纏依を、不思議そうに伺うレグルス。
「言わせたいのか? 女の口から細かく言わせたいのか? よぅし。いいだろう。だったらいい事を教えてやる。ちょっと待ってろ」
纏依は素早くベッドから飛び降りると、書斎に行って一冊の本を片手に戻って来た。
「……やはりそなたであったか。そんな初心者用初級編の名言集の本などを、あの部屋に置いていたのは」
すっかり上半身を起こして、片膝を立てて片腕を乗っけた姿勢のレグルスは、彼女を改めて出迎える。
「哲学ってもんがどんなものか、昨日偶然コンビニにあったから買って見たんだよ。でも結構、的を得ている名言を見つけてな。是非レグルスにと思ったんだ。まさか早速活用出来るとは思わなかったぜ」
言いながら纏依は胸元に掛かる長髪を背後へと払い除けて、ベッドの脇に立って目的のページを探る。
「ほぉう。どこの誰の言葉ですかな?」
「えっと、フランスのカントって人?」
「……カントはドイツですぞ」
「どこでもいい!」
キィッと声を荒げる纏依に、レグルスは嘆息吐いて思い当たる言葉を静かな低い声で、朗読を始める。
「ふむ。“善行は、これを他人に施すものではない。これをもって自分自身の義務を済ますのである”」
「違う」
言い終えるとすぐに、纏依の否定の言葉が飛んでくる。仮にも世界に名を残した人物の、大いなる名言を耳にしながらも、何の反応もなく纏依は平然と切り捨てていく。
目的の言葉に辿り付くまでは、今はまだ他の言葉など知りもしなければ、関心もないようだ。
「では、“汝の意志の規律が、いつの場合でも、一般に立法の原理として通用できるように行動せよ”ではあるまいな?」
レグルスはこの言葉は嫌いだった。人生を以ってその矛盾を経験しているので、この名言は愚の骨頂と見なしているからだ。
しかし、纏依の言葉はまたもやザックリと一刀両断するものだった。
「違う」
これにひとまずレグルスは安堵して、次の言葉を口にする。
「……“人格を単に手段として用いるな”」
「違う! 正解は、いいか。よっく聞けよ! “真面目に恋する男は、恋人の前では困惑し拙劣であり、愛嬌もろくにないものである”だ! あながち当てはまってるだろう。特に拙劣から後半が!」
言葉に詰まるレグルス。そして黙考してから応酬する。
「褒められているのか貶されているのか微妙だが、少なくとも愛嬌の方は必要あるまい。言葉通り真面目に恋をしているのだからな。愛情と愛欲が必要な方が良かろう」
「でもすぐこの言葉が出なかったところを見ると、レグルスが恋ネタの名言には関心がないのが、よぅく分かったよ」
纏依は呆れながら言いつつ、ベッドにストンと腰を下ろした。
「そなたとの恋愛に、そんな知識など不要。他人の恋愛教養など邪魔な上に、戯言なだけだ。他人の知より己の知。我々二人で創って行けば良い」
「ふん! だったら今度からさっきの俺からの誘いも、己の知に入れておくんだな! 何が愛欲が必要な方が良かろう、だ! 言動が異なってんだよ!」
纏依はレグルスに向かって文句を言うと、その本をポイと放り投げて再びベッドに潜り込み、クリッと彼に背を向けた。
「誘い……」
思わず呟いてパチクリすると、次第にレグルスは内心可笑しさが込み上げてきた。
「成る程。それでそなたは機嫌を損ねている訳か。いや、済まぬ。確かになれば某の拙劣な反応の非を認めよう。纏依」
口調は穏やかではあるが無表情のまま、レグルスはすっかりいじけてしまった年下の恋人に、背後から声を掛ける。
「もういい。知らん! 興醒めだ。今夜はもう寝る!」
「纏依」
そっぽ向いたままの彼女の肩に手を置いて、こちらを向かせようとするが本人は半ば意地になって、わざと無視する。
そんな彼女を暫く白々と見遣ると、レグルスは敢えて纏依の拒否を承諾した。
「……おやすみ」
その一言だけ残して、レグルスも彼女に背を向ける形で横になった。
暫く続く沈黙。
嫌よ嫌よも好きの内。“女の口から出る「いいえ」は否定ではない”と言う名言もちゃっかりと、イギリスのシドニー氏が残している。
女心とは複雑且つ面倒なもので、否定しながらも強引にそれを覆して実行されたいと言う、愛する男からのマゾ的支配願望を抱いていたりするものなのだ。
しかし嘘か誠かの見極めが大切だ。気をつけねば一気に女のラブゲージが下がる。一度取り誤ると、セックスレスへまっしぐらの近道が待ち受けている事もあるので要注意だ。
そういうわけで、纏依はレグルスの押しの弱さに、再び苛立ちを覚えた。
「……マジかよ! ムカつく!」
クルッとレグルスの方を文句を言いながら向いて見ると、彼は反対側を向いたままその広くて大きな背中を、俄かに揺らしていた。
「……何こっそり笑ってんだ! レグルスのバカっ!! もうマジ知らない! 絶対寝てやる!!」
悔しそうに顔を赤らめて纏依は、枕をバフッとレグルスに向かって投げつけると、三度クルリと背を向けた。
「そこまで某が欲しかったのか」
レグルスは必死に笑いを噛み殺して枕を退けるも、声が俄かな愉快さに震えている。
「要らん! もう黙って寝ろおっさん!!」
纏依は羞恥の余り、頭から布団を被る。すると漸く落ち着いたレグルスが、早速嫌味の攻めに入った。
「その“おっさん”に惚れたのはどこの小娘でしたかな。確か……メソメソ泣き出したりしはしなかったか。あの時何と申しておったかな。情緒不安定? 空気が重く……? だったか? 何だったらもっと確信を突く出来事を語ってやっても良いぞ。まだ続けるか?」
ここまで言われて、ついに耐えられなくなった纏依が、大地に微弱電流を流されて這い出て来たモグラのように、布団から文句と一緒に顔を出した。
「ホンットいちいち言う事が余計……!」
途端、待ち構えていたレグルスに両手を掴まれるや、男の力でベッドへ仰向けに張り付けられて、そのまま上に覆い被さってきた。
そして更にレグルスは得意とする嫌味の続きで、小生意気な彼女の苛めに掛かる。
「某は生憎、愛嬌は持ち合わせてはおらんのでな。大人の女にしてくれ、でしたかな? 小娘」
静かにセクシーボイスで耳元にそう囁くと、口唇をギリギリまで近付けて寸止めにしたまま、チョロリと舌先だけで纏依の口唇を軽くなぞる。
「も、もう小娘じゃない!」
こうなったら纏依も負けじと必死になるが、胸の高鳴りまでは押さえられない。
「何故にだね……」
レグルスは己の大人の男を武器に、低い声を湿らせながら熱い吐息を絡ませてくる。
「それは……もう、知ってるから……」
纏依はすっかりそんな年上の恋人に恍惚とさせられ、キスを求めて彼の口唇に縋り付こうとする。
「何をだ……」
レグルスはそんな彼女の口唇からわざとギリギリの距離を取りつつ、片手で纏依のパジャマのボタンを外しに掛かる。
「……バカ……そんな事……やっぱり今日は寝てやる」
纏依は恥ずかしそうに、赤くなる顔を背ける。
「眠れるものならな……」
そうしてその剥き出しになった纏依の首筋に舌先を滑らせながら、すっかりボタンを外す。
「もう……そんな事されたら……余計、眠れなく……なっちゃう……」
そして直接彼の背中に両手を回して、その面積のある広い素肌の上を愛しそうに滑らせた。
するとレグルスはそれに応えるように、纏依に口唇を重ねる。
そんなレグルスの背に片手を回して、彼のセミロングの黒髪にもう片手の指を差し入れ掻き上げながら、同じく夢中で彼と舌を絡め合わせる。
「レグルス……はぁ……」
「纏依……そなたの魅力で、今宵我が理性を溶かしてくれ……」
その夜更に高まる欲情は二人の甘い口づけの音と、熱くて荒い息遣い。そして時折漏れる艶めかしい声で、夢中に互いを求め合う男女の営みを、醸し出していた。