2 婚約破棄をしました(注・あくまでも私から)
「……何ですって?」
私は目を見開いた。
コベックはゆがんだ笑みを浮かべる。
「君が僕の子を産んで、その子が御父上の公爵位を継ぐ、というのが当然だったはずだ。それなのに、侯爵家の次男で爵位も継がない僕と、今や女公爵の君が、結婚? 女が上の立場の結婚なんて、僕にとってみっともないじゃないか。そうだろう?」
「みっともない……?」
「だから、君から陛下に言ってくれればいい。『もっとふさわしい家柄の人と結婚したい』と。実際、その方がいいだろう? 何もおかしいことじゃない。僕の父も、君から言われれば納得せざるを得ない。何しろ君は、僕の父よりも身分が高いんだからね」
「待って」
私は思わず、一歩踏み出した。
「どうしてそんなこと言うの? 私、きっと、あなたが支えてくれるって」
「君を支える? 逆だ、と申し上げているんですよ、オーデン公。僕は、僕を立てて、支えてくれる人を妻にしたいんです」
急に口調を変えたコベックは、まるで私がものわかりの悪い女であるかのように、困ったような笑みを浮かべた。
「いや、でもよくわかります、オーデン公も支えがほしいというのは」
「そうよ、それなら」
「どうでしょう、百戦錬磨の年上の男に、色々と相談してみては? 実はネート公爵が、ルナータとゆっくり話をしてみたいと客室でお待ちなんです」
私はようやく、今の状況を理解した。
婚約者に一方的にフラれた上、他の男を勝手に世話されようとしている。父とほとんど年齢の変わらない男を。
認めよう。本当はずっと、イヤな予感から目を逸らしていた。
私が爵位を継ぐという話が出て以来、コベックと連絡が取りにくくなっていたのだ。手紙を書いてもなかなか返事が来ず、たまに来てもそっけなく、ひとことふたことだけ。
覚悟しているべきだったのに。
「さぁ、お連れしましょう」
気取って手を差し出すコベックは、どこか得意そうだ。うまく行ったと思っている……何が? 私を差し出すことでネート公爵から見返りでもあるんだろうか?
――急に、表面を取り繕っている自分が滑稽に感じられた。
(ここは、キレてもいい場面ではないかしら? そうよね?)
「……わかったわ、コベック」
私は微笑んだ。
コベックも、ホッとしたように笑みを返す。
「さすがはオーデン公、賢くておいでだ。それでは、ネート公爵のところに──」
「待って。最後に、私からの贈り物を受け取ってほしいの」
私は、スッと左足を一歩引いた。右手の平を、コベックに向けて突き出す。
(まさか、こんなことで役に立つなんてね。ずっと勉強してきた精霊語が)
土の精霊に向けて、私は言葉を放った。
〈ドレヴェーネ・ゴル・ナインズ、コルド!〉
グワッ、と二人の間の地面が盛り上がって割れ、木の根がねじり合いながら宙を走った。
「へっ⁉」
目を見開いたコベックのお腹に、まるで拳のような形の木の根の固まりが突っ込んだ。
「がふっ!」
まともに吹っ飛ばされた彼は、私がさっき出てきたテラスから、広間の中へと一直線に突っ込む。
ドシーンガシャーンという物音と、何人かの悲鳴が上がるのを聞きながら、私は右手をひらりと払った。木の根が地中に戻っていく。
ゆっくりと彼の後を追って広間に入っていくと、人の輪の中心にコベックがひっくり返っていた。飲み物の置かれていたテーブルをなぎ倒したらしく、白いシャツは赤い葡萄酒まみれ、ご自慢の高い鼻の先からも鼻血のように垂れている。いや、あれは本当に鼻血かもしれない。
(コベック。あなたのお望み通りにしてあげるわ)
呆然とする彼の脇に立って、私は周囲の人々に微笑みかけた。ゆったりと語りかける。
「お騒がせしまして、ごめんなさい。……コベック」
彼を見下ろすと、コベックはビクッと身体を引いた。
私は笑みを崩さない。
「あなたの身分もそうだけど……やっぱりこの有様では、ねえ。あなたが私を支えるなんて、とうてい無理みたいね。婚約は、解消しましょう。……あなたに良縁がありますように」
呆然としている彼を置き去りに、私は身を翻し、大広間を出る。ホールから城の正面扉を堂々と出ていくと、私に気づいた人たちが次々と首を垂れる。
〈ふん。大事なところを踏みつぶしてやればよかったわ〉
うっかり精霊語で言ったためか、土の精霊たちが反応し、私が踏んだ跡にそってバキバキと地割れを起こした。周囲の人たちが小さく悲鳴を上げるのも聞こえたけれど、知ったことじゃない。
一人、馬車に乗り、王都のノストナ家のタウンハウスに戻った。
待っていた侍女のセティスが着替えを手伝おうとするのを断り、一人で部屋に入る。ランプをつけないまま、窓のカーテンを開ける。
夜空の月は細く、弱弱しく世界を照らしていた。
「…………」
私はいったん息を整えてから、静かに天国の父に語りかける。
「お父様、ごめんなさい。婚約は解消しました」
しかも、私の方が居丈高にコベックを捨てるところを、人々に見せつけるようにして。
「人前で男性に恥をかかせたのだから、今後も結婚のお話は来ないと思うわ。お父様がいただいたオーデン公爵位は二代で終わりです」
カーテンをそのままに踵を返し、鏡台の前に行く。
椅子に座ると、鏡の中から地味な女がこちらを見つめ返した。
きっちりまとめた銀の髪、おとなし気な藍色の瞳。ドレスは今日のために公爵として恥ずかしくないものを新調し、なおかつ他の人たちを刺激しないよう落ち着いたデザインにしたのだった。大して効果はなかったようだけれど。
悔しさが沸き起こり、目頭が熱くなる。
「いいのよこれでっ。あんな人と結婚したら不幸になる! 私は間違ってない! うわあああん!」
鏡台に倒れ伏し、私はひとしきり泣いて泣いて泣きまくった。
(早く領地に戻ろう。もう男なんてこりごり。私にはあの子たちがいるんだから!)
がば、と私は起きあがる。
「可愛いニノとトーマスとエバとクララとブランコとアンドリューとマルティナ! すぐに帰るわ、待っててね!」