16:雨と山中が奏でる天国と地獄
レグルスからの蔑みの言葉に、第二衝撃を受けてしまった纏依は、ただ我武者羅に衣類をバッグに詰め込んでいく。
そして半泣きになりながら、ろくにバッグのファスナーを閉め切る事もなく引っ掴むと、レグルスの家を飛び出した。
バカだ俺! 自分が良かったからって相手まで良いとは限らないのに、良かれと思ってした事が余計、彼の心の傷を抉るような真似を……!!
もう彼は俺に愛想を尽かしただろう。疎ましい存在に成り下がっただろう。迷惑な立場になったに違いない!!
俺のバカ!! 最低だ! 助けるどころか逆に彼に嫌われる事を!! 自分だってそうだったはずだ。自ら告白するまでは、自分の体にある火傷の事やその理由だって、知られたくはなかったじゃないか!
だいたい人に優しくされた事のない俺が、誰かに優しくなんて出来る訳なかったんだ! 傷付いた分、気付かぬ内に相手にまで同じように傷付けてしまうんだ!!
俺は……俺は、史上最悪の最低人間だ!!
外は中降りとは言え一分もすれば、充分全身がびしょ濡れになるだけの降水量はあった。しかし今の纏依はそんな事などお構い無しに、必死に山中を走った。
満足に舗装されていない路肩の石に躓いて、見事に水溜りへと倒れ込み、不様なまでに泥だらけになる。
見ると、持っていたバッグも同じ惨状になっていた。
纏依はもう何もかもを放棄したい衝動に駆られ、そのままバッグを手放してユラリと立ち上がると、再び走り出した。
一方、我に返ったレグルスは、慌てて家中を探し回ったが纏依の姿は見当たらなかった。携帯電話を鳴らしてみると、着信音は家内から鳴り響く。
どうやら持参してきた小物類はそのままに、目に入る衣類だけをバッグに詰め込んで出て行ったらしい。
つい今まで続いてきた人間不信の反響で、余計な感情を纏依に聞かせてしまった。
あの言葉は彼の強力な閉心力の為にその心の扉を拘束する、言わば心の言葉の鎖の様なもので、無意識に唱えられた呪文みたいなものだった。俗に言う、不可抗力だ。
寧ろ彼女の自分への思いやりを知ってレグルスは、思わぬ幸福感を覚えた程だったが、もう後の祭りだ。
どんなに彼女の心に声を掛けてみても、意識侵入を試みようとしても、今の纏依は彼から受けたその無意識による言葉の鎖とやらの、罵倒から受けたショックの強烈さに、レグルスの一切を自分の中で否定してしまっているようで、一切の能力が弾き返されてしまう。
これも心に深い傷を持つ者が持ち得る苦悩損壊者としての、強烈なまでの拒絶反応という特殊効果だった。
もうこれ以上傷付きたくない。苦しみたくない。もうどうでもいい。辛いこの現実から逃避したい。
あらゆる負の感情が結界となって、心見・読心能力者の悟りの力を受け入れないくらいに心を遮断してしまうのだ。
こんな雨の中に山中を飛び出すなど無謀すぎる。レグルスは俄かに苛立ちを覚えながら、外に飛び出すとすかさず彼も一緒になって、纏依の後を追った。
…… ―――――― 勿論、コウモリ傘を片手に車庫に向かって。
車があるのに雨の中を足で追い駆けるなんていう、ただ必死に自分の世界に夢中になり浸っている、ドラマみたいな行動を取りたがる男女とは違って、彼の冷静さはしっかりと保たれていた。彼は能力者の割には、確固たる現実主義者なのだ。
厚手の黒コートをバックシートに放り込むや否や、同じく傘も閉じて放り込み乗り込むと、エンジンを掛けて黒の新型クラウンを車庫から出して、纏依の後を追って発進させた。
そして更に一方の纏依はと言うと、ややムキになって少しでも多くの距離を稼ごうと、二十四時間テレビのランナー並にリズム良く走っていた。
レグルスが冷静さを取り戻して、平然と車で追い駆けてくるのは安易に想像出来た纏依は、今はだからこそ余計に彼に会いたくない気持ちが強かった。
逢ってどうすればいい? 逢ってどんなツラすりゃいいんだ! 何を言やいいってんだ! 冗談じゃない! もう放っといてくれ!!
しかしさすがにパンクロックスタイルのビジュアルファッションで、更にジャラジャラと余計なシルバーアクセサリーが、雨で全身びしょ濡れの肉体を叩きムチ打つ。
服の重みとその痛みとでリズムも狂わされ、とてもマラソンランナーのように体は動いてくれなかった。
へロンへロンになって、仕舞いにはドシャリと一点の場所にへたり込む。
いいや……。どうせ。もうどうでもいいし。どうせ別に他の車なんかさっきっから通りゃあしない。少し体力が戻るまでこのまま……。
……ブロロロロローーーー……。
背後から聞き覚えのあるエンジン音。クラウン車のアイドリング音だ。レグルスが来た! 思わず無意味に周囲を見渡して、ひとまず側にある茂みに隠れようと駆け込む。
しかし無情にも、その時には既にクラウンは纏依がへたり込んでいる時点で、真後ろにもう僅かで接触しそうな近さなまでに停車していた。
そして彼女が茂みに飛び込んだ時には、のそりと無表情にも俄かにムッツリとした顔のレグルスが、降車してきていたところだった。
纏依はまるで、狼に追い込まれたウサギのようにしてひっそりと身を縮め、息を潜めては心臓が早鐘の如く連打しまくっている。
それも虚しく、背後に明らかなる何らかの巨大な気配が立っているのを、ギスギスと否応無しに痛感させられまくっていた。
雨の中、無言で茂みにコウモリ傘片手に立ち尽くし、下を白々しく見下している真っ黒の大男と、その足元でいかにもサッカーボール宜しく小さく縮こまっている男装スタイルの女。
道路の路肩ではクラウンのワイパーと、ランプがカチカチと点滅しては音を立てている。
そのリズムに合わせるかのように纏依は、意を決して脱兎の如く思いっ切り地を蹴って、その場からの逃走を図った。
のも虚しく、その彼女の腰にヒョイと逞しい黒い袖の腕が回され、軽々と引き戻されてしまった。
「うーっうーっ!! んっんーーー!!!」
何を言っていいのか分からないまま、ただ無意味な声を発しながらジタバタと、レグルスの腕の中でもがく纏依。
しかし無理矢理正面を向かせられた纏依は、レグルスの渋面した表情を見るや否や、降水量を上回るくらいな勢いの大量の涙を一気に溢れ出した。
自然現象風に例えるなら、軽くダム決壊である。そして無我夢中で、自分でも訳分からないままに捲くし立てる。
「だってだって!! 少しでも楽にさせたかったんだ!! あの、わ、私が! 私がそうなれたから、だから……って! でもごめん! 余計な事だったよな!! でもまさかあんな事になるなんて私も知らなかったから、いきなりで私もびっくりして、それでどうすればいいか分かんなくなって、ホントに全然覗くつもりなんかなくって、だけど、でも……私、ごめんなさい! 勝手に覗き見ちゃって! ごめんなさい! 嫌な思いさせちゃって! ごめんなさい! もう二度と、二度と……レグ、レグルス、に、は、か、か、関わらな ―――――― 」
そんな事なかった。本当はもっと彼と一緒にいたかった。でも、彼が心の中で……! あんなに拒絶されてとても一緒になんか、いられないだろうから……。
そう内心思いながら捲くし立てていると、纏依の騒々しい口はレグルスの口唇によって塞がれていた。
思わず纏依は彼のキスから逃れようと、両手を突き出そうとしたがその両手も、同じく手にしていた傘を放り投げて自由になったレグルスの両手によってガッチリ掴まれ、動きを封じられていた。
「んん……うー! ヤッ! ヤダ!」
瞬間を狙って顔を逸らす纏依。しかしすぐに両頬に手を当てられ、動きを押さえ込まれる。
「ヤア!! だって私はレグルスを傷付けたのに……っっ!! 私なんかもう嫌われたって仕方ないんだ!! あたしはレグルスに嫌な思いをさせたから……!!」
「黙れ!!」
レグルスの珍しい大声に、ビクリと硬直する纏依。
「考えろ!! 某が何の為にここまでそなたを追い駆けてきたのかを!! 余計な言葉は要らぬ!! 行動だけを見よ!!」
レグルスは彼女の頭を押さえ込んだまま、ムキになって怒鳴っていた。今の彼には冷静さよりも、纏依の妥協的な謙虚さへの苛立ちが先だった。
「う……ふぇ……っ! レグル、ス……あ、たし……ごめ……な、さい……グス……」
纏依は顔面に降り注ぐ雨と、とめどなく溢れ出す涙のせいで、半ば地上にいながらにして水没化していた。俄かに溺れかけているようにも見えなくはない。
「纏依……もうどこにも勝手に飛び出して行くな」
レグルスは心の底から痛烈に言うと、ずぶ濡れの彼女をグッと抱き締めた。
「あたし……あたしは……分か……んなく、て……ど、すれば……い……のか……ヒック……」
纏依は必死にレグルスにしがみ付いた。離れてしまう恐怖に怯えながら。
「ずっと、某の傍にいれば良い」
そうして二人は雨の中、ずぶ濡れのままで何度も何度もキスをした。ただ必死に、互いの舌を貪るように……。
雨の降る山中の茂みの中で、黒い大男と男装の姿の者が、互いの愛をキスで確認しあっているその光景は、ただ他から見る限りではひたすら怪しいばかりだったが。
クラウンの奏でるワイパー音とランプの点滅音、そして雨音をBGMに……。
運動会と言えば天国と地獄。と言えば徒競走。恋愛もある意味天国と地獄。魔王と魔女には相応しいサブタイだなww。
運動会に恋愛にと備えて頑張っている皆さん、頑張って下さいww。