4 眠れる男性を起こしました(注・正直、姫じゃなくてがっかりしてます)
再びベロニカを駆って、ゆっくりと山を下る。マルティナは魚をくわえてどこかに姿を消していたけれど、アンドリューはまだ私の肩の上だ。
少し眠くなってしまい、ふわぁ、とあくびをする。目に滲んだ涙を指先で拭い、再び前を向いた。
「……ん?」
景色がぼやけている。
涙のせいかと、もう一度目をこすったけれど、それでも視界はぼやけたままだ。
「霧だわ……嫌だ、ここはどこ?」
いつの間にか、知らない道に迷い込んでいた。
霧に包まれた木々は捻れた不思議な形をしていて、見覚えがない。先が見通せないので、どちらが山頂でどちらが屋敷のある麓なのか、わからない。
私はいったん、ベロニカから降りた。彼女が顔をすりつけてくるので、首を叩いて落ち着かせる。
「大丈夫よ。少し、霧が晴れるまで待ってみようか。……ん?」
霧の奥から、ナーーーーオゥ……という鳴き声が聞こえる。
「マルティナ? もしかして、道を教えてくれてるとか」
アンドリューも落ち着いている。危険はなさそうだ。
私はベロニカの手綱を引き、鳴き声のした方に歩き始めた。
捻れた木々は、進むにつれてだんだんと細いものになり、捻れ具合は強くなる。そしてついに、道の両脇はトゲの生えたイバラに埋め尽くされた。
「うちの領地に、こんな場所があったなんて。……マルティナ? どこ?」
声を上げてみると、不意に前方の霧の中からマルティナが姿を現した。私のお腹にぐりぐりと頭をこすりつけてくる様子が愛らしく、ホッとすると同時にデレデレしてしまう。
「あぁもう可愛い、よーしよしよしよしよし」
首や頭をわしゃわしゃ撫でると、彼女は向きを変えて元来た方へ数歩戻り、こちらをちらりと振り向いた。
「はいはい、ついて行けばいいのね?」
私は当然、可愛いマルティナの言うなりである。
しばらく彼女について歩いていくと、不意に風が吹き、霧が吹き散らされた。
視界が広がる。
「……あっ」
私は目を見開いて、それを見上げた。
「城……!?」
目の前に、古い城があったのだ。
とても小さな城で、いくつもの塔の集合体のような形をしている。おそらく、一番古そうに見える四階建ての物見の塔に、後から増築していったのだろう。
そして、その城にはイバラがびっしりと絡みついていた。
「こんな場所に、城があったなんて。オーデン王国時代のものかしら……」
私はもう一度ベロニカに乗って、城の周りをぐるりと一周してみた。
かつて畑だったらしき場所は、雑草がぼうぼうに生えている。厩舎や納屋、ごく小さな礼拝堂も雑草に埋もれ、あるいはツタが絡みついている。
そしてとにかく、母屋といっていいのか城本体が、イバラでガッチガチに縛り上げられているのが異様だった。窓や扉がチラチラと見えているものの、人間が入れる隙間はない。
最上階の窓はかろうじてイバラが届いていなかったけれど、たとえそこが開いていても、外壁はとても上れる状態ではなかった。
「ちょっと、変な絡まり方をしてるわね、このイバラ。……魔法の気配がする」
自分の領地なのに今までこの城に気づかなかったのも、魔法が関わっているせいかもしれない。
試しに手を伸ばして、イバラに触ってみた。カチン、と爪の当たる音。
(見た目は植物なのに、固い。金属みたい。ちぎるどころか、これじゃあ隙間さえ広げられないわ)
「……やってみようか」
私は右手を掲げ、精霊語を唱えた。
〈トーサム・キ・ストメーロ!〉
右手を中心にそよ風が渦を巻き、ふわぁっと広がって、城の周りを取り巻く。
風の精霊語による呪文だ。
グルダシアは、女性が帯剣することを禁じている。けれどその代わりに、女性たちは身を守るための精霊魔法を身につけるのが普通だった。……形式上は。
精霊魔法を操るために必要な精霊語は、かなり難解である。ほとんどの女性たちはいくつかの丸暗記できる文章を、呪文として覚えているだけだ。せいぜい、擦り傷の治りが早くなる程度の回復呪文と、暑さ寒さを緩和する程度の防御呪文、夜に眠りを促す呪文くらいのものだろうか。
男性はそもそも、そんな『おまじない』など女のやることだと思っていて、学ばない。
けれど、私の母、祖母、そして曾祖母は、ちょっと違った。というか、曾祖母の家庭教師だった女性が、変わり者だったらしい。
「身を守るために精霊魔法を覚えるなら、攻撃が最大の防御に決まっております」
という、いわば魔法過激派だったのだ。……いや、それもどうかと思うけれど。
とにかくその、よく言えば進歩的と言えなくもない女家庭教師は、曾祖母に徹底的に精霊魔法を叩き込んだ。その知識が、私まで連綿と受け継がれているのだ。
父の母、つまり母にとっての義母が、「女は男の後ろに下がって控えめに生きるべし」という人だったので、母が強力な魔法を使えることは隠されて知られていない。
母は父と婚約する時、ようやく父に打ち明けたそうだ。そして父は、母が豪快な火魔法をぶちかますのを見て、母にぞっこんになったそうである。……父の好みはよくわからない。
とにかく、母が娘の私に魔法を教えることを、父は快く受け入れた。
母は火の精霊語と光の精霊語が得意だったけれど、私は土の精霊語が得意でそればっかり覚えたので、他の分野は苦手だ。
「私、回復魔法も、もっとちゃんと勉強しておけばよかったわ」
母は、病床で父にそう言って苦笑した。
廊下でそれを立ち聞きしてしまった私は、雷に打たれたように感じた。
土魔法ばかりで遊んでいないで、水にまつわる回復魔法をちゃんと勉強していれば、母を救えたかもしれない。いや、まだ間に合うかもしれない。
けれど、師である母さえ回復魔法は得意ではなく、私一人で研究したところで、重い病気が母の命を食い尽くすまでに間に合うはずがなかった──
──今、私が唱えた精霊語の呪文に従って、風は城の周囲をくるくる回りながら隙間を探している。城の中に入って空気を動かし、清めようとしているのだ。この程度なら、私も風魔法が操れる。
やがて、すうっ、と風が城の中に吹き込むのを感じた。
「あっちね」
馬を走らせると、城の裏手に木戸があるのを見つけた。木戸にもイバラは絡みついているのだけれど、木戸に作られた鉄格子の小窓から、風は入り込んだようだ。
ベロニカから降りると、私は木戸に近づいた。アンドリューは肩に乗ったままじっとしていて、逃げない。マルティナも私に身体をぴったり寄せてついてくる。
(心強いわ)
私は木戸にかかったイバラに触れた。やはり、ここだけはイバラが動く。
そして、ちゃんと触ってみるとわかるけれど、やはりイバラに土の精霊魔法がかかっているのが感じられた。かなり昔にかけられた魔法で、それなりの年月を持ちこたえられる程度には強力だったようだけれど、とうとうほころびてきている、という状態だ。
私は思い切って、ぐっ、とイバラを両脇によけ隙間を広げた。木戸の取っ手をつかみ、引っ張る。
戸はきしみながら、ゆっくりと開いた。
木戸から入ってすぐの台に、ランプがいくつもゴチャッと置かれている。
私はランプの一つを手に取った。風を短く、鋭く横切らせて摩擦を起こし、火を点す。
そこは使用人たちの区域のようで、狭い廊下を歩いていくと厨房や洗濯場があった。すっかり寂れていて、いかにも廃墟、という感じである。
「……もぬけのカラね。ここはいつからこうなのかしら」
ひょっとして死体が転がっていたり、などと考えていたけれど、その様子はない。幽霊も出ない。ネズミ一匹、出ない。
廊下の突き当たり、半開きの扉を抜けると、城の正面ホールに出た。窓がイバラでふさがれているので、暗い。
「あ」
私はふと、天井を降り仰いだ。
優美なカーブを描く階段、その上の方の壁に窓が切られている。上の方の窓はイバラにふさがれておらず、外に一番古い物見の塔が見えた。何となく、その灰色の塔が気になった。
ホールの奥に短い廊下があり、その先は壁が石積みのものに変わっている。ここからが、あの灰色の塔のようだ。
ランプを掲げ、階段を上っていく。各階に一つずつ部屋があったけれど、鍵がかかっていた。
最上階にたどり着くと、そこにも扉がひとつ。取っ手をつかんでみると、あっさりと開く。
中は、豪奢で美しい部屋だった。窓が大きく、家具の金の装飾や鏡が光を反射するせいか、ランプがいらないほど明るい。
そして、城の他の場所に比べて、ここは不思議と寂れた空気がなかった。今現在、誰かが暮らしているかのような雰囲気がある。
ぐるりと見回すと、奥の壁際に、天蓋付きのベッドがあった。垂れ下がった紗の中、盛り上がった影が見える。
(誰か、いる)
イバラの城のベッドに横たわる人影、ときたら、お姫様が定番だ。でも、これはおとぎ話ではなく現実なのだから、そうとは限らない。
(ううん、それとも、本当にお姫様だったり……?)
ごく、と喉を鳴らした私は、入り口脇のチェストの上にランプを置いて深呼吸した。そして、右手を前に出し、すぐに呪文を唱えられるようにしながら、ゆっくりとベッドに近づいた。
左手で慎重に、紗を開く。
──ベッドに横たわっていたのは、若い男性だった。
(何だ、男か)
正直ガッカリして、私はため息をついた。
(男と関わるのは、もうこりごりなんだけど。まぁ、綺麗なお姫様がいたところで、私に何ができるわけでもないか。こっちは王子様じゃないんだから)
静かに、男性の左手側の枕元に近づいてみる。マルティナが彼に顔を近づけ、フンフンと匂いを嗅いだ。ヒゲが彼の頬をくすぐらないように、そっと彼女の頭を撫でて押さえながら、観察する。
癖のある茶色の髪は、ところどころ金色の筋が入っていて変わっている。目は閉じられ、長いまつげが影を落としていた。白いシャツに乗馬用のズボンとブーツを身につけている。
(魔法がかかってる……)
私には、彼をシャボン玉のように包む魔法がうっすらと見えた。眠っているうえに、彼の過ごす時間は極端にゆっくりしたものになっている。『時間』と『眠り』にまつわる魔法だろう。
つまり、彼は生きていた。胸も、ごく緩やかに上下している。
鼻筋は通り、薄い唇はうっすらと開かれて、まるで神様の彫像のように美しい。二十歳前後くらいかなと思うけれど、眠っているせいかその表情は無防備で、少年のようにも見える。
……ものっすごく、怪しい。
(どうしてこんなところで一人、ぐーすか寝てるのよ。まさか罪人? だって城は出入りできなかったものね、閉じこめられてたわけよね。怪しい。ひたすら怪しい)
おとぎ話の眠り姫に、王子はよくキスできたな、と思う。大罪人だったり、私みたいな怪しい魔法使い(自分で言うのも何だけれど)だったりしたらどうするのか。それとも、姫自身が自分にキスするように魔法をかけていたとか?
とにかくこの男性、見なかったことにしたいけれど、そういうわけにもいかない。
(屋敷に戻って、誰か呼んできた方がいいかしら……)
そう思いながらも、この男性についての手がかりが他にないかと、私はあたりを見渡した。
ベッドのヘッドボードは物を置けるようになっており、そこに数冊の本がある。私は上半身を乗り出し、本に手を伸ばした。
その時、うっかり、垂れ下がった紗を右足が踏んだ。よろめき、片手を男性の頭のすぐ脇につく。
ぱちん。
魔法のシャボンが、はじけた。
(しまった)
ハッとして見下ろすと──
──ふっ、と、男性の目が開いた。
金色の瞳が、私を見る。ゆっくりと、瞬く。
「…………」
黙ったままの彼は、私から視線を離さない。
「…………」
私にも、特に言うことはない。
(って、それじゃダメよね。ええっと……。何か、この場にふさわしい言葉は)
私はとっさに、思いついた言葉を言った。
「……お、おはよう」
──沈黙が流れた。
(だって、眠っていた人が起きた時にかける、王道の言葉でしょうよ!)
だいぶ間抜けだけれど、これ以外の言葉が見つからなかったんだから仕方がない。
「…………」
彼は、瞼を半分落としたまま、視線を動かした。小さく「クァ」と声を上げたアンドリューと、ゴロゴロと喉を鳴らすマルティナを見つめ、また私に視線を戻す。
そして、微笑んだのだ。
(……?)
眠っているだけでも美しかった顔が、目覚めて、動いて微笑む。なかなかの破壊力である。
目を離すことができずに見つめていると、彼は左の肘をついてゆるゆると身体を起こし──
右手を伸ばして、私の頭を引き寄せた。
彼の顔が近づく。
唇に、しっとりとした感触が当たった。
キスされたのだ。
彼は、丁寧に私の唇を堪能し、そしてそっと顔を離すと、また微笑んだ。とても、幸せそうに。
私は、微笑みを返した。
そして、右手を高く掲げ──
腹の底から声を出した。
〈サブ・イラム、フォルブ・ヤーロッ!〉
土の精霊語の呪文によって、木製のベッドが生き物のようにバイーンと跳ね上がった。
「うわ!?」
ポーンと宙を飛んだ男性は、落ちてきたところで角度のついたベッドに勢いよくはじかれる。壁にべしゃっと激突した彼は、「んぎっ」とかいう変な声を上げてずるずる滑り落ち、床でのびてしまった。
私は軽く手を振ってベッドを元に戻しながら、言い捨てた。
「どうぞごゆっくり、二度寝を楽しんでちょうだい」