シーと風の手紙
《序章、風の声》
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」
(ヨハネの福音書 第1章29節)
大気が怒りに震え始めます。
まだ太陽が地平線へ昇る前から、大気中の塵による光の散乱のため東の空が色づきます。
古びたベージュのカーテンが採光の準備を始めた和室には、畳の上に数冊の文庫本が重ねられ、犬の水飲み用の赤い容器がひとつ置かれていました。
また東の壁に嵌め込まれた大きな茶箪笥の中には、1枚の写真が無造作に飾られています。
アッシュ系のベージュの髪に、Tiffanyのsilverのサークルピアスをしたおとこが、まだほんとうに小さくあどけない顔をした白とゴールド模様の仔犬を、両手でとても大事そうに抱いています。
おとこは嬉しそうに微笑み、仔犬は緊張した面持ちで、おそらくどこかのペットショップで記念に撮られた写真でしょう…
よく見ると重ねられた文庫本のいちばん上に、小さな花模様が描かれたうす青い便箋が置かれていました。
南側の網戸つきのサッシ窓の隙間から、白いレースのカーテンを揺らしながら、ときおり風が入りこんで、うす青い便箋が捲れます。
それはユキヒロくんへ、という宛名から始まる手紙でした。
風がページを捲り、その手紙を涼やかな声で読み始めます…
《第1章、ナオミ先生からの手紙》
ユキヒロくんへ
ほんとうにお久しぶりです。
お元気ですか?
とても懐かしく思います。
あなたの担任をしていたナオミです。
あなたはいつも、わたしの下宿先であった防風林の松林に囲まれた大きな農家に、遊びに来てくれましたね。
浜から届く潮の香りと、自然の匂い…
それは土や草や花や、田んぼや畑や生き物なんかが混ざった懐かしい匂いです。
わたしがこれからこの手紙で伝えることは、すべて事実であり、わたしのつくり話しではありません。
しかしこの事実は、これから日本に起こる重大なできごとの、キッカケになった事件だったと思わずにはいられません。
ユキヒロくん、あなたには伝えておきます。
あの「森」の奥でひっそりと暮らしていた世捨て人のような「森の隠遁者」=村の村長=「森」の主の裁きの始まりを…
ユキヒロくんも知っているとおり、この村の南のはずれの松林に囲まれた人家からも離れた目立たない場所に、ハンセン病施設ができました。
村の住民にも知らされずひそかに工事が進められ、梅雨が訪れる直前に完成しました。
数十人のハンセン病患者が入居をしましたが、ほんの数人のまだ小学生ぐらいの子どももいました。
しばらくすると村の小学校の新米教師だったわたしは、村の村長=「森」の主から秘密裏の誓約書にサインを求められたうえ、施設の子どもたちに勉強を教えることになりました。
わたしはハンセン病がどういう病気かもわからず、最初はとても戸惑いましたが、その容姿を忘れるぐらい、かれらがみなとても美しい心を持った子どもたちであることに気づきました。
みなおとなしく内気ではありましたが、次第に心が通じ合い子どもたちとの交流が、ほんとうにかけがえのないものになりました。
そして、そのハンセン病施設で掃除婦として働いている中年女性のトミエさんから、むかし村で起こったひとつの事件を教えられました。
なぜこのような東北地方の農業しか産業のない小さな村に、ハンセン病施設が設置されたのか?
それはある事件が、キッカケだったとも言えるようですが…
《第2章、掃除婦トミエの話し》
初夏の朝陽が「森」を包んでいました。
白い靄がかかった「森」では、朝を迎える小鳥たちのさまざまなさえずりが響き、風に揺れる樹々がざーと音を立てています。
樹々の隙間からは、白く丸い朝陽の輪が、皆既日食のダイヤモンドリングの瞬きのように光の帯を、あたりを覆う雑草にまで伸ばしていました。
トミエさんは、小学校のクラスでうわさになっていた、最近この村に流れ着き「森」に住むようになった姉妹をひと目見ようと、朝早く起きて「森」までやって来ました。
「森」の奥では、ふたりの姉妹の姿が何度か目撃されています。
奇妙な白い動物と一緒にいるところも、目撃されています…
「森」の朝のざわめきの中、樹々の朝露に濡れた葉が時おり頬を撫で、湿った草の匂いがしました。
しばらく奥へ向かって、けもの道のような小路を短い雑草を踏みしめながら進むと、樹々がいくぶん開けた場所に、三角屋根の薄い緑色のテントが張られていました。
小鳥たちのさえずりが激しく、テントの中の会話は聞こえませんでしたが…
うわさでのふたりの姉妹は、姉は黒く長い髪の細身でとても美しい娘ですが、妹は子どものようにとても小柄で、いつも薄茶色の布袋をかぶり顔を隠しているという…
トミエさんは、その対照的な姉妹がテントから出てくるのを、正面の木陰に隠れて待つことにしました。
しばらく振りの「森」は、生命力に漲っていました。
どこか懐かしい匂いもします。
登り始めた太陽の木漏れ日に、汗をかき始めました。
しばらくすると、テントの入り口がめくられ静かに姉妹が出て来ました。
うわさ通り、姉は艶やかな黒く長い髪のとても整った顔をした細身の身体です。
そして妹は、やはり子どものように小柄で薄茶色の布袋をかぶっていました。
ふたりは、けもの道のような小路を「森」の奥へと歩き始めました。
「森」の奥には、赤いトタン屋根の平屋建ての木造家屋がありました。
そこにこの村の村長=「森」の主が、住んでいます。
姉が、家屋の玄関脇の水道の蛇口脇に置かれていた、大き目の洗面容器に水を注ぎ、黒く長い髪を洗い始めます。
姉が終わると、今度は妹が常にかぶっていた薄茶色の布袋に手をかけました。
トミエさんは息を呑みます…
驚きました。
黒人のように強く縮れた短い髪に、異様に発達した大きなひたいです。
肌も焦げ茶色でした。
姉が洗面容器にいっぱいの水を溜めると、妹の短い髪を洗い始めます。
それは、姉妹の親密な関係をあらわしていました。
姉は異様な容姿の妹を、慈しむんでいるようです。
その時です、玄関の扉が開いて村の村長=「森」の主が姿をあらわしました。
しかし、いくぶん登った白い朝陽が、かれの顔を反射させて容姿がよく見えません。
村の村長=「森」の主は、お盆に乗せたおにぎりと湯呑み茶碗を玄関脇へ置くと、ひと言声をかけて家の中へすぐに戻りました。
姉と妹が頭を下げ、白いタオルで濡れた髪を拭きながら、海苔の巻いていない白米だけのおにぎりを楽しそうに食べ始めます。
艶やかな黒く長い髪の娘と、異様な容姿の妹の姿は、とても不思議ではありましたが微笑ましい光景でした。
食事を終えると姉妹は、庭に咲く赤い花を摘み、「森」へと戻って行きました。
「森」に消える瞬間、突風が吹き樹々が異様にざわめきました。
《第3章、トミエの懺悔》
姉妹が「森」へ消えると、トミエさんは急いで家に戻りました。
とても興奮していました。
クラスでうわさの姉妹の正体を、確認できたのです。
中学校へ通う姉のヨウコさんに、「森」で目撃した姉妹の詳細を誇らしげに話しました。
その日の夕方です。
阿武隈山地のなだらかな稜線に夕陽が沈む頃、村の不良少年グループの数人が集まりました。
仲間のヨウコから「森」の姉妹について詳しい話しを聞き、興味を持ちました。
とくに黒く長い髪の美しい姉に、興味を持ちました。
まわそうぜ
………
紺碧色の満月の夜になり、不良少年たちは「森」へ入りました。
「森」の上の夜空には、何十年億年もかけて届いた星たちの光が瞬き、今夜は流れ星がやけに多く流れます。
いま思えば、それは星たちの流した涙だったのかもしれません…
翌朝、スズメのさえずりを聞きながら、田んぼの様子を見に来た百姓の老人が、金色の稲穂が靡く田んぼの真ん中の盛り土の上に立つ「一本松」に、異様なものを感じました。
やけにカラスが多いのう
………
朝陽を浴びて眩い「一本松」の枝に、何かがぶら下がっています。
(「一本松」とは、おとなの男が両手をひろげても届かないほどの皺の重なる太い幹に、3つの太い枝が伸びて傘のように聳えている1本の松の木です)
それは「一本松」の3つに分かれた太い枝のうち、子どもたちからはその先がとても見晴らしのよい頂きへとつながることから「展望台」と呼ばれていた太い枝に、ひとりの若い娘が、縄をかけて首を吊っていたのです。
生気を失った黒く長い髪が垂れ下がり、白い肌着だけの脚の付け根から細い太ももにかけて、血が流れた跡が残っています。
それは、朝陽に包まれたほふられた白い子羊のようでした…
百姓の老人は、腰を抜かしそうになりながら慌てて家に戻り、家族のものがすぐに警察へ連絡をしました。
首を吊ったのは、「森」で妹と暮らしていた艶やかな黒く長い髪のあの美しい娘でした。
警察が駆けつける前に、村の村長=「森」の主が騒ぎを察して飛んで来ました。
娘の憐れな姿を見て涙を流し、すぐに枝から白い肌着だけの細い身体を地面に下ろし、やわらかな毛布をかけました。
警察は現場検証も済ませていないのに、勝手な行動をした村の村長=「森」の主を咎めましたが、常に冷静な彼が、珍しく声を荒げて言い放ちました。
きたない手でさわるな
「森」の裁きを受けたいのか
………
その後、不良少年グループのリーダー格の少年が、村の有力な地主の息子であったためか、不良少年たちは証拠不十分で不起訴処分になりました。
姉妹のうち残った妹は、異様に大きく発達したひたいが、やはり籟病(ハンセン病)ではないかと疑われました。
すぐに県の役人が調査に訪れましたが、すでに妹は姿を眩ませていました。
どこを探しても、見つからなかったと言います。
トミエさんはこの事件を受けて、長く寝込みました。
自分の軽はずみで、中学生の姉に「森」に住む姉妹のことを漏らしたために、このような悲劇を生んでしまいました。
胸が裂けるような後悔の涙を流し、ようやく起き上がれるようになると、村の村長=「森」の主の強い意向で「森」の中に埋葬された姉の小さな墓を訪れました。
花を手向け両手を合わせると、あのとき慈しみながら妹の縮れた髪を洗い、おにぎりを嬉しそうに頬張っていた姉妹の姿が蘇り、また涙が頬を伝わります。
ほ、ほんとうにごめんなさい
………
するとそのとき、頬を撫でるような風を感じました。
豊潤な樹々に覆われ昼間でもやや薄暗い樹々の隙間から、じっと彼女を見つめる視線を感じます。
どうやら白い動物です。
樹々の木漏れ日の中に顔をあらわすと、それは血に染まった白い子羊でした。
彼女は悲鳴をあげました。
しかし、どこかしら澄んだ優しげな眼差しでした…
《終章、「森」の決意》
夕陽が、阿武隈山地のなだらかな稜線に隠れようとしています。
田んぼの真ん中の盛り土の上に聳える「一本松」は、東日本大震災の津波にも耐えて残りました。
「一本松」の下には、ひとりのおとこと一匹の子犬が、傘のように広がる太い枝を見上げています。
夕陽にアッシュブラウンの髪とTiffanyのsilverのサークルピアスが反射し、小型犬の白とゴールドの体毛も眩く輝いています。
おとこは、一本の太い枝に手を添えました。
それはあの姉妹の姉が縄をかけた「展望台」と呼ばれている太い枝でした。
小型犬がワン、とひとつ吠えました。
「森」の中に、先ほどのアッシュブラウンの髪にTiffanyのsilverのサークルピアスのおとこと、白とゴールドの体毛の小型犬がやって来ました。
すでに雑草に覆われた小さな盛り土の前、それはあの姉妹の姉の墓の前にいます。
ここでも小型犬がワン、とひとつ吠えました。
シー
ありがとう
おとこは、愛犬のシーズーのシーに語りかけます。
シー
「森」の声が聴こえてくるよ
樹々が風に揺れました。
むかし子ども頃、この「森」の奥からピアノの音色が聴こえました。
今でも耳を澄ませば、聴こえて来そうです…
「森」の奥の、かつて村の村長=「森」の主が住んでいた赤錆びたトタン屋根の平屋建ての庭…
そこにはいちめん、灌木のような子供の背丈ほどもある背の高い植物「トゥゴマ」の、棘のある赤い紡錘形の実がみのっていました。
ついに「森」の声が動き始めます…
ぜひ評価、感想、レビューをお願いいたします
今後のためにもぜひ忌憚のない評価、感想をお聞かせください