神様と呼ばれたバケモノ
闇。それは一面に広がっていた。
炎。それは黒い森を焼いていた。
目の前にいるバケモノ。いや、神と偽っていたリザードマンを、ようやくの思いで追い詰めた。妙に輝く翡翠色の瞳でバケモノは睨みつけてくる。威嚇しているつもりだろうが今となっては無駄だ。
「もう、死にやがれ!」
お前には恨みはない。だかな、俺にも生活がある。恨むなら高額の懸賞金をかけた教会を恨みやがれ!
「ダメっ」
剣を振り下げた瞬間、赤い血が飛び散った。肉を裂き、骨を断つ感覚が確かに手から伝わってきた。しかし、それは目当てのものではない。
俺が斬ったもの。それは忌々しいリザードマンの傍にいた女だった。くそ、あれほどしっかりと捕まえておけと言ってたってのに! あいつらはどうしたんだ!
「クソが!」
邪魔しやがって!
あと少しで、あと少しで金が手に入るのに!
やっと、やっとあいつらに楽をさせられる!
女房も、ガキも、俺も苦しむ必要ないんだ!
「レイナ……!」
ハハッ、女が斬られて呆けてやがる。
そんなに女が大切だったのかよ! だったら、お前も一緒に殺してやるよ。
リザードマン、いやバケモノ! 俺の、俺達の、生活のために――
「〈動くな〉」
斬りかかろうとした瞬間だった。バケモノが何かを呟いた。小さな声だった。だが、聞いた途端に身体が動かなくなる。
おかしなことに腕や足どころか、指すらも動かない。このままでは、と危惧を抱いたその時だった。
「怖いか? 怖いよな? なら、もっと怖がれっ」
腕が重たい。思わず目を向けると、腕が灰色に染まっていた。
なんだこりゃあ! 俺の腕が、なんだ? まさか石になっちまったのか!?
クソ、重てぇ! 腕が上がらねぇし、剣も上がらねぇ。
クソ、クソ、クソがァァ!
動け、動けよ! もう少し、もう少しだってのに!
「怖いだろ? 今度は苦しめっ」
おい、なんだその手は。何する気だよ、おい。
待てよ、待ってくれよ。まさか、まさかそんなこと。
やめろ、やめてくれ。そんなことしたら、俺の腕が――
「うがぁあぁぁあああぁぁぁぁぁッッッ」
痛い。痛い。痛い痛い痛い。
腕が、俺の腕が、壊されたっ。
こんな、こんなことって……。
クソ、クソッタレがッ!
「痛いだろ? この子はそれ以上に痛かったんだ」
息ができない。あいつが俺の顔を覗き込んでいるのに、何もできない。
もう少しで掴めたのに。女さえ邪魔しなければ。
クソォォォォォ!
「だから、死んでも文句はないよね?」
冷たい翡翠色の目が、訴えかけてくる。
怒りに染まった目が、問いかけてくる。
ああ、俺は殺されるんだ。
ああ、こんなバケモノに。
クソッタレがぁぁ……。
「もう、いい」
小さな声が、聞こえた。
バケモノの腕の中で横たわる女が、バケモノの顔に手を添えていた。
「私、大丈、夫……、だから……」
バケモノの目の色が変わった。
俺に興味をなくしたのか、それとも殺す気がなくなったのか。腕の中にいる女を見つめていた。
「すまない。本当に、すまない」
逃げなければ。今のうちに、どこか遠くへと。
ああ、くそ。なんでこんな時に腕がないんだっ。立てねぇ!
クソ、クソ、クソォ!
こんなことになるなら、やらなきゃよかったっ……。
◆◆◆◆◆
生きていることがおかしかった。私は元々、死ぬことが決まっていた。
村のみんなが床に伏せたあの日から、決まっていた運命。だから私は、みんなを助けるためにここに来た。
いえ、逃げてきたんだ。だって、あそこには辛いことしなかった。誰も私のことを見てくれない。見ているのは、着飾った私ととても小さな地位だけ。
居場所なんてなかった。必要ともされなかった。
ただのオマケ。それが私だった。
「ダメっ」
でも、神様は何もない私を受け入れてくれた。
ただ寂しかったからだと笑っていたけど、それでも大きな意味があった。
私にとってあなたは、いなくてはいけない人。だから、死なせない。
「レイナ……」
ああ、なんて悲しそうな目をしているんだろう。それじゃあキレイな瞳が、もったいないよ。私は、そんな目は嫌だよ。
もっと笑ってよ。私、まだ下手だけど、笑うから。だから――
「〈動くな〉」
見たこともない目。言葉にするなら、怒りに染まった目を、神様はしている。
私のために怒って、くれたのかな? だとしたら、ちょっと嬉しい。
身体が、優しく抱きしめられる。私は腕の中で、神様の温もりを感じている。最後の最後で、幸せな気分。このまま眠ってしまいたいな。
「うがぁあぁぁあああぁぁぁぁぁッッッ」
でも、叫び声が邪魔をした。おそらく、ううん彼が怒りに任せて咎追いさんを痛めつけているのかも。
このままじゃあ、望まないことになる。なら、止めてあげなきゃ。
「もう、いい」
精一杯、叫んだ。思うように声が出ないけど、それでも叫んだ。
神様は、気づいてくれた。だから、私はその顔に手を添えた。
「私、大丈、夫……、だから……」
神様は、怒っていた。たぶん、私が勝手なことをしたから怒っていた。
でも、その目は不思議と優しいものへと変わっていった。いつものキレイな翡翠色の瞳が、私を見つめてくれている。
「すまない。本当に、すまない」
優しく、頭を撫でてくれる。でもその目は、とても悲しそう。
ああ、どうしてそんな目をするの。私はただ、ただ……。
「長いこと生きてきた。だからこそ、君というめぐり逢いに感謝したい」
神様は、私の頭をもう一度撫でてくれた。
くすぐったい。こんなことになってなきゃ、笑っているのに。
でも、嫌じゃない。今はこのくすぐったさが、温かい。
「レイナ、一つ勝手な約束をする。これから君は、大変な生涯を送るだろう。今までの私なら、望まないことだ。だがそれ以上に――君に死んでほしくない」
神様は、笑った。そう、笑ったんだ。
悲しそうに、その悲しみを隠すように、笑ったんだ。
「私のエゴ。だがそれでも生きて欲しい。だからこそ、どんなに辛くても、どんなに悲しいことがあっても――笑ってくれ」
ああ、なんて勝手なんだ。
ああ、なんて似合わない笑顔なんだ。
神様は勝手だ。私の返事を聞く前に、約束をした。
神様は勝手だ。答えていないのに、満足してしまった。
神様は身勝手だ。それでも私は、約束を交わしてしまった。
「ごめんな。約束、破って」
神様は笑った。
ちょっとだけ、心配になった。
でも私も笑った。
ほんの少しでも、安心してもらいたくて。
「レイナ、生きてくれ」
神様はズルい。とってもズルい。
私が苦労する約束を勝手にして、ズルい。
もし、いつか、この想いを伝えられる時が来たら――私は、思いっきり怒るんだ。
◆◆◆◆◆
どこまでも空が青くて、果てしない大地が広がっている。僕達を乗せる荷車が揺れると、母さんは起き上がった。
いつも、どんなことがあっても、怒っていても笑っているお母さん。だけど、お昼寝から目を覚ますと涙をボロボロと流していた。
「どうしたの?」
怖い夢でも見たのかな? もしそうだったら、どれだけ怖かったんだろう!?
お母さんが泣いちゃう夢なんだ。とっても怖いに決まっている!
「ううん。ちょっと、懐かしくてね」
「なつかしい?」
なつかしいって、夢が?
夢がなつかしいって、どういうことだろう?
「そっか。まだわからないよね」
そういって、お母さんは頭を撫でた。もぉー、子ども扱いするなよ。僕はもうすぐ十歳だぞっ。一人前の男になる年齢なんだぞ!
「ああ、ごめんごめん。嫌いだったね」
「ふんだ。お母さんなんて大っ嫌い」
忘れてたな。だから言ってやった。
お母さんはとても困った顔をする。だけどその顔を隠すように、笑顔を浮かべた。ほんと、いつも笑っているなぁー。
「ごめんね。あ、そうだ。さっきの夢、どんなものか教えようか?」
「そんなんじゃあ、騙されないよ」
「ふぅーん、気にならないんだぁー」
むっ、こいつめ。僕と駆け引きする気だな。いいもん、そっちがそうなら、こっちはこっちで考えがあるもん。
「昔々あるところに、一人ぼっちの神様がいました」
って、勝手に話し始めてる!
「わぁぁぁぁぁ!」
「ふふふ、お前は気になって気になって、仕方がない呪いを受けたのだぁー」
くそー! やってくれたな!
さすが僕のお母さんだ。侮れない!
「あんたらぁ、もうちっとしずかにしてくんのーか?」
「ああ、ごめんなさいっ。もう少ししたら黙らせますから」
「頼むのー。ああ、一応言っとくべが、町が見えんてきたのー」
町! ほんと? どこどこ!?
あっ、ほんとだ! おっきい町がある!
「わぁー」
あれが、この国の中心都市なんだ。今まで見てきた町の中で一番大きいや。
あそこは、一体何があるんだろう。一体どんなことが起きているんだろう。
「ルド」
お母さんが僕を呼んだ。
どうしたんだろう? いつも異常に優しい目をしている。
「お母さんね、ある人と約束したんだ」
「約束?」
「うん。どんなことがあっても、ずっと笑うっていう勝手にされた約束」
「どうしてそんな約束を?」
「ハッキリとはわからない。でも、私を思ってしてくれた約束だと思うんだ」
お母さんはそう言って、僕の身体を抱きしめた。
温かい。どこか覚えのある暖かさだ。
「ルド、約束して。これからとっても大変なことが起きるわ。悲しいこと、怒っちゃうこと、許せないこと。もしかしたら気持ちの整理だってつかないかもしれない。それでも、前を向いて笑って生きて」
「お母さん?」
「あなたは十分に大きくなった。もう私の助けはいらないと思う。でも、それでも大変なことはある。だから、約束して」
別れを言われている気分だった。
なんで、そんなことを言うんだろう。
わからない。わかりたくない。でも、お母さんは離してくれない。
「お母さん……」
「ルドは、やっぱりお母さんの子どもね。なら、勝手に約束するわ」
お母さんは笑った。徐々に、徐々にお母さんは光となって消えていく。
やだよ! なんでこんな……、突然すぎるよ!
『大丈夫。お母さんは消えないよ。あの人と同じように、一緒になるだけ』
「一緒?」
『そう、あなたの中にいるから。だから、泣かないで――』
お母さんが消える。何かが流れ込んでくる。
お母さんはどんな想いを抱いていたのか。お母さんはどうして笑っていたのか。
お母さんにとって世界はどんなものだったのか。お母さんにとってこの約束はどんな意味があったのか。
勝手に渡された力は、お母さんの命を救った。
勝手に渡された力は、お母さんをとても苦しめた。
終わってしまったはずの運命。
それを延長させるために、神様と呼ばれたバケモノは持てる力を明け渡した。
だけど神様から渡された力は、お母さんの身体を壊していった。
危なくて、大きすぎて、とっても怖い。でもお母さんは、僕に渡してくれた。
どうしてなのかわからない。だけど、お母さんは託してくれたんだ。
「どぉーした? 寂しくなったかぁー?」
「ううん、大丈夫。ねぇ、おじさん! 王都って、どんな所?」
勝手な約束をされた。とってもズルい。
勝手すぎると思う。だけど嫌じゃない。
お母さんの約束、絶対に守る。
どんなことがあっても、守る!
◆◆◆◆◆
暖かなひだまり。あの時とは違う雰囲気が広がっている。
とても懐かしい場所。もしかしたら、ここがあの子の心なのかも。
『お疲れ様』
誰かが声をかけてきた。振り返るとそこには、懐かしい人が立っていた。
変わらない笑顔。変わらない温かさ。変わらない優しさ。
何もかもが、懐かしい。
『本当、疲れましたよ』
『満足はできただろう?』
『そんな笑顔には騙されません。でも、その通りかな』
『ハハハッ。それはよかったよ』
『もぉー! あなたのせいで、いらない苦労もしたんですからね!』
神様は笑う。本当に楽しそうに笑う。
もぉー、そんなに笑わないでよ。一体誰のせいで、あんな苦労をしたと思っているの?
『残してきて、よかったのかい?』
神様は笑うのをやめた。とても心配そうな顔をして、私を見つめている。
どう答えてあげればいいだろう。ちょっと考えてみたけど、やめた。
『大丈夫。あの子はあなたと同じキレイな目をしていたもの』
吸い込まれそうになるような美しい翡翠色。神様と同じキレイな瞳。
だから、大丈夫。あの子なら私よりも、神様の力を上手く扱える。
『そうか。君が信じるなら、信じよう』
神様は手を差し出してくれる。私は答えるように手を置き、繋いだ。
一緒に、どこかへ向かって歩き出す。それははてのない旅かもしれない。でも私は、ううん私達はもう戻ることができない。
それでも、約束は守られると信じている。
だって、苦手だった私ができたんだもの。あの子ができないはずはない。
『行こうか』
神様の力。
私の想い。
あの子にとって大きな重荷かもしれない。だけど、それでも私達は信じている。
私達のように、あの子も前を向いて生きていくことを――