13:眠れる魔王に魔女の口づけを
纏依は入浴後の手入れを漸く時間を掛けて終えると、一息吐いてベッドに腰を掛けた。
何か……ほんの短い間に色々あったなぁ……。そう思いながら時計を見ると、もう深夜十二時をとっくに回ってもうすぐ一時になろうとしていた。
初めはあれだけ怯えていた自分の存在。立場。状況。だが勇気を持って話してみたところ、実はレグルスは心見・読心の能力者である事を知らされた。
しかし不思議にも、そうだと分かった途端、あれ程怯え恐れていた心が解放された気持ちになった。
勿論そこには、レグルスが傷持ちの自分を受け入れてくれたと言う、安堵感が実在したからというのもある。
自分の本心を伝えなければ、ずっと相手を騙し続ける事になる。それが余計に輪を掛けて、疚しい気持ちにさえもした。
だが寧ろもう、わざわざこちらの気持ちや苦しみや考えを、読み取って貰えるのだと思うと、無責任だとは思いつつも不思議にも、安堵感を覚えずにはいられなかった。
レグルスは焼印など気にしないと言ってくれた。
だがまだ我が身を捧げるのは勇気要る。しかし傷付き苦しみ続けたこの心を捧げる……いや、分け合えるのかと思うと、気持ちが楽な気がしたのだ。
レグルスの抱えていた苦しみも知った。能力者故に受けた蔑みの人生を。
今後彼の能力を介して纏依も発揮した暁には、更に彼が能力を持つ故に得る苦しみを、纏依も同じくして思い知らされていく事にもなるはずだ。
それはイコール、彼の苦しみを半分は汲んでやれるという事だ。そうすればもうレグルス一人だけを苦しませ続けずに済む。彼の苦痛を共有できる。
彼が魔王だと罵られ恐れられてきたのなら、今度は俺がその身代わりになって魔女と呼ばれてやろう。本当の意味での恐怖の魔女に。
今までは“淫乱”として、身に覚えのない侮辱としてそう言われてきた。でもこれからは、レグルスの為に恐怖の対象としての魔女に、俺もなってやる。
それで少しでも彼の苦しみを汲み取り楽にしてやれるなら、レグルス。どうか貴方の苦痛をこの俺にくれ。
今更苦痛を恐れるほど、もうデリケートな心など持ち合わせてはいない。これ以上、壊れる心は残ってなどいやしない。
唯一あるとするならば、レグルス。それは貴方を失った時だろう ―――――― 。
ふと、そういえば妙に静かな事に気付いた。
レグルスはもういい加減お風呂から上がっているはずだ。女の入浴後のお手入れは長いのだ。その間に男の入浴が終了してしまうくらいに。
どんなに男ぶっている纏依も、基本女だし男になりたいわけでもないのだから、当然例外なく女の基本的な手入れくらいは行っている。
シャンパンゴールドカラーでサテン生地のパジャマ姿で、一階に下りる纏依。こうして見ると、普段の男装的要素は微塵もない、本当に普通の女の容姿だった。口さえ開かなければ。
人の気配は感じないものの、リビングの電気は点いている。
「レグルス……? いないのか?」
そっと声を掛けながら、リビングに足を踏み入れてみると……。
ソファーに横たわって寝入ってしまっている、レグルスの姿があった。
真っ黒なシルクのナイトウェアの上に、漆黒のビロード生地のガウン姿。艶やかに湿った黒髪が顔にいくらか掛かった状態で、無意識の内に眠り込んでしまったという感じだった。
そんな彼の寝顔を、そっと忍び寄りソファーの前にしゃがみ込むと、まじまじと見詰めた。こんなに無用心になっている彼の姿を見るのも、接するのも初めてだった。
四十二歳の男の顔。土気色の肌をしているが、イングランド出身なのもあって当然ながら、顔の彫りも深い。
普段は常時険しい様子の無表情の顔をしてはいるが、目鼻立ちははっきりとしている。
渋くて、キリッとしていて、僅かに刻むまだ少ないながらのその皺も、中年男の魅力を湛えている。
よくよく見詰めている内に、少しずつドキン、ドキンと胸が高鳴ってくる。男として、異性として意識してしまったせいだ。
確かに女である以上、いつかは異性と恋をしてみたいと思いはしたが、最早まさかこんなに年の離れたおじさんに惹かれる事になろうとは、思いも寄らなかった。
せいぜいいくら年上でも、十歳を越える事はないと思ってはいたが……。二十も上だと父親の年代だ。そんな自分に思わず自嘲する纏依。
しかしそんなのを初めから意識していた訳ではない。気が付けば彼が自分を女扱いして、女として接して……ま、まぁ、彼なりのやり方ではあったが接してくれて。
……乱暴ではあったけど? でもそんな風に扱われたのは俺も初めてだったから、つい意識し始めたりして、それから……。
今までの奴は男装して男勝りな言動を取る俺に一歩引いてたもんな。まぁ、それが当たり前かも知れねぇが、彼はそうじゃなかった。寧ろ図々しいくらいに女扱いしてきやがってさ……。
頭にきたけど、不器用ながらも女扱いしてくれたのが嬉しかった。所詮女だと見下げる訳でもなく、女だからだと、相応に気を利かせてくれたっつーか。だけど……。
……レグルスって……こんなにいい男……だったんだ……。オッサンなんて言っちまったけど、こうして見ると……オッサンなんて程度じゃない。
おじ様? 初老紳士? 黒の貴族? う〜ん。漆黒の騎士! ……はちょっと違うな。纏依の中でいろんな表現を当てはめてみる。
……何だっていいや。どんだけ年の差があるおじ様でも、俺にとっては……ハンサムダンディーだ。この不気味さ漂う黒々しさも、逆に彼を惹き立てる最高の魅力になって、凄く……。
―――― レグルスが格好いい……。
気が付くと、纏依はまるで引き寄せられるように自分から、彼の口唇に口づけをしていた。
“貴方が能力者でも構わない。怖くなんかない。だからお願いレグルス。どうかどこにも行ってしまわないで。ずっと、ずっと私の傍にいて欲しい……”
意識しながら心で語りかけてみる。聞こえただろうか。心の声が。届いただろうか。私の想いが……。
そうして纏依はゆっくりと口唇を離すと、ふと微笑んでから二階の寝室に戻っていった。
寝室に戻るとしばらく黙考して、掛け布団を捲ると中の毛布を抜き抜こうと引っ張った。
すると。
「某の為ならば不要だ」
の声と共に、背後から抱き竦められた。突然の事に纏依は、ビクリと飛び上がりそうになる。
「あんたには気配ってもんがないのか」
背中でレグルスの温もりと匂いを感じながら言う纏依。
「そなたから起こされてしまったからな。今日は久し振りに神経を使いすぎて少し疲れが出てしまい、つい寝入ってしまったが……せっかくのそなたからの誘い、応えぬ訳にもいくまい?」
「え?」
「某に傍にいて欲しいのであろう? そなたが望むならば、某は決してどこへも行きはせぬ。そなたの傍にいよう。纏依……」
「レグルス……」
纏依は嬉しそうに微笑むと、正面を向いて長身の彼の首に手を回して抱き締めた。が、逆に彼の方が背が高いので抱き上げられる形になってしまった。
抱き締め返すレグルスのお蔭で、纏依の足はブランと宙を浮いている。
「某を受け入れてくれて……感謝する纏依……」
「こちらこそ。こんな俺でいいなら……改めて宜しくなレグルス」
そうしてどちらからともなくキスを交わす。
「……一緒に眠っても構わぬか?」
「う、うん……。でも……」
「案ずるな。まだ某も急かしはせぬ。そこまで色情狂に某が見えるかね」
「いやそんな事ないけど、だって誰かと一緒に寝るのなんて初めてだか、ら!?」
言葉が終わらない内に突然パッと手を離されて、ドサンとベッドの上に落下する纏依。
「だっ!! いきなり手を離すなよ!」
「眠い……」
栗毛色の長髪を振り乱しながら立腹する纏依を他所に、レグルスはボソリと低い声で呟いた。
「……は?」
乱れた髪のまま、キョトンとする纏依。
「……眠らせてくれ」
レグルスが口にした無意識からの吐息雑じりな呟きが、妙に色っぽく聞こえて思わず纏依はドキリとする。
「ん、あ、ああ……」
ドキドキしながら纏依は右端に身を寄せる。
そうして纏依が寄ったのを確認したレグルスは、半眼で眠たげに羽織っていたガウンを脱ぎ捨て、ベッドの中に潜り込む。
三秒だった。
スーっと、あっと言う間に彼は深い眠りに落ちていった。目をパチクリさせる纏依。
「えーーー!? そんなにぃ〜!? そんなにお疲れになられてたんですかぁ〜!? 秒殺だよ瞬く間にだよ! これぞホントの死んだように寝るってヤツだよ。恐るべしだな四十二歳」
纏依は声を押し殺しながら、しっかりツッコミを入れた。そして渋々消灯してからベッドに潜り込むと、恐る恐るとレグルスの広い胸元に身を寄せた。
トクン、トクン、トクン。静寂を包む室内を彼の静かな寝息と共に、鼓動も一緒に響き渡っているかと思えるほど、はっきりと聞こえてくる。
「……おやすみ……レグルス……」
そうして彼にそっと口づけをすると、レグルスに抱き締められるようにその逞しい腕の中にスッポリ収まってから、纏依も眠りに就いた。
誰かが傍らで一緒に寝てくれる喜び。安心感。心地良さ。こんなに、幸せな気分で眠れるなんて、もう長い事二人は忘れていた。
知らなかった。こんな安らぎ。こんな世界が、この世に存在する事を。
二人は広いベッドの上で、寄り添いあって静かに寝入った……。