15:閉ざされし心の先にある闇
「おっかしーなぁ〜……。確か朝は爽やかに小鳥が囀ってなかったっけか?」
纏依は窓枠に片手を付いてもう片手を腰に当てた姿勢で、ドシャ降りの外の雨を眺めては、曇天の空を仰ぎ見たりと嘆息吐く。
朝昼食を終えた昼前から降り出した雨は、昼下がりを過ぎても雨足を強める一方で、一向に止む気配がない。
「……誰かの日頃の行いに、問題でもあったやも知れませんな」
「ぐふ……っ」
さらりと痛いところを背後から突かれて、纏依は言葉を詰まらせる。
「今朝の件は何回も謝っただろう!? 結構年の割には執念深いな!」
「……」
ピシリと、レグルスの脳内を電流が走る。纏依のさり気無く言った言葉が、彼の要らぬ記憶を呼び覚ましてしまったようだ。
“年の割には”はこの際置いといて、“執念深い”の言葉がレグルスの精神にクリティカルヒットしたらしい。
ソファーで黙読していた本を閉じるや否や、ポイと脇に放り投げてキッチンに立つ。
「なぁレグルスは、こうして雨の日の休日って何して過ごすんだ? テレビがないから相当ヒマそうだよな」
そう。レグルスの家にはTVなど置いてはいない。彼にとっては不用の産物だからだ。返事がないので、纏依は若干意地になってもう一度訊ねる。
「なぁ! 聞いてんのかよ!?」
「……年のせいか耳が遠くなったらしい。何ですと?」
紅茶を注ぎながら、静かに嫌味を口にするレグルス。
「ぐぐ……っっ」
しまった……またもや余計な一言で彼の機嫌を損ねちまったか……!? そう思いながら纏依は、いくら知らないとは言えまたもや更に、余計な一言。
「マジ執念深……」
「故に魔王に甘んじてやったのだ。母国でな。そんなに某との会話に不満があるならば、これ以上もう話しかけないでもらいたいものですな。そなたも似た過去を持つ以上、人の事を言えぬのではないのかね!? 執念深さはお互い様だと思うがな」
レグルスは低い声ではあったが、威圧的に纏依に歩み寄りながらそう早口で捲くし立てると、プイとそっぽ向いて紅茶の入ったカップを手に、リビングへと戻って行った。
「……」
硬直する纏依。 ―――― マジギレ……!? あのレグルスが初めてマジギレですか!? うわ、どうしよう。多分彼の中で言っちゃいけない事を言っちまったんだ。
執念深いイコール母国暴走、植物人間続発理由。レグルスが最後に手を下した神父に言われた、屈辱的な一言だった。
よって、その神父のみ一捻りで精神を破壊した。
確かに俺も執念深い内に入るよな。気にしなかっただけで。纏依は改めて自分の男性的なファッションスタイルを見直すと、首に掛けてある十字架を手にして、ピンと指で弾いた。
今までは誰からも言われなかったから気付かなかっただけ。しまった……。俺ってば、一言余計なんだよいつも……! どうやら、その辺の自覚症状はあるらしい。
き、気まずい……。どうもイカン。今朝から俺のせいで空気が気まずくなりまくっている……。纏依は昨日の今日であるのもあって心から反省すると、自業自得にしょげ込んでしまった。
「あの、レグルス……怒ってる……のか?」
「……」
「やっぱ怒ってんだよ……な?」
「……いや……。嫌な事を思い出しただけだ。そなたに非はない。某の勝手な八つ当たりだ。すまない」
レグルスは瞑目したまま、静かに口にした。
「違うよ。俺がそのきっかけを与えてしまったんだから、俺が悪い。レグルスは謝らないでくれ」
「……」
「ごめん、な。俺……いや……私……レグルスの事、まだよく知りもしないで身勝手な事口走ったりして……」
「……」
無言のまま紅茶を飲み干すレグルス。
「嫌な事を思い出す辛さは私もよく分かってるのに、無責任だったと反省している」
「……」
「ごめん……」
と同時にガチャリとソーサーの上に乱暴にカップが置かれる。思わずビクリとする纏依。
「……ムカつくな」
「え?」
「……ムカつくと、そう言ったのだ」
レグルスは呟くと、スックと立ち上がってヅカヅカと大股で纏依へと歩み寄り、彼女の腕を取って壁に押し付け、その両脇にドン! と両手を付いた。
「……ご、ごめんなさ……」
「謝るな。某の勝手な八つ当たりだと言ったであろう。そなたに謝られると、余計惨めになる」
「あ……」
どうすればいいのか戸惑いながら、恐る恐ると長身の彼の顔を見上げる。
しかし俯いているレグルスの顔の左右から、セミロングの黒髪が覆い壁を作っていてよく分からなかったが、彼らしく無表情に見えた。
「……怯えさせて、すまない」
「怯えたりなんかしてない。ただ反省しているだけだ。だってレグルスは私にとって ―――― 」
途端、二本指を口唇に当てられて塞がれた。
「良い。もう何も言わずとも。今は某の方がどうかしているのだ。言ったであろう。某もそなたと同じ、苦悩損壊者だと。一度一つの記憶を思い出すと、執着しやすくなる。つくづく我ながらもこの心持ちには困憊しきりだ。一度囚われるとなかなか……逃れられなくなる故にな。分かって、頂けますかな?」
そう静かに言ってくるレグルスの声音は落ち着き、優しさを取り戻していたが、まだ雰囲気からは自分自身への苛立ちが感じられた。
「すまぬ」
レグルスは低い声で囁いて纏依の口唇に軽くソフトキスをすると、パッと身を翻して足早に二階へと立ち去ってしまった。
呆然とする纏依。
ヤバイ……。スイッチ押しちまった……。完璧世界に行っちまった……昨日の俺が告白した時の、あの心境と同じ気持ちにさせちまったって、事……だよな……。マズッた……。
纏依は戸惑う。そして暫く黙考した後、ふとある気持ちが過ぎった。
そうだ。俺……私は決めたじゃないか。彼の苦しみを自分も汲みたいと。分け合いたいと。今レグルスは苦しんでいる。
だったら一人になんかしないで、その辛さを引き出してあげなきゃ。私だって昨日レグルスに自分の辛い過去、告白したら気が楽になったじゃないか。
レグルスが私の苦痛を受け止めてくれたお蔭で……。 ―――― 私は欲しい。レグルスの苦しみが。辛さが。哀しみが……。そして少しでも彼を楽にさせてやれるなら!!
纏依は意を決して彼の後を追った。極力、今のレグルスの気持ちを散らさぬよう、静かに足早で歩を進めながら。
レグルスは二階のデスクルームにあるバルコニーにいた。
雨足は先程より弱まりはしたものの、それでも中降りくらいの勢いを残していた。レグルスは、雨の音で纏依が室内に入ってきた事に気付いていなかった。
彼女に背を向けたまま、彼は虚空をボンヤリ眺めながら忌まわしき過去の記憶に囚われている自分を、何とか落ち着かせようと懸命になっているようだった。
そんな時だった。
彼の苦しみを分け合いたいと願う纏依が、今囚われている苦しみから解放されたいと思っているレグルスの、背中に手を伸ばしたのは。
「なぁ。レグル、ス ―――― !?」
瞬間、纏依は一瞬足を踏み外した感覚に囚われた。
そして気が付くと、眼前に広がる、英国のとある風景。
纏依はある部屋の一角に立っていた。
ベッドに縛り付けられ、悪魔祓いを執行されている若かりし頃の、レグルス少年。
彼の悲愴と絶望が入り混じった辟易とした表情。慄然さと鬱積さをあからさまにその少年に向けている、心無い周囲の大人達。
“恐ろしい。悪魔に魅入られた子……!!”
“違う……僕は悪魔なんかじゃない……!!”
瞬間、場面が切り替わる。
“愚かなる悪なる息子よ! 一体いつまでそうやって罪なき人々を地獄に誘うつもりだ!!”
“そちらこそ、一体いつまで私を悪魔扱いするおつもりです? 生憎私には悪魔の痕跡など欠片も……”
五十代くらいになった神父が、漆黒の髪を肩まで伸ばした色白で、端整な面持ちの青年に歩み寄られていた。
“その執念深さが何よりも魔王の証よ!!”
“……魔王の……証だと……!? 貴様等こそ今の今までずっとこの私を断じて受け入れず、執念深く魔物扱いにしておき散々この瞬間でさえも、我が心を苛み続けておきながら、果たしてどちらが執念深いと言うのだ!!”
“よせ! 寄るな! この魔物の中の魔なる王め……!!”
神父に手を伸ばしかけた、若い青年レグルスの目の中に、神父の背後で立ち尽くしている纏依の姿が飛び込んできた。
『 ―――――――― 纏依!?』
青年姿のままで、記憶と意識が接続しているレグルスは、咄嗟に過去の記憶の中で彼女の名を口にした。
一気に意識を現実に引き戻すと、レグルスは物凄い勢いで背後を振り返った。
「やめろ!!!」
気が付くと、レグルスは無意識にも纏依の背後の手を振り払って、初めて声を荒げていた。
波長が同調し、共鳴した為に纏依の中でレグルスの能力、“意識侵入” が彼に触れた事により影響を及ぼしたのだ。
よって、纏依の意識が過去を振り返っているレグルスの記憶意識の中に侵入してしまった訳である。
レグルスに手を振り払われて、はと現実に意識が戻り我に返る纏依。
今のが……レグルスの……!?
気が付くと、レグルスの顔にこの上ない驚愕の表情と共に、大きく見開かれた漆黒の双眸からは、不快な相が表れていた。
“自分以外の者に己の心の中を覗き見られたくなどはない。何故勝手に入ってきた。これ以上自分の意識に介入したりして、関わってくれるな!”
そういう思いが、今しがたまでレグルスに触れていた余韻のせいで、残留能力となって彼の心情を纏依の心へと流し込んでしまった。
「あ……ごめん……だって私も……レグルスの……苦しみをって……ごめん、ごめん!!」
纏依は踵を返すと、ダッと部屋を飛び出して行った。
後はもう何も言わなくても、読心力でレグルスには充分纏依の意図する想いが伝わっていた。
纏依……。
レグルスは彼女の想いを知らされながらも、突然の事に不意を突かれたせいで、暫く動く事が出来ずにその場を呆然と立ち尽くしていた……。