2:嫌味な男と勝気な女
気持ち良い風の中、自然の香りに包まれ眠る心地良さは絶品だった。
ああ。もうずっとこのまま、こうして眠り続けていられたらどんなにいいか……。纏依の心はとても安らかだった。束の間ではあるが、ささやかな幸せを堪能し穏やかな夢に抱かれていた。
そんな時だった。突然その平和は体の底から突き上げる、耳障りな騒音と振動によって無残にも打ち砕かれた。
ハッと目を見開くとガバリと飛び起きた挙句すぐ側に自分以外の何者かが立っているのに気付き、纏依はまるで人馴れしていない野良猫のように飛び退こうとベンチの背凭れに足を掛けた。
そして……――そのままベンチごと向こう側へと引っ繰り返ってしまった。
「いっつ……」
思わず声が漏れる。そして我に返ったように大慌てで相手の方を警戒心剥き出しで睨み付ける。
「何をする!!」
咄嗟に出た言葉がそれだった。
「……それはこちらのセリフであろう。こんな所でこんな時間まで一体、そなたは何を図々しく寝入っておられるのですかな? しかも勝手に転倒したのはそなたの方であり、某はただ職務上、わざわざこうして起こして知らせに来たまでですぞ」
「職務上……!? 誰だ貴様は!」
まるで今自分が置かれている立場を把握しようともせずに、纏依は傲然に吠える。
「ふむ……。誠に無礼な娘だ。本来人に名を尋ねるのであれば、先に己の方から名乗るのが礼儀ではありませんかな? それでも某の名を詰問するのかね」
レグルスは冷ややかに言い放つと、その場に倒れたままの彼女を見下す。
「……あんたは確か……人の進行を妨げた邪魔なおっさんか」
纏依は相手の正体を確認するや、ケロリとして平然と口にする。その言葉に渋面するレグルス。
「おっさん……。小娘。同じセリフをそなたにそのまま返そう。さっさとここから立ち去りたまえ」
レグルスは低く渋い声で静かに威圧する。
「ふん。貴様の様なジジイにそんな事言う権利があるのかよ。クソが」
纏依は散らばった周りの本を自分の手元に集める。
「下品な娘だな。少しは口を慎みたまえ」
そう言うレグルスは、一切一度立ったその場から身じろぎ一つせずに侮蔑する。
「娘、娘と耳障りだ! 人を女扱いするなこの阿呆が!」
「しかし娘である事は否めまい。男扱いしろと申すならば、遠慮なくそこの柵からそなたをこの敷地外へと放り投げても、異存ありますまいな?」
「ふぐ……っっ!!」
それは困ると言わんばかりに纏依は言葉を詰まらせると、忌々しげに長身の彼を睥睨する。
「何だ。たかが余所者外人の分際で偉そうに……!!」
纏依は吐き捨てるとパッと立ち上がってレグルスに背を向けた。と同時に彼がその華奢な背に向かって応酬する。
「某はこの国立図書館の館長を務める者だ」
途端に纏依は足を縺れるようにして再びその場に転倒した。
「……何をふざけておいでかな? そんな陳腐なコメディアンのような真似事は不要だ。早いところお帰り願おう」
「つつ……こっちだって一刻も早くそのつもりだ」
そうして纏依は必死に体を両腕で引き摺るようにして側にあった木にしがみ付くと、ヨタヨタと立ち上がる。
「……?」
レグルスはその様子に眉宇を寄せる。
「ハァ、フゥ……で、何だ。あんた外人でありながらここの館長だったのか。それはとんだ思い違いをした。悪かったな。そうと分かったからには大人しく退散するよ。とんだおマヌケ恥さらしだな。ハハ……」
纏依は恥ずかしそうに言うと忸怩たる思いに苛まれ、何とかこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。
そして勇気を振り絞り、そっと木から手を放すと勢い良く歩行を開始する。……が。
「ういっっ!!」
そう喚いたかと思うと、またもや転倒した。
「……う、い……?」
レグルスは纏依の意味不明な単語をボソリと繰り返す。そして暫く黙考しながら彼女の様子を観察する。纏依は羞恥心と焦りで必死に体を歩伏前進するかのように惨めに蠕動していた。
「……」
レグルスは嘆息吐くとツカツカと彼女へと大股で歩み寄り、纏依の腰に手を回してヒョイと片手で軽々に脇へと抱えた。
「うぐはあぅっっ!! な、何をする! やめろ、放せ!」
「その無様な様子からして、思うに足を痛めたと推測いたすが」
「ああ、ああそうだ! その通りだ外人館長さん! し、しっ、しかし腰は、横腹はやめて……! くっ、くっ……くすぐった……アヒヒャヒャ……! もっと他にないのか抱え方は!!」
纏依は冷や汗を掻きながら、レグルスが自分の腰に回している腕を掴みながらもがく。
「やれやれ。つくづく迷惑かつ図々しい下品な娘だ……」
レグルスは再度嘆息吐くと同時に、改めて今度は肩に担ぎ直した。
「……俺は荷物か……まぁいい……」
纏依は漸く落ち着くとそう呟きつつ、恥ずかしそうにこっそりと顔を赤らめた……。
レグルスは一階の職員室の奥にある医務室へと纏依を抱え込むと、ポイとソファーに放った。
「いった! 本当に俺は荷物か!? 乱暴だな! 一応怪我人だぞ!」
「自業自得ではありませんかな?」
レグルスは煩く喚く纏依を振り向く事無く、淡々と必要そうな医療品を探索し始める。
「ふん……いちいち嫌味な外人館長だ」
愚痴を零しながらきちんと座り直す纏依。するとふと思い立ったようにレグルスは手を一度止めると、彼女の方を振り返って無表情かつ抑揚のない低い声で訊ねた。
「小娘。確か某の知識では“俺”と言う自称は、日本人男性が使用する言葉の筈だが、何故そなたは女にも関わらずそのように自称されるのですかな? もしや日本人でありながら、男女別の自称語が理解出来ておらぬのでは……」
「やっかましい! 人を馬鹿にし過ぎだ! いくら中卒でもそれくらい分かっている!!」
思わず顔を赤らめて纏依は抗議する。
「中卒……? 中学までしか学歴を持たれぬのか」
そうしてレグルスは再び手を動かし始める。
……しまった……。一言余計だったな。まぁ別に隠す事でもないが。纏依は内心密かに悔恨する。
「わざとだよ。わざと女だけど敢えて男言葉を使用して、男装もしている」
纏依は神妙気味に口にすると、ふと少しだけ寂しげに自嘲した。
「……もしや……そなた、己の性を捨て良からぬ道を目指している類か」
レグルスは再び手を止めると怪訝な顔を向ける。
「違あぁーーう!! 違うぞーーぉ!? このアホ外人ーーっっ!! 勝手に人を変態扱いにするなぁ〜……!! 女という自覚をしっかり根強く持った上での、自分なりのプライドの表現方法なだけだ。女だからといって馬鹿にされたくないものでな。全く。思いがけずに傷心に浸っていた自分の情けなさを、お蔭でしっかり痛感させられたわ。くだらん」
纏依は肘置きを鷲掴みに身を乗り出して応酬してから、一つ嘆息吐くと改めてゆっくりソファーに身を委ねて頬杖を突いた。
「……そうか。それは申し訳ない事を聞いた」
レグルスはそれ以上彼女の事を探求するのをピタリとやめた。彼なりに、何か訳有りな過去が彼女をそうさせたのだろうと判断したからだ。そうでなければそのような言動を取る必要はないのだから。
纏依もどこか彼に対して無用心になっている自分に気付いて、焦燥感を覚えていた。この自分ともあろう者がこんな訳の分からない奇妙な外人相手に、これ程までに無駄に饒舌になっているとはな。他人に心を開くだけ無意味でしかない事くらい……身を持って思い知らされているというのに……。
そんな彼女のどこか哀愁漂う雰囲気にレグルスは無言のまま暫く横目で見詰めていたが、気持ちを切り替えるように頭を振った。
他人の人生に共感したとて余計でしかなかろうに。思わぬ自分の潜在意識に覚えた心情を彼は振り払う。誰かに深く関与した時間の分だけ傷付く事くらい十二分に承知の筈だ。
そうして彼は、何事もなかったようにツカツカと彼女に歩み寄る。そして纏依の足元に屈み込むと、ガシッと彼女の両足首を無遠慮に掴んだ。
「い゛いっっ!!」
纏依は呻き声を上げる。レグルスはそのまま左足を振り回し、反応がないと分かるやペッと手を放して同じ要領で今度は右足を振り回した。
「いったあぁぁーーっっ!! アホか! どんだけ乱暴だこの……アホ外人!!」
纏依はソファーの背凭れに身を捩ってしがみ付きながら、半ば涙目になって彼の顔を睥睨する。その彼女の潤んだ目に気付いて思いがけずにレグルスは動揺する。
本来勝ち気で強がっている女がふと女の弱さを垣間見せたりすると、愚かにもクリーンヒットしてしまうのもまた男の弱点だったりする。……まぁ人にもよるだろうが。
やはり女は苦手だ。レグルスは邪念を振り払いながら冷静に応対する。
「恨むのであらば、己の不運をお恨みいたせば宜しかろう。そもそも某は医療処置などの扱いに余り馴染みがないのでな。そんな人間の前で愚かにも怪我をしたそなたがツイておられぬのでありましょうぞ」
レグルスは纏依が痛がるのも気にせずに、とっとと処置を済ませて彼女から離れたい一心でグイグイと足を強引に引っ張る。
「もーーーーーぅいいっっ!!」
纏依の絶叫にレグルスは我に返るやピタリと手を止めて、片眉を上げて彼女を見直した。気付くと纏依はソファーから体がズリ落ちかけていた。
「もう、いい! 充分だ。後は、自分で! する!! ……それに余り馴れ馴れしく他人に体を触られたくはない」
纏依は顔を引き攣らせながらレグルスをガン見すると、ヨロヨロと座り直してから医療道具を引き寄せた。
「……ふむ。確かに。その方が宜しかろう。早いところ済ませて下さいますかな? 某はさっさとここを閉館して帰路に付きたい」
レグルスは同意すると、窓辺に寄って行きその長躯を屈めて窓枠に両手を突いて外を眺め始めた。
纏依はそんな彼の広い背中を一睨みすると、不愉快そうに自分で処置を始めた。