24:漆黒の心見と朱金の夢見
そして翌日の朝。
念の為、纏依の存在を隠す為に一キロ手前で降車させると、レグルスは一足先に図書館へと向かった。
やはり案の定、昨夜と同じようにユリアンが待ち構えていた。
ユリアンはそのまま素通りさせまいとばかり、レグルスの車の前に立ち塞がる。
それを見てレグルスは、冷淡な無表情でフロントガラス越しに彼を睥睨しながら、スピードを緩める事無く前進する。
そして手前で急ブレーキを掛けて威嚇した。クラウンの鼻先が、ドンと軽くユリアンに接触する。そうなる事も計算の上での行動だった。
これにはさすがにユリアンも相手が車なだけに、数歩後ろによろめいてから尻餅を付く。
それを確認してから勢い良くハンドルを切ってそんな彼を避けると、そのままレグルスは漆黒のクラウン車を、今回は地下駐車場の方に滑り込ませた。
そして素早く地下にある職員専用の、出入口が近い場所にやや乱暴に車を駐車させると、さっさと降車して足早に出入口へと向かう。
「待て! 待ってくれレグルス! 三分、いや、一分でいいから話を……!!」
そう叫びながら走って追い駆けて来たユリアンを、一切無視してレグルスはドアを開け放つと、中に入るやそのまま勢い良くドアを閉める。
そして一息吐くと、ドアに背を向けて階段に一段足を掛けた。瞬間、ガバッとドアが開くや否や肩を掴まれて、勢い良く背後を向かせられると同時に、胸倉を掴まれて壁に叩き付けられた。
「話くらい聞いてくれたっていいだろう!!」
ユリアンはレグルスを壁に押し付けながら、無我夢中で捲くし立てる。
暫く沈黙が続く中、ユリアンの息切れの呼吸音だけが響く。
いくらもうレグルスより年上の、四十六歳という年齢とはいえ人間としてはまだ丁度油の乗った、旬な男の年代である。
だがさすがに車を追い駆けて、必死で走れば息も切れる。
しかもそのスマートな体付きを見る限り、体力もなさそうだ。レグルスの方がまだがっしりとしていた。
胸倉を掴まれて詰め寄られたレグルスは、この上なく不愉快そうに眉宇を寄せて、頭を引き顎を上げた角度で、ユリアンを忌々しげに見下している。
そして憎悪を含んだ低い唸り声を、絞り出す。
「某から、その汚らわしい手を離せ。今、すぐにだ」
「レグルス!!」
尚、それでもユリアンは縋るように、掴んだその手を体に押し付けてくる。それを実感すると更なる嫌悪感を覚え、レグルスは苛立ち気に怒鳴った。
「離せ!!」
「いい加減にしろ!!」
ユリアンは意地を張り続けるレグルスをグイと引き寄せると、もう一度壁に叩き付ける。
「ク……ッ! 貴様……長らく会わぬ内に、随分短気になられたな。それとも何か。焦ってでもおいでかな?」
レグルスはそう静かに、ユリアンを侮蔑する。
「ああ。焦っている」
そんな冷淡な彼の態度にユリアンは、真摯な表情で答える。しかしそうまでして訴えて来る嘗ての親友に、レグルスの反応はあくまで冷めていた。
「ふん。しかし某には関係のない事。とにかく貴様はただ、目障りな対象でしかない。消え失せるがいい」
レグルスは静かな口調で呟くように言うと、ユリアンの手首を捻り上げ、払い除けた。
そして掴まれていた胸元を手で払い、皺が出来たコートの胸元を持って引っ張って伸ばすと、改めて自分の先輩に睨みを効かせて階段に足を掛ける。
「せめて死ぬ前くらい、懺悔をさせてくれても構わんだろう!!」
ユリアンの悲痛に近い声が、その黒き背中に突き刺さる。
背を向けたまま、無言で足を止めるレグルス。
「……私はもう先が長くない。死ぬんだよ。こんな事、本当は言いたくなかったがな。まるでお前に同情を売る気がして、嫌だった」
「……で?」
返ってきたレグルスの返事は、容赦なく冷たいものだった。
「でって……レグルス、私は……!」
「まだ黙って某の知らぬ内に知らぬ所で、勝手に死んでくれた方がよっぽど貴様の言う、懺悔とやらになったろうに。わざわざそんな下らん余計な事をする為に、日本まで飛んで来るとはご苦労ではあったが、所詮徒労でしかない実に愚かしい行為だ。そういうところは、強ち昔と変わらぬか。やはり」
振り返る事無く、背中を向けたままレグルスは低い声で静かに口にする。
「レグルスお前……長らく会わん内に随分、皮肉で嫌味な男に成長したもんだな」
「その一端を担ってくれたのをお忘れか? やはり死ぬ前なだけあって、耄碌来ていると見える。何故死ぬかは分からぬがな」
「つ……くづく可愛げない生意気な男になりやがって」
相変わらずこちらを向かずに背を向けっ放しのレグルスの後頭部を、遠慮なくユリアンはベシッとハタいた。
「……!?」
一瞬理解出来ずに、思わずキョトンとしながら振り返るレグルス。可愛げある四十代男に育ってしまうのも、如何なものかとも思うが。
……まぁ、状況にも寄りけりだろう……。
「いいだろう。ではお前は好きなように、私を疎んじているがいい。だが私は自由にさせてもらう。どうせ死ぬなら恐れるものは、何もないからな」
ユリアンは笑顔を浮かべると、ヒョイと両手の平を上に向けて肩を竦めた。そんな彼に、相変わらずレグルスは心を閉ざし、怪訝な顔をする。
「それにしてもレグルス。昔から黒かったが、その無愛想さが更により一層その黒々しい容貌を、強力にしているな。あの頃はあんなに笑顔の可愛い……」
「貴様が馴れ馴れしく、某の過去を語るか。随分厚かましいものだ。そういう勝手のいい所も変わらぬな。……フランスのロマン・ロランが残した名言を、存じているか」
突然のレグルスからのこの質問に、再びユリアンから笑顔が消える。
「……“恋愛的な友情は、恋愛よりも美しい”ってヤツか」
「然様。ならばその後に続く言葉も、存じておろうな」
「……」
黙りこみ、俯くユリアン。
「言えぬのか。ならば某が続きを申してやろう。“恋愛的な友情は、恋愛よりも美しい。だがいっそう有毒だ。なぜなら、それは傷を作り、しかも傷の手当をしないからだ”。……某は大概の哲学にあるこうした名言を、見下し馬鹿にしている。だがこの言葉は、聞く度に身に沁みる」
「だからこうして……!」
ユリアンは改めて覚える罪悪感に、一段分高い場所に立っている嘗ての後輩へ顔を上げる。しかし言葉が終わらない内に鋭く咎められる。
「残念だが、今更手遅れだ。あれからどれだけの年月が経過した。軽く人一人が誕生し、成人してしまう程の長さがあった。本当に気が咎めたならば、あの後でも皆を元に戻せば良かった。貴様の“予知夢侵入”でな。死ぬからと分かって今頃のこのこ現れ許しを請うとは、万が一存在するやも知れぬ地獄とやらに、堕落する事への恐怖か? そんな自分よがりな懺悔など、無意味に等しい。さてはて。ところでその後如何ですかな? 妹君の人生は」
「ああ……。お蔭様でな……」
痛い所を容赦なく突かれて、ユリアンはまともにレグルスの目が見れない。
「ふん。全くだ。結構な事ではないか。分かったらさっさと国に帰るが良い。可愛い妹と愛する貴様の家族に看取られる中で、安らかに死ぬがいい。では、未来永劫に、さらばだ」
そう抑揚のない声で稀薄に吐き捨てると、レグルスはその場にユリアンを残したまま、館内へと姿を消した。
そんな彼の、黒々しい容貌の背中を見送ってからユリアンは、静かに呟いた。
「安らかな死に方など……不可能だからだ……」
そしてレグルスは職員室に向かうと、威圧的な雰囲気を発揮しながら全職員を見渡した。
ゴクリ。一斉に固唾を飲み込む音が響く。
「お早う。諸君」
いつもより尚一層、その低い声のまるで曇天轟く低い雷鳴のような威光さに、副館長を初めとする全職員は、強烈な電流で体が硬直させられるような恐怖を覚える。
「おはようございます。スレイグ館長」
そう声を揃えて挨拶をしたものの、どれも上擦って聞こえる。
「此度は諸君らに、忠告しておきたい事がある。もし某を訪ねて朱金髪の初老異国男が現れたら、一切通さないで戴けますかな。一切だ。ご理解戴きたい」
そう口にする静かな低音は、憎悪を含みまさに黒き魔王の呪詛を思い浮かばせた。
「畏まりました」
もはや余りの静かなる恐怖に、職員達は魔王の操り人形化していた。
「以上。本日も職務に励み、頑張ってもらいたい」
「はい!!」
「頼んでおきますぞ」
レグルスは不機嫌そうに言い残すと、バサッと漆黒のコートを翻していつものように、足早と職員室を後にした。
彼が立ち去った後の職員室は、半ば蝋人形化した職員達が恐怖で凍り付いて、硬直してしまった体の解凍に苦戦していた……。
丁度タイミング良く、一キロ先から到着した纏依がすっかり当たり前の様に、レグルスの前方を足早にズカズカと、館長室に向かって歩いていた。
しかし歩幅の差で、簡単に纏依はレグルスに追い抜かれてしまった。
「あやつに会いはしなかったかね?」
「ああ。少なくとも、表にはいなかったぜ」
後ろを付いて来る纏依に訊ねるレグルスを、彼女は必死に追い着きながら答える。
「フン……。人の車に張り付いているつもりか。愚かな」
「やっぱりいたのか?」
忌々しげに呟くレグルスに、もう半ば小走りで追い縋りながら纏依は訊ねる。
二人が歩くと決まってこうなり、最後にはレグルスが息を切らした纏依に怒鳴られてから漸く、歩調を彼が併せるといった具合だ。
「うむ」
レグルスが首肯した時には丁度館長室に到着した為、今回は纏依にキレられずに済んだ。
こうして二人は、レグルスはともかく纏依まで当たり前の様に館長室に入っていくと、まるで併せるようにそれぞれデスクの椅子と、ソファーに身を投げてムッツリとした。
「朝からツイてないぜ」
「尤もだ」
二人してぼやいた。
「ところで何故そなたまで、不機嫌になっておいでですかな?」
ふと気が付いてレグルスは、不思議そうに纏依に訊ねた。
「レグルスを裏切った奴が、さも当然にまた待っていたのが気に入らなくて、つい」
そう答えた纏依はその顔を、不愉快そうに顰めている。
……さすがは波長が合う相手なだけはある。某と同じくして、纏依まで似た心境になるとは。
そう思うとレグルスは、心なしか気持ちが和らいだ。
「あやつにだけは、断じてそなたを会わせはせぬ。纏依」
もし彼女の存在を知られたらユリアンの能力にて、何かされるのを警戒しての事だった。
「こういう時こそ無力なただの人間である事を、歯がゆく思う事はないな。守ってもらう事しか、出来ないなんて」
「逆であろう。漸く己を守ってくれる存在が、こうして現れたのだから光栄に思い、それに甘んじておれば良いのだ。それが愛する男に肉体を委ねた、女と言うものですぞ」
レグルスの心強い言葉に、纏依は恥ずかしそうに顔を赤らめながらも、漸く女らしい笑顔を見せた。